「大失態だ……」
王宮でも、限られた者のみが出入りできる東の翼棟。
その中でもさらに警備が厳重になっている区画に、王族専用の執務室があった。
翡翠製のランプシェードや、エナメルが施された書類入れ。柱や壁際の面縁一つとっても、黄金で絢爛な彫刻が施されている。権威の象徴でもあるため、王族がそれぞれ住まう個別の宮に比べると重厚感あった。
出勤したはいいものの、アイザックは何も手に付かずにいた。
原因は、もちろん昨夜の出来事にある。
なぜ、あんなことになってしまったのか。むしろ何をどうしたらあのような状況になるのか。誰か分かりやすく説明してくれないものだろうか。
――大体、リティスは分かっていない。閨係だというのに、よくあんなに快眠できるものだ。あんな、一つのベッドで身を寄せ合って、互いの体温を感じながら……夜着の胸元や裾が寝乱れているというのに……。
つい思考があらぬ方向へ逸れてしまうが、健全な十六歳の男子としては正常だろう。何せ、九年近くも恋焦がれ続けた女性が相手だ。
リティスと、三年ぶりに再会した。
彼女は十六歳の頃よりずっと大人っぽく綺麗になっており、それでいて感情を隠すのもうまくなっていた。
素っ気ない態度をとっても儚げに笑うばかりで、昔のように困ったり慌てたりすることはなかった。
控えめながら素直に感情を映す深緑色の瞳が、アイザックは大好きだった。
驚いた時に目を瞬かせる癖や、笑う時に口許を隠す仕草。どんなに些細なことだって、真剣に聞いてくれる誠実さ。家族の話をする時の、少し寂しげな表情。
幼いアイザックにとって、彼女の全てが特別だった。
何年も忘れられないくらい直向きな思い。
リティスが政略結婚をしたことで失ってしまった恋は、彼女が先代クルシュナー男爵と死別したことで、鮮烈に息を吹き返す。
リティスの結婚生活が不幸なものであれと望んだことはない。これは誓って本当だ。
ただ、常に気にかけていたから、心ない噂は自然と耳に入ってきたし、その後彼女が社交界に顔を出さなくなったことにも心を痛めていた。結婚した相手をなぜ幸せにできないのかと、老男爵に理不尽な怒りを募らせたこともある。
避けられているのか、王宮で催されるような祝宴に、リティスは参加していなかった。
だから気にかけるだけで、アイザックには何もできなかった。辛くないか、彼女の本心はどこにあるのか、確かめることもできずに。
――いや……それは詭弁だな。
誹謗中傷を受ければ、誰だって悲しいに決まっている。
それでも、自分の出る幕ではないと動かなかったのだ。
まだほんの少年だった頃、いつかリティスに頼られたいと願っていた。年上で、いつもアイザックの先を歩いている彼女を、守れる存在になりたいと。
そんな純粋な真心を――差し出した初恋を、政略結婚をすると告げたリティスに、打ち捨てられたような気がしたのだ。無下に扱われ、粉々に砕かれたような。
……彼女は結婚しているのだから、夫に守ってもらえばいい。わざわざ心配する必要はない。それは自分の役目じゃない。
幸せにしてあげられるのは、アイザックではないのだから。
あの時アイザックは、自分のちっぽけな見栄や矜持を守ることを優先したのだ。
彼女自身が悪いわけでもないのに、勝手に被害者面して。
リティスが老男爵と死別したあと、生家であるレイゼンブルグ侯爵家に帰っていないことを、風の噂で聞いた。その時、アイザックは彼女の選択に疑問をもった。
家族仲が良好でないことは知っていた。
だが、既に跡取りが盤石な地位を築いているクルシュナー男爵家に残る方が、よほど肩身が狭いのではないか。
リティスの境遇を――生い立ちを、客観的に知るための調査をした時、アイザックは初めて己の選択を悔いた。
控えめな彼女が『良好でない』と語る家族関係の悲惨さを、甘く見積もっていたのだ。
上流階級としての一般教養など、時折知識に抜けがあること。手入れの行き届かない髪と、着古したドレスの意味。奥ゆかしさを通り越し、質素と表現してもいいほど装飾品を持たなかった理由。危ういほど細く白い体。
歯ぎしりしたくなるほどの猛烈な後悔が、アイザックを襲った。
同時に、こんなことにも気付けないほど子どもだったのだと痛感した。
それなのに勝手に拗ねて、いじけて、リティスに頼ってもらえないのも当然だった。
アイザックの心に甦った初恋は、もう純粋なかたちではなくなってしまった。
罪悪感や惨めさ、執着心まで入り混じって、ひどくねじ曲がっている。
