ホットチョコレートに入れたブランデー、たった数滴での自滅。
前回に引き続きの失敗で挫けかけたリティスだが、それでもまだめげるわけにはいかない。
今回は打ち解けてきたスズネにも相談し、作戦を練った。
閨が失敗続きというのは彼女にもしっかり悟られているので、もはや恥も外聞もない。
おそらくスズネには、とんでもなく間抜けな閨係だと呆れられていることだろう。だがそれ以上に、朝に一人で目覚めて憐みの視線を送られる気まずさは、もう二度と味わいたくなかった。
スズネいわく。男性とは、普段と異なる状況に新鮮さを感じるものだという。
確かに恋愛小説でも、そういった描写があった気がする。喧嘩をしたあとはいつもより熱く燃え上がったとか、馬車の中だというのに冷静さをかなぐり捨てて、とか。
けれどそれは、常日頃から親密な関係を築き上げているからこそ、有効な手段となるのではないだろうか。
特別な関係性にないリティスがアイザックに仕掛けたところで、そもそも気にもされない。恋人同士でも何でもない、ただの閨係なのだから……という、控えめだがごく真っ当な意見は黙殺された。理不尽だ。
そんな彼女が用意したのは、非日常的な衣装。
一体なぜそんな衣装を持っているのか訊いたところ『ありとあらゆる状況に対応できるよう、全てクルシュナー様のためにご用意させていただきました』と、スズネはどこかやりきった顔で頷いていた。
有能な侍女とは、ここまで先を見越しているものなのか。
何だか彼女の趣味に付き合わされているような、弄ばれているような気がしなくもない。
しかも、その衣装が大胆すぎた。
上流階級に属する女性なら誰もが躊躇してしまうような、際どい格好。堅実に慎ましく生きてきたリティスには、当然難易度が高すぎる。
迷った。何か越えてはならない一線を越えてしまうような気がして、散々迷った。夜着とはまた違った恥ずかしさがある。
だが、リティスにはもうあとがないのだ。
閨係とは、本来秘めごとを手解きする者。
どれほど際どくても大胆でも、閨自体より淫らなことはないはず。それならば、何を躊躇することがあるのか。
リティスはついに覚悟を決めた。
◇ ◆ ◇
その五日後。アイザックからお呼びがかかると、リティスはすぐさまスズネが用意した衣装に袖を通した。
いつも案内される部屋の前で、一度深呼吸。
どれほど恥ずかしくても、今日もまた経験豊富な未亡人を演じなければならない。この程度の衣装、当然のような顔で着こなさなければ。
リティスは颯爽と足を踏み出す。
それに合わせて、しゃらりと涼やかな音が鳴った。
「リティス……?」
アイザックは予想通り、呆然と硬直していた。
リティスの瞳の色に合わせた、若葉色のベール。金糸の刺繍が全体を彩る、透け感のある絹の衣装。腰に巻き付けた金色の布地の裾側には、金貨のような飾りがみっしりと縫い付けられており、歩くたびに音を奏でるものの正体はこれだった。
額を飾る大胆なヘッドドレスの中央部には涙型の宝石が輝き、首や耳の飾りも揃いの意匠だ。髪飾りや指輪も華美な造りで、まさに絢爛豪華。
遠い南にある砂漠の国には、国王のために造られた女の園があるらしい。
そこはハレムと呼ばれ、華やかかつ大胆な衣装を身にまとった女性が集い、常に美を競っているのだという。
リティスが着ているのは、まさにそのハレム風衣装だった。
興味深い文化だと思う。
女性に慎み深さを求めるベルンダート王国とは、全く異なる考え方だ。
だが、上下に分かれた絹の衣装は、腹部に布地がなく――腰骨やへそが露出して、さすがに煽情的すぎる気がする。
先ほどから微動だにしていないアイザックも、リティスの隠れていない部分に、目線がくぎ付けになっている。
隠したい。本当はベッドに潜り込んでしまいたい。
それでもリティスは、微塵も恥じらっていないふうを装い、髪を背中に流した。
「どうでしょう、殿下。今宵は少々趣向を変えてみました。灼熱の国での、めくるめく一夜をなぞらえ、いつもより熱く燃え上がりましょう」
もう、自分でも何を言っているのか分からない。
この状況でどう平静を保てばいいのか。泣きたい。
一方で、アイザックもまた苦悩を色濃く宿した表情に変わっていた。
「……試練? ある意味試練なのか、これは……?」
よろめくように一歩後ろに下がったかと思うと、彼は両手で顔を覆ってしまった。
「いや、まだだ……まだ段階を踏まなければ……今後のことを考えればこそ、一時の欲に負けるわけには……」
何やらぶつぶつと呟いているが、くぐもっていてうまく聞き取れない。
リティスはアイザックが心配になった。
もしかしたら、体調が悪いのかもしれない。リティスのあられもない衣装が、彼の気力にとどめを刺してしまったのかもしれない。
だとしたら申し訳ないやら情けないやら。
――やっぱり、似合っていないということよね……。
きらびやかな宝飾品達が、途端にずっしりと重くなったような気がした。
スズネは似合うと言ってくれたが、あれは単なる励ましだったのだろう。
もはやリティスの方も勇気がしぼんで、閨を続けられるような気持ちではなくなってしまった。
しおしおと項垂れながら、力なくベッドを叩く。
「……殿下。どうぞ横になり、ゆっくりとお休みください……」
促すとアイザックはぎょっとし、なぜかやたらと狼狽えはじめた。
「なっ、いや、さすがに、その格好で共寝をするとなると、俺としても自制が……!」
「我慢なさらないでください、殿下」
「ぐぅ……‼」
アイザックが、辛そうに胸を抑える。
もしやかなり具合が悪いのだろうか。
彼はベッドにふらふら近付いたかと思うと、今度は何かに耐えるように離れていく。
葛藤が見て取れる足取り。よほどリティスに弱みを見せたくないのだろう。または、閨教育も勉学の一環と考え、休むわけにはいかないと考えているか。
「……殿下。お心がけは立派にございますが、無理をなさる必要はございません。どうかお心のままになさってください」
「そ、それでは歯止めが利かなくなってしまうだろう……っ」
「たまには、ご自分を甘やかしてもいいのでは?」
「いや……自制心を失い、獣と成り果てるわけにはいかない。大切だからこそ、こういったことは……」
「獣……ですか? 疲労時に休息をとるのは、いたって普通の行動かと思いますが……」
「…………んん?」
あちこちに視線を彷徨わせていたアイザックが、束の間の静寂を破りこちらを振り向いた。怪訝そうな眼差しに、リティスも首を傾げて返す。
「疲れていらっしゃるのでしたら、どうか我慢なさらずお休みになってください。学ぶ機会はいくらでもございますが、殿下の大切な御身は、たった一つしかないのですから」
リティスは休息をとるよう、再度説得を繰り返す。
すると、こちらを見つめたまましばらく放心していたアイザックが、突然その場にへたり込んだ。
「でっ、殿下⁉」
「これは天罰なのか……」
「な、何のことですか⁉」
「いや、何でもない……。疲れてなどいないさ。あぁ、全く」
アイザックはよろけながらも、緩慢な動作で立ち上がる。
それでも頑なにベッドには座ろうとせず、一人ソファに腰を落ち着けた。
「話を……リティスと話をせねばならないと思ったのだ。今夜ははじめから、それが目的で会いに来た」
「そうだったのですね……。思い違いをしてしまい、たいへん申し訳ございませんでした」
「いや、お前が謝ることでもないのだが……」
彼はもごもごと気まずげに呟いたあと、気持ちを切り替えるように咳払いをした。