「――先日、クルシュナー男爵と面会した」
ベッドの端に腰を下ろし、手近にあったショールで露出を抑えていたリティスは、アイザックの言葉に目を見開いた。
彼らの下を離れてまだ一ヶ月も経っていないのに、やけに懐かしく感じる。
どこまでも穏やかなトマスに、快活でしっかり者のエマ。いつまでも仲睦まじい夫婦。
彼らの子ども達も元気にしているだろうか。いつものように勉強から逃げ回っているのだろうか。こっそり恋愛小説を読んだり、おやつを取り合ったりしているのだろうか。
リティスの不在を、寂しがってはいないだろうか――……。
男爵家で過ごした日々が一瞬で脳裏を駆け巡るも、慌てて我に返る。
「あ……男爵様に、エマさん――夫人も、お元気そうでしたか?」
急いたように問うリティスに、アイザックはふと眦を緩めた。
「夫婦共に、リティスをいたく心配していたらしい。問題ないと伝えたところ、とても安心したようだった」
心配してくれたのか。
だからわざわざ、アイザックに面会を申し込んでくれた?
こっそり喜びを噛み締めていると、薄闇に笑い声が響く。
アイザックは頬杖をつき、優しげにリティスを観察していた。
「……本当に、親しくしていたのだな。クルシュナー男爵家にいる間、楽しくやれていたようでよかった」
「え……」
なぜ彼が嬉しそうにするのだろう。
リティスはそわそわと、やけに落ち着かない気持ちになった。
柔らかな表情を向けられると、経験豊富な未亡人の演技がおろそかになってしまう。
胸を温かなもので撫でられたような、それでいて甘く締め付けられるような、不思議な感覚に戸惑う。
――あぁ、でも……初めてじゃないわ、この感じ……。
温かなものに包まれているような心地よさ、幸福感。
少女だった頃のリティスは、それを何度も味わっていた。
アイザックの瞳に映っているだけで。
彼が笑い声を上げるだけで。
リティスはいつだって恋に落ちていた。
あのくすぐったくて柔らかな感情が、鮮明に甦る。
穏やかなアイザックと向き合っていると、あの頃の思いまで息を吹き返していくみたいだった。
すると対比のように、今の自分の醜さが浮き彫りになっていく。
リティスの中に常にある、せめて細い繋がりにすがっていたいという、焦りにも似た感情。
いつか別れの時が来るとしても、幸せになれなくても、体だけでも結ばれたかった。思いを遂げたかった。
なんて身勝手で、浅ましい思い。淀んだ未練。
――そうだわ……初めの頃は、ただ純粋に思っていただけだった……いつかアイザック様に正式な婚約者ができるなんてことも、考えていなかった。嫉妬することも、独占欲が湧くこともなくて……。
好き。
アイザックが真っ直ぐ進んでいくところを見ていたい。
いつだって健やかでありますように、笑っていられますように。彼の上に、たくさんの幸福が訪れますように。
ただ、それだけでよかったはずなのに……。
いかにも経験豊富そうに振る舞っていた自分が、途端に恥ずかしくなった。
こんなふうに無理やりその気にさせようとして、アイザックの気持ちも考えず。
あられもない格好も今となっては滑稽に思え、リティスはショールの胸元をきつく握り直した。
一方、アイザックはさらに優しい言葉を重ねる。
「……実は、ずっと気にかけていた。クルシュナー男爵家でのリティスの立場は、どのようなものだろうかと。もしお前が苦しんでいるのなら、俺にできることはないか……と」
リティスはひどく意気消沈していたから、彼の言葉に込められた熱意に気付く余裕がなかった。
羞恥心やら罪悪感やらを押し殺し、ひたすら冷静に答える。
「クルシュナー男爵家には、優しく素敵な人しかいらっしゃいません。主家の方々も、それに仕える使用人のみなさまも、本当に素晴らしくて。おこがましい表現ですが……私は家族というものに、あの家で初めて触れたような気がします」
本当の意味での家族というものを、彼らから学んだ。
いつだって互いを思い遣り、尊重する。血の繋がりということではなく、ただ温かいだけの関係。そこに立ち位置の上下もなかった。
アイザックは、また嬉しそうに相好を崩した。
「向こうも同じように話していたぞ。リティスがおこがましいなどと言っていたら、それこそ申し訳ないと思うが?」
「けれど私は、ただ厄介になっていただけですし……」
せめて少しでも役に立たねばと、書類仕事を手伝っていた。救貧院に寄付するレース編みを熱心に作っていたのも、同じ理由だ。
温かな家庭が縁遠かっただけに、どうすれば少しでも長く一緒にいられるのか、分からなかった。
追い出されたくなくて、いつもどこかに不安があった。
「男爵家の方々は、みなさん優しいのです。困っている者を見れば、どこの誰が相手でも手を差し伸べることができる。とても慈悲深い方々なのです」
「そうか? トマスという男は、穏やかながら抜け目のない感じもしたが……」