もう、絶対に逃がさない。
誰にも譲らないと決めた。
だから国王である父親を動かし、リティスを閨係として招聘したというのに――……。
「やはり俺が、何か失態を犯してしまったのだろうか……?」
「――というかそもそも、初恋の女性を閨係に指名した時点で大失敗だろう」
アイザックの独白に、けれど答えが返ってくる。
一応ここは、王族専用の執務室。人払いもしてあった。
そんな場所に侵入してくる無神経な身内は、一人しかいない。
のろのろ顔を上げると、そこには予想通り兄のルードルフが立っていた。
「うるさいですよ……」
「やれやれ。私の右腕として辣腕をふるっているお前が、この体たらく。臣下には到底見せられないな」
「耳目のあるところではちゃんとします……」
「ちゃんとしていないから、わざわざ私が来たのだが? 書類が滞って困っていると、お前の書記官に泣き付かれてね」
兄の手が、アイザックの髪を乱暴に掻き混ぜる。
「昨日は執務中も、あんなに浮かれていたのに。その落ち込みぶりから察するに、初恋の女性との再会は、喜ばしいものではなかったようだな」
「えぇ、それはもう……名前すら、呼んでくれなかったんですから……」
他人行儀に『殿下』と呼ばれ、つい不機嫌になってしまった。リティスのいかにも慣れた様子に、嫉妬したせいもある。
「やはり俺の態度のせいでしょうか……閨係などやっていられないと、愛想を尽かされてしまったのかも……」
腕を優しく擦ってからの、添い寝。
それはもう、ただの寝かしつけという。
「何を……何を間違えてしまったんだ……宮での生活が気に入らなかったのか? いや、最も居心地がいい南向きの部屋を用意させたし、リティスが緊張せずに済むよう、接触する使用人は最低限にしているし……」
「いや、本当に何をしているんだ……?」
「俺自身、彼女が気遣わずに済むよう、離宮の一番反対側で寝起きしているし……」
「えぇ? 反対側というと、つまりアイザックは北向きの部屋ですごしているのか? 宮の主なのに?」
「リティスがいるだけで、我が宮はどこだろうと快適空間です」
きっぱりはっきり言いきると、ルードルフは半眼になった。
「……我が弟よ。初恋の女性を閨係に指名する暴挙といい、なぜリティス・クルシュナーが絡むと、そんなにもポンコツになってしまうのか……逆に、お前をそうまで駄目にする女性に興味が湧いてくるぞ……」
「彼女との関係が進展しない限り、兄上は絶対近付かないでくださいね」
もしまかり間違って、リティスがルードルフに惹かれないとも限らない。妻や二人の子どもを愛する誠実な兄だと信じているが、思いが通じるまではあらゆる可能性を排除しておきたい。
ある程度不安や鬱憤をぶちまけたアイザックは、昨晩の出来事を冷静に振り返ってみた。
おかしな状況、時折抜けのあるリティスの知識。
嫌われてしまったのだと、結論を出すのは簡単だが――……。
「……兄上。クルシュナー男爵家については、どの程度ご存じですか?」
不意に有能な第二王子としての顔を取り戻した弟に、ルードルフもすぐ考え込む素振りを見せた。
「ふむ……近しい世代の者がいないため、私も表面的なことしか知らないが……確か、穏健派に名を連ねていたはずだ。レイゼンブルグ侯爵家と同じくな」
国内の貴族は、強硬派と穏健派、そしてそのどちらでもない中立派に分かれている。
優秀な第二王子にも王位を継ぐ権利はあるはずだと主張するのが強硬派で、このまま争うことなく順当に王太子が即位すべきだというのが穏健派。中立派は、そのどちらの主張にも一理あるという姿勢を崩さない派閥だ。
ルードルフとの兄弟仲はいたって良好で、アイザックに王位への意志はない。
勝手に盛り上がる貴族達に周知させるため、あえて兄の右腕という地位に収まっているのだが、あまり効果はなさそうだ。矜持の高い者ほど、何かにつけて反目し合いたがる。
レイゼンブルグ侯爵家は、穏健派の中でも高い地位を占めている。
それだけ、派閥に対して影響力もあるということ。
「リティスがクルシュナー男爵家に嫁いだのは、派閥の繋がりゆえでしょうか?」
「そういう見方もできるが、レイゼンブルグ侯爵家とクルシュナー男爵家に親交があったという話は聞かないな。少なくとも表面上は、だが」
打てば響くような兄の返答を、しばらく吟味する。
それからアイザックは、クルシュナー男爵家に送る手紙をしたためはじめた。