「――アイザック殿下」
回廊を進むアイザックを引き留めたのは、それほど面識のない初老の男性だった。
供を連れており、装いも洗練されている。十中八九貴族だろう。
アイザックは書記官に書類を預け、目顔だけで執務室に戻るよう促した。
執務室がある翼棟を出て、比較的出入りの制限が緩い主棟へ向かっていたのは、元々アイザックに個人的な面会の予定があるため。書記官にも立ち会ってもらう予定だったが、ここで絡まれると無駄に時間がとられることは、経験上確かなことだ。
忙しい秘書官まで巻き込むより、執務室に戻らせた方が効率的だと判断した。
彼の方もすぐに理解したようで、両者に頭を下げた上で回廊を引き返していく。どの貴族もこのくらい優秀なら、余計な手間が省けるのだが。
改めて貴族男性と向き直る間に、相手の素性を頭の中でさらっておく。
確かこの男は、強硬派に属する貴族だったはず。
伯爵位で、仕事を理由に無下にもできない微妙な地位だ。
「これは伯爵。先日の貴族議会でお会いして以来ですね」
ベルンダート王国は、国家運営の主軸を議員と王族とで担っている。
民衆からの支持を得た名誉議員と、由緒正しい名家である貴族議員とで構成された議会は一カ月に一度開かれ、国王をはじめとする王族もまた参席する義務を持つ。
貴族議員が、なぜ議会のない日に王宮をうろついているのか。
そんなうっすらとした皮肉と共に挨拶するも、当然相手に堪えた様子はない。このくらいの鈍感力がなければ、用もなく王宮を訪れたりしないだろう。
「お久しぶりにございます。もう少しお会いする機会があればと思いますのに、ルードルフ王太子殿下の補佐というのは、なかなかお忙しい役回りのようで」
早速出た。
全然さりげなくもない、強硬派貴族らしい当てこすり。
第二王子を王位継承者として担ぎ上げたい強硬派の面々は、ルードルフの補佐に甘んじているアイザックの現状を嫌っている。
少しでも同調すれば足をすくわれるので、切り捨てておくに越したことはない。
「お気遣いはたいへんありがたいですが、私にとっては充実した時間です。王太子殿下の仕事ぶりを間近に拝見し、その目指すものをかたちにするためにお支えする。兄への尊敬の念も日々増すばかりです」
ルードルフへの忠誠心をここぞとばかりに見せつければ、向こうも引き下がらざるを得なくなる。この時、笑顔で何の他意もないことを強調するのが鉄則だ。
伯爵は納得したように何度も頷くと、次の話題に移った。
「ご兄弟の仲がよく、この国も安泰ですな。王太子殿下も素晴らしい弟君と、男児お二人に恵まれ、さぞ幸せでございましょう」
なるほど、ここからが本題か。
人の好さそうな笑みを浮かべる伯爵の瞳に、一瞬鋭い光が走る。
「ところで、殿下。十六歳になられたばかりではございますが、二年後には正式に成人を迎えることと存じます。そのためのご準備も進めておられるとか?」
「えぇ、よくご存じで」
暗に、閨の指導について言っている。
――白昼堂々、この変態じじい。
アイザックは腹の中で悪態をつく。
「よいことでございますな。……そうそう、ちょうど私に、殿下と年回りの近い孫娘がおります。とても器量のよい子で、殿下ほど見目のよい方と並び立っても、全く遜色ございません。成人までにぜひ一度、お会いしてやってくださればと思いまして……」
これもまた非常に分かりやすい、政略結婚の申し出。
未だ独身で婚約者もいない第二王子が狙われるのはもはや当然の流れだが、王族と並び立つなどと、かなり際どい発言をしている自覚はないのか。
アイザックは常々疑問に思っていた。
十六歳になっても第二王子が独身で婚約者もいないことには理由があると、なぜ誰も考えないのか。一途に思い続ける相手がいるからではないかとか、少しは噂になってもよさそうなものなのに。
誰だって、自分に都合がいいようにしか、解釈できないのかもしれない。
『うれしい……わたしも、ずっと、アイザックしゃまが……』
赤い頬で、潤んだ瞳で、無防備な笑みを浮かべるリティスが脳裏をよぎる。
――俺だって、あの夜のことを都合よく捉えてしまっているしな……。
不埒な方向に逸れてしまった己の思考を、アイザックは咳払いで誤魔化す。
第二王子が垣間見せた人間味のある表情に、目敏く気付いたのは伯爵だった。
「殿下もやはり健全な男子でございます。執務も大切ですが、出会いの場を広げるくらいでしたら、微力ながら私にも手伝えることがございましょう」
つまり、選り取り見取りだから遠慮はいらないと。
アイザックはすぐに、隙のない笑みで応じた。
