リティスは緊張をほぐすため、ブランデーを垂らしたものをスズネに頼んでいた。
濃厚な甘みとほろ苦さの中に漂う、芳醇なブランデーの香り。酒精はほとんど飛んでいるだろうが、非常に奥行きのある味わい。
「おいしいので、ぜひ殿下も。緊張していては、本番に臨めませんもの」
とはいえ、アイザックはリティスと違って緊張しないはずなので、ブランデーなしのホットチョコレートだ。確か甘いものは好きだったはず。
幼い彼がこっそり持って来てくれた宮廷菓子を思い出し、リティスの頬が緩む。
ジャムがたっぷり使われたクッキーに、果物で飾られたマドレーヌ、ふわふわのケーキ。
待ち合わせ場所まで懐に忍ばせていたから、砕けていたり潰れていたり、わりと悲惨な見た目だった。特にひどかったのは、油紙に包んだアイスクリーム。
アイザックは毎回しょんぼりしていたけれど、おいしいものを一緒に食べたいという、彼の真心が好きだった。諦めることなく頑張り続ける強さも。
直向きな優しさが、いつもリティスの胸を温かくしてくれた。
今もまた、そのポカポカしたものが胸に宿っているようだった。
何だか熱い。頬も火照っているようだった。
「こんな時に、ホットチョコレートなど……」
アイザックは文句を言うけれど、閨係であるリティスに反抗するつもりはないようだ。渋々ながらホットチョコレートに口をつける。
すると、彼の眉間のシワが消えた。そうすると彼の厳しさが和らぎ、昔と変わらぬ素直な表情が窺える。
――嬉しそう……何て可愛らしい……。
甘いものを二人で味わっていると、過去に戻ったような心地になる。ただ笑い合っているだけでよかった、幸せなあの頃。
「……それで? ホットチョコレートを飲む意図は何だ?」
アイザックの青い瞳に自身が映ったことで、リティスはにわかに正気を取り戻す。
優しい記憶に浸っている場合ではなかった。
今のリティスは、アイザックの閨係。昔のような関係には戻れないのだ。
状況を思い出し、冷静な頭で考える。
アイザックは、チョコレートの媚薬効果を知っているだろうか。そういったことを明け透けに説明した時、正しく作用しない可能性も考慮しなければならない。
期待されることに緊張してしまったり、興奮を高めると聞いて逆に冷めてしまったり。
指南書には、この手のことに関して男性は繊細である、と示されていた。
――それなら、ホットチョコレートに隠された意図も報せない方がいいかしら……。
「その……昔のことを、思い出したのです。殿下と二人、こっそり裏庭でお菓子を食べていた頃のことを」
実際に直前までその当時のことを考えていたので、咄嗟に口からこぼれてしまった。言いわけめいて聞こえれば、さらに不信感を抱かれるかもしれない。
恐々と反応を窺うと、アイザックは虚を突かれたように黙り込んでいた。
あどけない表情はますますあの頃の彼で、リティスもつられて目を瞬かせる。
そうして肩の力が抜け、ふと笑みをこぼした。
「覚えていらっしゃいますか? 殿下がクリームたっぷりのケーキをお持ちくださった時のこと。バタークリームが体温で溶けてしまって、ズボンのポケットに油が染みて、それを誤魔化すために洗い場で……」
「――リティス、もう何も言うな。頼むから忘れてくれ」
見れば、アイザックの顔は真っ赤になっている。
結局、高級な布地を洗濯で傷めてしまった二人の悪事は、彼の乳母にあっさりばれてしまったのだ。
羞恥も躊躇いもなくズボンを脱ぎ捨てていた少年時代のアイザックも、一緒になって笑っていた自分自身も、今となってはいい思い出。
「あれから、アイザック様の乳母のマリーさんが、おやつを届けてくれるようになったのですよね。本来なら咎められても仕方がないことですが、私達が遊んでいることも見逃してくださって……本当に、優しい方でした」
「あぁ、そうだったな……」
乳母のマリーが亡くなったのは、アイザックが十二歳の頃だ。
当時、初めて彼の涙を見て、恐れ多いような……後ろ暗い喜びのような感情が湧いたのを覚えている。
リティスだけに見せる弱さが愛おしく、嬉しかった。彼の特別になれたような。
同時に、そんな自身に失望した。
優しくしてくれた人が死んだのに、親しい人が悲しんでいるのに、嬉しいなんて。
これほどまでに醜悪な人間が、アイザックの側にいていいのだろうか。彼にとっての害悪にしかならないのではないか。
十六歳、政略結婚が決まった時、それほど迷うことなくアイザックとの関係を断ち切れたのは――あの当時の不安がそのまま、胸に居座っていたからかもしれない。
純粋な好意ではなくなったことに、気付いていたから。
ひどく惨めな気持ちになって、リティスは自嘲の笑みをこぼした。
愚かさも醜さも、微塵もなくなっていない。
思いを捨て去ることができないから、今もこうして閨係の任に就いている。閨の知識もないのに。
マリーが今のリティスを見たら、一体何と言うだろう。
何でも笑って許してくれた彼女の厳しい面など、見たことなかったけれど。
「もし、マリーさんが生きていたら……私は怒られてしまいそうです」
いつの間にか飲み干していたホットチョコレート。
底に残ったチョコレートが乾いてひび割れていて、やるせなさが込み上げてくる。
「……それを言うなら、俺だって似たようなものだ」
アイザックの声音が、独白のように室内に落ちる。
「マリーが、内緒で遊ぶ俺達を止めなかったのは……分かっていたからだろう。それが俺にとって、かけがえのない時間だということを。俺が、リティスを――お前を、どれほど慕っていたか――……」
意思の強さを感じさせる青い双眸が、リティスを射貫く。
先ほどからずっとポカポカと温かかった体が、一気に熱を上げた。
知らない。
こんな、焦がれるような眼差し。
頭の奥まで痺れて何も考えられなくなる。
駆け出しそうな速さを刻む鼓動が、ただ一心にアイザックだけを求めている。
そこまで考えたリティスは――ハッとした。
いくつもの指南書でこういった描写を読んだ。
そうだ。これは、両思いの場合にのみ起こせる奇跡。
愛し合う二人であれば自動的に興奮する、という展開ではないか。
リティスの呼吸や脈拍は乱れているし、アイザックもまた頬を赤らめている。これはもう間違いない。
――アイザック様が、興奮してくださっている……やったわ、作戦が成功したみたい。
ここから閨に持ち込んでしまえば完璧だ。
その上、愛し合っているよう、なんて素敵な空想もできる。
リティスはふにゃりと笑った。
「うれしい……わたしも、ずっと、アイザックしゃまが……」
「……しゃま? おい、リティス?」
「あいざっくしゃま、しゅごいでしゅねぇ……こりぇが、とくべちゅな……きしぇき……」
「リティス? まさか、酔っているのか? リティス、おい、リティス!」
アイザックが必死に呼びかけるも、リティスはもうソファに寄りかかったまま夢の世界へと旅立っている。
気持ちよさそうな寝息を立てる彼女に、アイザックはがくりと項垂れる。
「だから、なぜこうなるのか……」
今日もまた、もんもんと眠れぬ夜になりそうだ。