まだ夜の気配が残る早朝。
リティスは出仕していくアイザックを見送ると、睡魔に負けて仮眠をとることにした。
仮眠にしては十分すぎるほど眠っていたらしく、次に起きる頃にはすっかり昼時になっていた。おかげですっきり爽快だ。
リティスはベッドから身を起こし、清々しく伸びをする。
「これが、朝になるまで愛し合った……ということなのね」
「――違うと思います」
独りごちた言葉を、バッサリと切り捨てる声。
リティスは肩を跳ね上げ、寝ぼけ眼を瞬時に覚醒させた。
「おはようございます、クルシュナー様」
「お、おはよう……スズネさん」
早くなる心臓を宥めながら、リティスも朝の挨拶を返す。
一体いつからそこにいたのだろう。スズネは、いつもと変わらぬ無表情で部屋の扉口に立っていた。
独り言を聞かれてしまったばつの悪さはあるものの、それより先ほど返ってきた否定の方が気になる。
せっかく朝までアイザックと一緒にいられたのに、これは愛し合ったことにならないというのか。大抵の恋愛小説では、鳥のさえずりは閨の成功の証なのに。
「えぇと、スズネさんは気付いていないかもしれないけれど、アイザック様は今日こちらから出仕されたのよ?」
もしかしたら、彼女の主人が朝方までこの部屋にいたことを知らないのではないか。
やんわり問いかけるも、スズネはむしろ半眼になった。
「今朝方、殿下とは扉の外でお会いしました。その際に見受けられたのは目の下の色濃いくまと、隠しきれぬ疲労。削られた精神力と、そこはかとない哀愁……朝になるまで愛し合った、とは思えませんでしたが」
「えぇ……?」
疲労の原因は、間違いなく徹夜をした点にあるだろう。
多忙なアイザックに無理をさせてしまったことは、申し訳なく思う。
だが、削られた精神力? 果ては哀愁?
リティスの指南書によると、幸せいっぱいで活力すら湧いてくるとのことだったのに、それはさすがにおかしい。
「あぁ、そうだわ。ものの本によると、閨が激しすぎる場合、一日中横になっていないと回復しないほど疲弊するらしいの。そのせいで精神的にもお辛くなったのかも……」
口にする内に、それこそが正解のような気がしてきた。
リティスは納得と共に何度も頷く。
けれど、スズネの半眼が戻ることはなく。
「……クルシュナー様。あなた様のおっしゃる『ものの本』とやらは、徹頭徹尾間違っているように思います。残念ながら、今後は参考にすべきではないかと」
「えぇ……⁉」
ここに来てまさかの、指南書の全否定。
リティスは愕然と体を震わせた。
「そ、そんな馬鹿な……」
もしかしたら、と不安がよぎることはあった。
何度も閨を失敗しているのだ、何か根本的な原因があるのではないかと思っていた。
恋愛小説は参考書として不向き……という事実から、目を逸らしていたかったのだ。
「それなら私は、今後どうすれば……」
「――差し出がましいかもしれませんが、私がご助言差し上げましょう」
こぼれた弱音に、スズネが即座に応じる。
それは、不安を晴らすような強い響きを持っていた。
頭を抱えていたリティスは、ゆっくりと顔を上げる。
いつの間にかベッドサイドにまで近付いていた彼女の、真っ直ぐな視線とぶつかる。
凛と涼やかな、スズネの黒い瞳。
揺らぐことのないその眼差しに、リティスは呆然と頷いていた。
「あ、ありがとう……」
「まぁ、その場合、色々と夢見がちな殿下のご機嫌を損ねてしまうかもしれないという懸念はありますが……私は、万事においてクルシュナー様を優先するよう命じられております。あなた様をお支えするのも、心の平穏に努めることも、大切な任務ですので」
スズネは任務だからというが、王宮で雇用されている彼女が王族よりリティスを優先するなんて、なかなかできることではない。確かにその点においては、アイザックが不機嫌になる可能性もあるだろう。
