――どうして……どうしてこんなにも優しいの……?
リティスは彼らの愛息子の閨係だ。
普通なら気まずいだろうし、業務的に接するのなら、和やかさなど一切排除するはず。
初恋の第二王子の両親と、閨係として対面してお茶をする。
本当にどういう状況なのだろう、これは。
なぜだか冷や汗が出てくる。
王妃が淹れてくれた紅茶はとてもおいしいのだろうが、味など分かるはずもなかった。
「リティスさんは、クルシュナー男爵家の政務に関わっていらしたとか?」
にこやかなユレイナの問いかけに、リティスは頷いて応じる。
「政務というほどのことではございませんが。私はただですら複雑な立場だったので、何かできることはないかと考えたまでで……救貧院のバザーに出品するレース編みを作っていたくらいです」
「あら、レース編みがお得意なのね? 羨ましいわ、わたくしは手先が器用じゃなくて。令嬢の嗜みとされている刺繍も、若い頃は本当に苦労したものよ……」
王妃は話し上手だった。
リティスが気詰まりに感じないよう話題を振ってくれるし、そこに悪意や棘を感じさせない軽やかさがある。
それはケインズも同様だった。
「そう卑下せずとも、ユレイナは魔法の手を持っているじゃないか。――リティスさん、この温室に咲いている花はね、全て彼女が管理しているのだよ」
「そうなのですか?」
自慢げに秘密を明かすケインズに、リティスは純粋に驚いた。
天井が高く、どこまでも続いているような温室。
この全てを管理するとなれば、庭師に匹敵するほどの重労働だろう。
改めて温室内を見回していると、ユレイナが拗ねた声音を漏らした。
「いやね、あなたったら。庭師に手伝ってもらっているのだから、そのように大げさな言い振りをされると恥ずかしいわ」
「責任者であることは事実じゃないか。それに、丹精込めて育てた花が咲いたと喜ぶ君は、いつもやり甲斐に満ちていて愛おしいのだよ」
「もう、いつまで経っても口説き癖が治らないのだから……」
「私が口説くのは、何十年経とうと君だけだよ」
――あ、甘ぁぁぁい……‼
夫婦の痴話げんかが甘すぎて、リティスは内心身悶えた。
これが日常会話なら、アイザックも常に愛の語らいを聞きながら成長したことになる。彼が両親とどのように接しているのか、急に気になってきた。
頬が赤くなるのを堪えていると、王妃はリティスに自然と水を向けた。
「うちのアイザックは、私的な場ではお世辞の一つも言わないのだけれど、あなたに対してはきっとケインズのように優しいのでしょうね」
リティスは、ティーカップを取ろうとしたまま硬直する。
ユレイナがにこやかに続けた。
「リティスさんは、あの子のことをどう思っているのかしら? 身贔屓かもしれないけれど、真面目だし一途だし、顔立ちも整っている方でしょう?」
リティスはごくりと喉を鳴らした。
国王夫妻の瞳は、やけに期待に輝いている。
……きた。
これだ。やはりこれが本題だったのだ。
リティスは何でもないふりを取り繕い、優雅に微笑んだ。
「――殿下は、とても素質があると愚考いたします」
アイザックとの閨での現状。
正直、特筆すべきことは何も起こっていない。
けれど、彼の両親が期待する返答ができなければ、リティスは解雇されてしまう。
それならば、一つも嘘をつかずに――けむに巻くまで。
リティスの切り返しに、国王夫妻はなぜかぽかんとしていた。
「そしつ……」
リティスは毅然とした表情を崩さず、さらに畳みかける。
「はい。振る舞いはごく紳士的であり、一つ一つの動作も丁寧です。極めれば、どのような女性でも殿下の虜となるのではないでしょうか」
「きわめれば……」
「とりこ……」
完璧だ。
アイザックを語る上で何一つ嘘をついていない、けれど核心に触れてもいない、針の穴に糸を通すような模範解答。
リティスはそう自負しているのだが、国王夫妻はいつまでも呆然としている。まるで、虚無から帰って来られないかのように。
次第に不安になってきた。
やはり、誤魔化そうとしていることを見抜かれてしまったのだろうか。
閨係不適格の烙印を押されてしまうのだろうか――……。
不安の陰りから俯くリティスは、近付いて来る人物がいることに、気付くのが遅れた。
「肝が据わったあの母上を、まさかここまで翻弄する者が現れるとは……」
小さく忍び笑いを漏らす声。
穏やかで深みのある声に、リティスはそっと顔を上げる。
その男性は、淡い色の金髪に、灰色を帯びた青い瞳をしていた。面立ちはアイザックに似通った部分もあるけれど、柔和な表情が全くの別人に見せている。
アイザックの兄で王太子でもある、ルードルフだった。
「父上も母上も、ずいぶん勝手なことをしましたね。アイザックに無断でクルシュナー夫人と会うなんて……この事実を知れば、すぐにもあいつが飛んで来るでしょうね」
ルードルフの台詞でようやく目が覚めたのか、国王夫妻がハッと我に返る。