アイザックはちらりと微妙な顔を見せたが、気を取り直すように首を振った。
「おそらく、はじめから優しくはなかっただろう。何せ、四十歳以上も年の離れた、先代男爵の若い妻だからな。彼らも警戒していたはずだ」
そう言われても、リティスは実感が湧かなかった。
一日三回きちんと食事が出る。寝床も、毎日のドレスも清潔なもの。いない者のように扱われない。
リティスにはそれだけで贅沢なことだったから。
アイザックは続ける。
「だが、ずっと警戒し続けるには、リティスはあまりに純粋だ。真面目だし控えめで、思慮深い……そういった点を知っていく内に、男爵一家もだんだん絆されていったのではないか? お前の誠実な人柄は、長年付き合いのある俺が保証する」
「アイザック様……」
気取らない朗らかな笑みは、まるで少年のようで。
リティスはつい親しげに呼んでしまったことに気付き、慌てて口を押さえる。
「あ……たいへん失礼いたしました、殿下」
謝罪をして顔を上げると、アイザックはふて腐れたような仏頂面になっていた。
「リティスはいつもそうやって、思い出したように壁を作ろうとする」
彼は立ち上がると、ずんずんベッドに近付いてくる。
リティスはその動向を戦々恐々と見守った。
どさり。
アイザックがリティスの隣に、乱暴に腰を下ろした。
拍子に、ベッドが大きく揺れる。
「幼い頃の距離感に戻れたようだと、喜んでいるのは俺だけなのか? リティスはもう、俺のことなどどうだっていいと?」
「え? えっと、そのようなことは……」
「では、以前のように名を呼んでくれ。それくらい、望んだっていいだろう?」
「ですが……昔と今では、あまりに何もかもが違います」
互いの立場も、重ねた歳月も。
彼も同じように感じていたことが嬉しいのに、素直に頷くことができない。
やんわりと固辞するリティスに、アイザックはぐいと顔を寄せた。
「違うと思っているのはお前だけだ。それに、心のままにすればいいと言ったのはリティスの方だぞ」
「そ、れは……」
確かについ先ほど口にしたばかりだが。
自分の発言が首を絞めることになるとは思っていなかったので、リティスは口ごもることしかできない。
困りはしても、決して嫌なわけではない。
そこが何よりの問題だった。
本音を言えば……嬉しいと思ってしまっている。
アイザックがさらに身を乗り出す。
彼の青い瞳に映る、自分の姿さえ見えそうな近さ。
「…………ア、アイザック様……」
これ以上は耐えられないと、リティスは必死に声を絞り出した。きっと顔は真っ赤になっている。
アイザックは至近距離のまま、満足そうに頷いた。
「どうかリティスも、これからは心を偽らないでくれないか。……俺達は、一度離れた。失った歳月を取り戻すことはできないが、互いの努力で埋めることはできる。俺はそう信じたいのだ」
「――」
真摯な光を宿した瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
決して抗えないアイザックの吸引力。
彼は決断を促すように、リティスに手を差し伸べる。
目が覚める思いだった。
あの頃に戻ることはできない。
けれど彼は、新たな関係を築けばいいと教えてくれた。
政略結婚を理由に別れた日から、やり直せばいいと。
少しずつ対話を重ね、互いの過去を知り、思いを知り……補い合えばいいのだと。
アイザックが差し伸べた手に、リティスは震える手を載せた。
「わ、わ、私も……知りたい、です。お別れしてから、アイザック様がどのような方と出会い、どのように過ごしていたのか……」
自分の思いをアイザックに伝える。
これだけのことに、たいへんな労力がいった。
『……もう今後、会うことはできません』
気持ちを偽り、素っ気ない言葉を投げ放ったあの日、あの場所から。
やり直すのだと、ありったけの勇気を振り絞って。
震えに気付いているのだろう。
アイザックは僅かに目を細めながら、じっとリティスの手を見下ろしていた。
彼はほんの一瞬だけ、手に力を込める。
それは、思いの丈をぶつけるような強さだった。
「――お前の本音が聞けて、嬉しい」
次の瞬間には、アイザックは先ほどまでと同じ穏やかさで微笑んでいる。そうして、適切な距離に身を引く。
近すぎる体温に緊張していたリティスの体から、無意識に力が抜けた。
いつの間にか、彼の眼差しの熱に気圧されていたようだ。
けれど、眩しい笑みを浮かべる姿は慣れ親しんだアイザックそのままだったので、リティスは安心して笑い返すことができた。
「今夜はたくさん話そう、互いの知りたいことを」
「はいっ」
その晩はアイザックの宣言通り、空白の時間を埋めるように多くのことを語り合った。
食の好みの変化や現在の趣味など、本当に些細なことまで。
――そうして二人は、初めて寝ずに夜を過ごしたのだ。