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第10話 クルシュナー男爵との密談

 面会を行う応接間には、いくつか候補がある内、さほど広くない場所を選んだ。

 ごく私的な接見だし、第三者の目を気にせず向き合える個室の方が、密談には最適だ。

 アイザックが入室すると、既にクルシュナー男爵が席についていた。彼はこちらに気付くなり立ち上がって礼をとる。

「顔を上げてくれ、クルシュナー男爵」

「この度、拝謁の機会を賜り恐悦至極に存じます、トマス・クルシュナーと申します」

 個室の中には彼以外の姿がない。従者も連れていないようで、あちら側も完全に内密の話をする態勢だ。こうなってくると書記官を置いてきて正解だった。

「堅苦しい挨拶は抜きでいい。互いに楽に話そう」

「はっ。ありがたき幸せにございます」

 アイザックは応接用のソファに座ると、彼にも着席を促した。

 そうして、トマス・クルシュナーを改めて観察する。

 四十代の、髭を生やした穏やかな紳士だった。物腰も柔らかく落ち着いた雰囲気だが、貴族というより商人としての気質が強いのか、理知的な瞳の奥で様々なことを計算しているふうに見受けられる。

 向こうも同じように、アイザックの人となりを観察しているのだろう。

 しばらくは紅茶を嗜みながら、互いに当たり障りのない話題を上げる。

 アイザックは短い会話の中で、問題のない人柄だと判断した。

 頭の回転は速いが、決してずる賢いわけではない。政治について述べる際も、自身の考えをしっかりと持ちながらも、柔軟な構えを見せた。

 誠実で、押し付けがましくない。

 今回の面会希望も私利私欲のためではなく、トマスなりの理由があったに違いなかった。

「……リティスは、元気にやっているでしょうか?」

 彼は穏やかな笑みで、ついに本題を切り出した。

「私の妻は彼女と親しくしていたので、今も気を揉んでいるのですよ。『リティスには幸せになってもらいたい』と、まるで血の繋がった姉のように」

 トマスは、リティスが閨係として招聘されたことを把握している。

 彼女が辛い目に遭っていないか、いつ頃役目から解放されるのか。知りたいのはその辺りのことだろう。

 とはいえ、あまり赤裸々に語るのもどうなのか。

 何と答えるのが正解だろうかと一瞬考え……アイザックは誠実に対応することにした。

 彼は、リティスがどのような心持ちで閨係を引き受けたか、知っているかもしれない。

 アイザックだって知りたい。

 それは、彼女を思えばこそだ。

 同じようにリティスを大切に思っている相手に、駆け引きなど必要なかった。

「――リティスは己の務めに、懸命に励んでいる。体調にも問題ないので、安心してほしい」

「懸命に……ですか」

 トマスは安堵するはずが、何とも微妙な表情になった。

 居心地が悪そうな、申し訳なさそうな。

 彼はもぞもぞと顎髭をいじり、いくらかの躊躇ののち、口を開いた。

「彼女が嫁いできた頃、先代男爵である父は既に高齢でした。……殿下が手紙でお知りになりたいとおっしゃっていたのも、その点ではないでしょうか?」

 アイザックの心臓が跳ねる。

 そうだ。それが知りたかった。

 いかにも手慣れた雰囲気でありながら、どこかぎこちないリティス。

 彼女の知識の抜け。老男爵と結婚したからには、気のせいだと思っていたが――……。

「これはあくまで、私の妻の所見ですが。一般的な貴族の令嬢ならば、結婚に関することは母親から聞かされる場合が多いそうです。ですが、彼女は早くに実母を亡くしております。そして、後妻との関係を考えますと……」