彼らはアイザックの名前を聞いた途端、にわかに慌てだした。
「まさか、アイザックに伝えてはいないだろうね?」
「さぁ、どうでしょうか」
「ひどいわ、ルードルフったら。私達は少しでも息子の力になりたいと思っただけで、決してリティスさんの思いを探ろうなんて下世話なことは……」
「こうして呼びつけて彼女に迷惑をかけている時点で、アイザックにとっては等しく邪魔立て行為だと思いますよ。解散するなら今の内ですが、念のため怒られる準備はしておいた方がいいでしょうね」
親子が軽快にやり取りする間も、リティスは突如乱入した王太子を見つめ続ける。
アイザックが怜悧な美貌だとしたら、ルードルフは繊細で上品な美貌。
――似ているのに、とても対照的なご兄弟だわ……。
そうして熱心に観察していると、灰色を帯びた青い瞳がこちらを向いた。
ルードルフと真っ向から目が合い、リティスは小さく肩を跳ね上げる。
「クルシュナー夫人、年寄りの戯れに付き合わせてすまなかったね。ぜひ、宮を出るところまで案内させてほしい」
彼は微笑み、優雅に手を差し伸べた。
国王夫妻の追及から逃がしてくれるというなら、非常に助かる。
助かるのだが、その相手もまた王族。
閨係不適格の宣告は回避できるものの、王太子を案内に使うなどあまりに恐れ多い。
けれど、エスコートのための手まで差し出されてしまえば、リティスに断るという選択肢はなかった。
「……よろしくお願いいたします」
ルードルフの手に自らの手を重ね、リティスは静かに立ち上がった。
今、自分の笑顔は引きつっていないだろうか。
国王夫妻に辞去を告げると、彼らは揃って表情を曇らせた。
今度は正式な茶会に招待したいという誘いを受け、これもまた何とか笑顔を保ったまま頷いておく。
リティスは温室を出て、ルードルフと共に回廊を進んだ。
背中にスズネや執事達の気配はあるが、残念ながらそこそこの距離を感じる。ほとんど王太子と二人きりのような状況だった。
……緊迫の展開が、いつまで経っても終わってくれない。
重い沈黙に気まずくなっていると、おもむろにルードルフが口を開いた。
「クルシュナー夫人、改めて挨拶を。アイザックの兄のルードルフだ。長い付き合いになるかもしれないから、ルードルフでも義兄でも、気軽に呼んでほしい」
――あ、あにって……ルードルフ殿下なりの冗談なのかしら……?
名前で呼ぶことすら不敬なのに、国王夫妻といい、やや友好的すぎるのではないだろうか。長い付き合いになるかもというのもよく分からない。
選択を迫られても困るので、リティスは話題を変えることにした。
「その、ご多忙の中、お時間を割いていただきありがとうございます。たいへん恐縮にございます」
伝えそびれていた感謝の言葉で、誤魔化されてくれないだろうか。
内心で必死になって念じていると、ルードルフは柔らかく微笑んだ。
「実は、アイザックに頼まれたのだよ。本当は私に頼むなど不本意だったようだが、今はどうしても外せないから、自分の代わりにあなたと両親を引き離してほしいとね」
リティスは意表を突かれて目を瞬かせた。
つまり、アイザック経由でルードルフにまで情報が回ったということか。
口振りから、国王夫妻はリティスの呼び出しを息子に知られるのを恐れているようだったが、既に手遅れだったというわけだ。
彼らの質問をのらりくらりとかわしていた、ルードルフの胆力に恐れ入る。
すっかり固まってしまったリティスを見て、彼は小さく噴き出した。
「本当に……聞いていた通りの女性らしい」
何がおかしいのか、ルードルフは楽しそうに笑い続ける。
リティスは不思議に思いつつ、彼の横顔をじっと見つめた。屈託のない笑い方を見ていると、やはりアイザックと兄弟なのだと実感する。
笑いを収めたルードルフは、どこかいたずらっぽい目でリティスを見下ろした。
「生真面目で嘘がない。そのせいでどこか抜けているから、目が離せないと」
伝聞系で語られる内容は、リティスについてだろうか。
両者の間に通じる者といえば、該当するのは一人しかいない。
「アイザック様が、そのようなことを?」
生真面目と評されるのは分かる。
我ながら融通の利かない性格だと思うから。
けれど、どこか抜けている?
その上、目が離せない?
何だか自分のことではないようで、リティスは内心混乱していた。
アイザックは、どのような顔でそう言ったのだろう。
想像すると頬が熱くなる。
「それは、人違いなのでは……」
「信じられないか? あいつはあなたに対して、実に過保護だよ。――ほら」
ルードルフに促され、リティスは前方に視線を送る。
いつの間にか出口に近付いていたらしい。回廊は途切れ、リティス達は天井の高いエントランスにいた。
開かれた扉の向こう、空は既に橙色を帯びている。
燃えるような日差しを背後に従え、誰かが立っていた。
顔が陰になって見えなくても、輝く銀髪のおかげでリティスには分かった。