それなのに、嬉しいと感じてしまう。
孤軍奮闘も当然のことだと受け入れていたのに、力強い味方ができたような。
『リティスはいつもそうやって、思い出したように壁を作ろうとする』
リティスはふと、昨晩のアイザックの言葉を思い出した。
自分ではそんなつもりはなかったけれど、迷惑にならないように、機嫌を損ねないように振る舞うのが日常だったから、相手がどう感じるかなど考えたこともなかった。
その遠慮が壁だとするなら、壊すことができるのもまた、自分だけだ。
「……いつも気にかけてくれて、本当にありがとう。あなたがいてくれるから、私はここで頑張れているのよ――スズネ」
リティスが日頃の感謝を告げると、彼女は僅かに目を瞬かせた。
けれどすぐに普段の無表情に戻り、スズネは踵を返す。
「まずは、クルシュナー様……リティス様が参考にしていらした『ものの本』とやらに、目を通すところからはじめましょうか」
「えっ、えっ、そんな、恥ずかしいわ。それに借りものだし……」
「いつまた殿下とお会いすることになるか分からないのですから、そのようなことを言っていられないでしょう。私は朝食の用意をしてまいりますので、リティス様はベッドの下に隠している書物のご準備を」
「そんな無慈悲な……!」
しかも恋愛小説の隠し場所まで知られていたとは。二重で恥ずかしい。
せっかくスズネが名前で呼んでくれたのに、感動している暇もなかった。もっと二人で微笑み合うなど、心温まる展開が待っていると思っていたのに。
――色々な意味で大きな前進だと思っていたのに、するっと流されているわ……。
そこもまたスズネらしいというべきか。
退室していく背中を見つめ、リティスはそっと笑みを落とす。
そうして、ベッドサイドのチェストから、丁寧に折りたたまれた手巾を取り出す。
白い手巾の端には鷲の刺繍が施されている。うららかな日差しの中できらりと輝く、銀色の鷲だ。
リティスは束の間、静かな面持ちでそれを眺めた。
◇ ◆ ◇
いつもと変わらぬ日常、と呼べるようになってきた、穏やかな午後のひと時。
スズネに目の前で恋愛小説を朗読されたり、駄目出しをされたりといった辱めを受けながらも楽しく過ごしていた時間は、突如として終わりを告げる。
「ここに書かれている閨の描写が参考にならないとしたら、具体的に何が正解なの?」
「それはもう、殿下にお聞きくださいとしか……」
「私は閨係として、事前に知らなければならないと思うの。お願いよ、スズネ――……」
「――クルシュナー様!」
扉の外から、リティスを呼ぶ焦った声。
人の気配がほとんど感じられないこの宮で、初めてスズネ以外の声音を聞いた。
目を丸くして固まるリティスの正面で、スズネが苛立たしげに立ち上がる。
「ご安心を、メイド仲間です。全く、危急時以外はリティス様との接触を最低限にするよう命じられているというのに……」
ぶつぶつと口内で文句を言いながら、彼女は応対に向かっていく。
なぜ危急時以外の接触を最低限にするよう命じられているのか――という疑問と共に、リティスを色々な意味で置き去りにして。
急に目まぐるしい展開がはじまりそうな気がしてきた。
リティスはいけないと知りつつ、扉の向こうに耳をそばだてる。
僅かに開いた扉からでは、小声での会話はほとんど聞き取れない。けれど、どこか焦っているかのように早口だ。
よほどの事態――つまり、今が危急時なのかもしれない。
会話を終えたスズネが室内に戻ってくる。
無表情だが、普段足音一つ立てない彼女にしては慌ただしい雰囲気だった。
「リティス様……落ち着いてお聞きください」
切り出し方がもう不穏だ。
リティスは固唾を呑みながら頷く。
「お呼び出しがありました。もし時間が空いているようなら、これからお茶をご一緒しないかと――国王陛下並びに、王妃殿下から」