 トマスは明言こそしない。

 けれど、それはつまり。

 これまでの彼女の言動の全てが、腑に落ちた気がした。

 アイザックは深々と息を吐き出すと、ソファの背もたれに深く体を預けた。整えていた髪もぐしゃぐしゃに掻き回す。

 トマスの戸惑う気配を感じるが、客人の前とて取り繕う気になれなかった。

 どう反応していいのか分からない。

 ホッとするのも、喜ぶのも違うと思うのに、勝手に口角が上がってしまう。

 子どもの頃から、ずっとリティスを思ってきた。

 リティスもまた、アイザックを好きでいてくれているものだと、当然のように思っていた。だからそれが間違いだったと気付かされた時、ひどく絶望したのだ。

 けれど、閨係としての素養がないにもかかわらず、リティスが役目を受け入れたのだとしたら。

 ……自惚れではないと、少しは期待していいのだろうか。

 彼女の心も、いつだってこちらを向いていたと。アイザックと同じように、他の誰にも譲りたくないという思いで、閨係を引き受けたのだと――……。

 まだ本人に確かめたわけでもないのに、嬉しすぎて心臓が痛い。

 今なら何でもできそうな気がする。隙あらば見合いを勧めてくる重臣達の手を取って、ダンスだって踊れそうだ。見合い自体は断固拒否するが。

 浮かれきっていたアイザックは、ふと忍び笑いを聞きとがめる。

 ソファの正面で、トマスが苦しそうに肩を揺らしていた。

「……男爵?」

「あぁ、これは失礼いたしました。辣腕で万事そつがない殿下も、恋の前には一人の男になってしまうのだと、あまりに微笑ましく……」

「……馬鹿にしているだろう」

「いいえ、喜ばしく思いました。きっと我が妻も、胸を撫で下ろすことでしょう」

 そう口にするトマスは、本当に晴れ晴れとした表情を浮かべていた。

「リティスの心を、大切にしてやってください。彼女はこれまでの人生、多くの者に傷付けられてきた。それを癒やしてくださるのが殿下であれば――と、願ってやみません」

 アイザックは、面会の希望を疑ってかかったことを、改めて申し訳なく思った。

 トマスの温かな眼差しを見ていれば分かる。

 他意などなく、ただリティスを案じていること。彼の妻もまた、きっと家族のように彼女を思っているということ。

「そうだな……私も、そのために努力を続けるつもりだ」

 アイザックは微笑み、きっぱりと宣言する。

 リティスにとっての家族なら、こちらの意志を明確に伝えておいた方がいい。

 トマスは満足げに頷いた。

「――殿下がそうおっしゃってくださるのなら、私も安心してこれをお出しできます」

 彼が懐からおもむろに取り出したのは、黒地に金の箔が捺された、手の平ほどの大きさの本だった。鍵をかける様式なので、手帳か日記だろう。

「これは、父の遺品を整理する際に見つけたものです。寝室の隠し金庫に、厳重に保管されておりました」

 きっかけは、老男爵が死亡した直後の、執事の不審な動きだったという。

 先代男爵が全幅の信頼を置いていた執事が、密かに寝室に侵入して処分しようとしたものが、これだった。

 しかもその金庫の鍵は、男爵家が代々受け継いできた鍵束の中にはないものだった。執事だけがその鍵を隠し持っていたのだ。

「中身はおそらく裏帳簿でしょう。額面が大きすぎるので、男爵家の商会内で収まる規模ではありません。ただ、扱っていたものも、取引相手も不明です。日付と金の動きが書いてあるだけなのです」

「その執事は何と?」

「一切口を割らないまま、自死しました。あらかじめ、そのための毒を所持していたようで。そこから調査は手詰まり状態でした」

 裏帳簿の実態は分からずとも、クルシュナー男爵家が不正を働いていたのは事実だろう。

 この帳簿の存在を明かすだけでも相当の覚悟が必要だったに違いない。

「……悪事を行っていたのは、あくまで先代。証拠も不明瞭である以上、今の司法でトマスを罪に問うのは難しい。陛下への報告はするが、不正があったことを自ら明かした誠実さに免じて、おそらく不問となされるだろう」

「恩情に感謝いたします」

 トマスは静かに頭を下げる。

 議会も裁判所もあるものの、貴族が犯した罪を裁くのは国王の役割だ。

 父も同じ結論になることは容易に想像がついた。

「だが、なぜこれを私に? 不正の可能性があること以外、ここから読み取れるものはない。私を経由する必要はなかったはずだ」

 どうしても罪を白日の下にさらしたいというなら、直接国王に陳情する方が早い。

 疑問を受け、トマスは深刻な顔で黙り込む。

 アイザックは嫌な予感がした。

「……こちらが、最近になって見つかったのです」

 ようやく口を開いたトマスが、何かをテーブルに置いた。

 それは、金製の懐中時計だった。

「先代男爵は、例の執事に様々な私物を持たせておりました。嗅ぎ煙草入れに、マッチケース、カードケース……この懐中時計も、父ではなく執事が所持しておりました」

 執事の自死後、当然彼の私物も調べられている。

 だがそれらのものは、当時の執事の恋人が、こっそり持ち出していた。

 ほとぼりが冷めたら売り払うつもりだったと供述しているらしい。

 アイザックは懐中時計を手に取った。

 取り立てて不審な点はないと蓋を開き――そのまま硬直する。

 ブドウと猫の刻印。

 それは、レイゼンブルグ侯爵家の家紋だった。

 上位者の家紋が刻まれたものを下位の者へ下げ渡す行為は、信頼の表れでもある。

 ――それに、そうだ……なぜリティスは、クルシュナー男爵に嫁ぐこととなった……?

 これまで、リティスが望まぬ結婚を強いられたことにばかり目を向けていたが、そもそもなぜクルシュナー男爵でなければならなかったのか。

 貴族同士の結婚に政略が絡むのはほとんど必然で、そこは家同士の事情によるものだと言われれば、それ以上の追及は難しい。

 とはいえ、家同士の繋がりを、対外的にも密にする必要があったとすれば?

 ……クルシュナー男爵家とレイゼンブルグ侯爵家の繋がりは、穏健派という一点のみのはずだった。

 だが、クルシュナー男爵家の規模では収まりきらない、闇取引の帳簿がある。

 そこに、位の高い何者かの後ろ盾があったとしたら――……。

 にわかにきな臭くなってきた話に、アイザックは知らず不快な汗を握った。





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