「――そういえば、前回の議会では確か……女性が政治に参画する権利について、議題に上っておりましたね。未だに女性は家庭を守るものという風潮が強く、選挙権すら持ちませんが、それも時代の流れと共に変化していくべきだと」
「は、はぁ、そうでしたかな……?」
突然の話題の変化についていけず、伯爵は目を白黒させている。
「家父長制もまた根強く、それによって起こる不幸な結婚、そこに生まれついた子どもの苦しみ。そういったものを廃絶したいという法案、とても興味深く思いました」
「そ、そうですな」
「伯爵もまた、この革新的な考えに賛同なさる議員のお一人でしたね」
「そうで…………は?」
アイザックは、ことさらに笑みを深めた。
派閥の動きに合わせ、日和見的な意見しか口にしない。そんな伯爵が自身の発言を覚えているとは思っていなかったけれど、案の定。
女性の政治参画について主張をしたのは、強硬派貴族だったのだ。
あからさまに強硬派の動きに背いた自身の失態に気付き、今や伯爵は顔中を赤く染めている。
それが恥辱からか怒りからなのか、アイザックには興味ない。
「私も、女性の社会進出に関しては、一定の賛意を示します。伯爵のお孫様の将来が、希望に満ちたものでありますように。――では、失礼いたします」
颯爽とその場を辞するアイザックを、伯爵が再度引き留めることはなかった。
時間を取られてしまったせいで、面会の予定が遅れてしまった。
アイザックは、もう誰にも声をかけられないよう、さらに速度を上げて回廊を進んでいく。伯爵とのやり取りを見物していた者達が、面白いくらい脇に引いて道を譲る。
常に笑みを浮かべているアイザックが、辣腕と呼称されている理由がまさにこれだ。
隙のない立ち振る舞い、豊富な知識の上に成り立つ受け答え。容赦のない判断力。
有能ではあるが、人間味を感じられない。
それがアイザックに対する、大半の者の評価だった。
――リティスを前にすると、途端に駄目男に成り下がってしまうのだが……。
それは、ルードルフに言われるまでもなく自覚している。
先日の、二度目の訪問。
驚くほど何も起こらなかったことを、またしても兄にからかわれた。
だが、今回のアイザックは、それほど腹を立てていない。
リティスが昔のように『アイザック様』と呼んでくれた。今はそんな些細なことでも喜べる心境なのだ。
これを言うとさらにルードルフに憐れまれるため、決して口にはしないが。
それにあの、隙だらけの笑み。
夜の個室、しかも薄い夜着をまとった姿で、男と二人きり。
そのような状況であそこまで油断できるということは、それだけ信頼されていると考えていいだろう。いいはずだ。
好かれていると断言はできないけれど、可能性はある。あるはずだ。
――閨係を引き受けてくれたのも、少なからずこちらへの思いがあるから……いや、その場合、逆にこういったことは嫌がるものか……?
好きな相手に誠実でいたいなら、閨係に指名するような試し行為はやめろ。
散々兄から聞かされた忠告が、今頃になって効いてくる。
リティスの本心を知りたいなら、正攻法で行くべきだった。
それでも、もう二度と他の誰かに奪われたくなくて、段階を踏んでいる余裕などないと思ったのだ。
彼女は一度結婚をしている身。
たとえアイザックがリティスを結婚相手として選んでも、派閥など関係なく反対されることは目に見えている。どうせ納得しないと分かっている貴族相手に煩雑な駆け引きをして、時間を取られるのも馬鹿らしかった。
だから、今は。
今だけは、リティスはアイザックのもの。
立場や権力に縛られているだけであっても、彼女が閨係の間は、アイザックのために存在していると考えたって罰は当たらないだろう。
そしてこの奇跡が続く内に振り向かせることさえできれば……奇跡は現実のものとなるのだ。
今日の面会も、そのための布石。
以前、クルシュナー男爵に手紙を送った。
その内容は、男爵家でリティスがどのように過ごしていたのか教えてほしいというものだったのだが――男爵からの返信は、アイザックとの面会の希望だった。
面会希望の手紙自体はよくあることだ。
先ほどの伯爵のように、王族と縁続きになりたいと願う者は多い。クルシュナー男爵もまた、リティスを利用して自分を売り込もうとしているのかもしれない。
そういったものと同様に断ってしまえばいいのだろうが、今回アイザックはクルシュナー男爵からの面会希望を受けた。
目の前のリティスに夢中になるばかりで、彼女が隠していた苦しさや弱さを見ようともしなかった、若く無知な自分。
二度とあんなふうに後悔したくないから、もう目を逸らさない。
見ないふりもしない。
絶対に誰にも譲らないと決めたからには、彼女の全てを受け止める覚悟で挑むのだ。