実はアイザックの離宮に滞在しているという事実を知らないまま、今日もリティスは穏やかな午後のひと時をすごす。
あれから三日、アイザックからの音沙汰はない。
恋愛小説を読み込んで次の作戦を考えたのだが、当人にその気がなければ意味がない。リティスのやる気は今のところ空回りしていた。
最近は暇を持て余して、スズネに頼みレース編みの材料を用意してもらっていた。
あらかじめ編針や絹糸は準備していたものの、早々に材料が尽きてしまったのだ。上の空でも手を動かせるくらいには、リティスの手さばきは早い。
「はぁ……そうこうしている内に、作りすぎてしまったかもしれないわ……」
円形のコースターに、クッションカバー。立体的に花を模したものは髪飾りにもブローチにもできるし、ただ部屋に飾ってもいい。
今やテーブル上に、作品がこんもりと山を作っている。
この量を、どうさばけばいいのか。無心になれるからはじめたのに、新たな悩みの種が発生してしまったような。
クルシュナー男爵家に送ってもらえば、救貧院の運営費の足しになるだろうか……と頭を抱えていると、ちょうどシーツ交換のためにスズネが通りかかった。
「スズネさん、ちょっといいかしら?」
「何かご用でしょうか?」
静かに歩み寄る彼女は、テーブルの上のレース編みの山を見て僅かに肩を揺らした。
「……ご無理をなさると、体調を崩されるのではないでしょうか」
「大丈夫よ。このくらい手慣らしみたいなもので、無理はしていないから」
元々、働かないでただ傅かれているというのは、リティスの性に合わなかったのだ。手持ち無沙汰でいた時より、むしろ気持ちは前向きだった。
「よかったら、これを受け取ってちょうだい」
リティスが差し出したのは、白と緑の糸を編み込んで作ったコースター。
これは手慰みの一環で作ったものではなく、はじめからスズネに贈る予定で図案から考えたもの。可憐なスズランの花は、さりげなくも凛とした彼女のイメージだ。
麻と綿を使っているから吸水力がいいし、絹製のものより値段も張らない。真面目な彼女も、これくらいなら受け取ってくれるだろう。
「お世話になっているあなたに、何か贈りたくて。私が持ち込んだ材料で作ったものだから、遠慮しないでね」
「クルシュナー様のお世話をするのが私の役割ですので、お受け取りするわけには……」
「殿下にも、こういったものをお贈りしようと思っているの。だからまず、あなたが使い心地を試してみてくれる?」
手作りの品をアイザックに贈る度胸などないので、これはただの方便だ。
半ば押し付けるようにすると、スズネはようやくコースターを受け取った。
スズランの模様をじっと見つめているので、気に入らないということもなさそうだ。
「……殿下も、とてもお喜びになるかと思われます」
コースターを丁寧にしまうスズネの頬が、ほんのり赤くなっていた。
『も』ということは、表情を動かさないだけで、彼女も喜んでいるらしい。
初めてスズネの素顔を垣間見た気がして、リティスはそっと頬を緩める。
冷静で的確な仕事ぶりから、彼女が誇りをもって働いていることは理解していた。だからこそ、業務中に打ち解けるのは難しいだろうと考えていたけれど。
「ありがとう、スズネさん。あなたのように可愛らしい方が専属侍女で、私は本当に運がよかったと思うわ」
心から感謝を告げると、スズネは懐かない子猫のように顔を背けた。
「……可愛らしいとおっしゃられましても。私、クルシュナー様とは同い年なのですが」
「え」
小柄であどけなく、どう考えても義妹より年下だと思ったのに。
スズネが怒っているように見えて、リティスは焦った。
「えぇと、ごめんなさい。これからは気を付ける……というのも違うわね。その、これからもっと、あなたと仲よくできたらと思ったのだけれど……」
失言に次ぐ失言に、スズネはますます頑なに目を逸らし続ける。
ついにはそのまま、シーツを両手いっぱいに抱えて部屋を出て行ってしまった。
僅かに覗く彼女の耳は、真っ赤に染まっていた。
次なるアイザックの来訪があったのは、その夜のことだった。
彼が待つ部屋に案内される前に、リティスはスズネにあることを頼んでおいた。
あの失敗のあと、恋愛小説を読みふけって気が付いたこと。
それは、やはり閨に必要なのは安らぎではなく興奮だった――ということだ。
なぜあの晩のリティスは、ただ隣で寝るだけで満足してしまったのだろう。冷静に振り返ってみて恥ずかしい。素人丸出しではないか。
――まぁ、素人なのは事実なのだけれど……。
閨係を請け負ったからには、そのままでいいはずがない。
まずは実績を残さなければ。
閨で殿方を興奮させる方法は、指南書によって多種多様だった。
一般的に、愛し合う二人であれば自動的に興奮するものらしい。男性だけでなく女性側も呼吸や脈拍が乱れ、頬を赤らめる描写があった。
だがそれは、リティスとアイザックの間では成立しない。
つまり、外的要因に頼るべきだ。
案内された扉の向こうには、以前のようにアイザックが待ち構えていた。
前回と違うのは――二人の間に横たわるテーブルセットの存在だ。
――さすがスズネさん。仕事が早いわ……。
リティスが頼んでおいたことを、すぐ他の使用人に伝達してくれたのだろう。
相変わらずスズネ以外の者を見かけることはないけれど、彼女は案内役をしていたので、手品か魔法でもない限りそれ以外に方法はない。
照明は落としてあるものの、室内は前回より明るい状態だった。スズネは静かにテーブルに向かうと、カップに飲みものを注ぐ。
途端、湯気と共にふわりと、甘ったるい香りが漂う。
紅茶のように澄んだ水色ではなく、とろりとした液体。
それは、ホットチョコレートだった。
「――それで、これはどういう状況だ?」
スズネが静かに退室していくと、開口一番アイザックから質問が飛んだ。
リティスは今回も余裕の笑みを浮かべ、彼を促した。
「前回は、緊張をほぐすための一夜でした。さぁ、今宵こそお互いに楽しみましょう。殿下もどうぞお座りになって」
経験豊富な未亡人の演技も、なかなか板についてきた気がする。
リティスはすべるように着席した。
アイザックは胡散臭そうにしながらも、渋々正面に腰を落ち着ける。
今回の作戦で鍵となるのが、このホットチョコレートだ。
アイザックを興奮させ、その気にさせなければ意味がない。
けれど両想いでもなければ手練手管もないリティスに取れる手段は限られている。それが、摂取した者を無理やりその気にさせる薬品――いわゆる媚薬だった。
今回参考にした恋愛小説は、騎士と姫の王道物語だ。主君を思っているのに決して態度に出さない高潔な騎士と、実は心の奥底で彼を思う姫の、両片思いもの。
姫が他国の王族へと嫁ぐことが決まり、涙を呑んで見送るはずが、うっかり媚薬を摂取してしまったせいで運命が狂ってしまう――という展開だった。
その後、激怒した王にドラゴン討伐を命じられ騎士が行方不明となったり、姫に横恋慕した者が騎士は死んだと嘘を吹き込んだり、ハラハラドキドキするものの、最終的には最高のハッピーエンドを迎えるのだ。
そこに媚薬として登場するのが、このホットチョコレート。
チョコレートは健康にいいとされているが、軽度の興奮作用もあるという。甘く飲みやすくしたものは、貴族界隈でも嗜好品として流行していた。
――これさえあれば、アイザック様との閨も成功するはず……!
リティスは彼の警戒を解くように、まず自分からホットチョコレートに口をつける。