……三年ぶりの彼は、彼じゃないようだった。
薄暗い部屋に佇む、見上げるほど背の高い男性。
研ぎ澄まされた刃物のように輝く銀髪に、涼やかな青い瞳。高い鼻に滑らかな頬、黙って腕を組んでいるだけでも絵になる立ち姿。
十六歳になったアイザックは、月明かりを一身に浴びているのではないかというほど、神秘的で美しかった。
心臓がどきどきと高鳴る。
これは緊張じゃない。
またアイザックに、恋に落ちる音だ。
かつて少年だった初恋の王子は、美しく男らしく成長していた。
「久しぶりだな……リティス」
アイザックがゆったりとした足取りで近付いてくる。
彼を間近で見つめて、リティスは気付いた。
青い瞳に、かつてのような親しみはない。
温かな色合いに感じていた青が、今は冷たい氷のようだった。
リティスは真っ白になりそうな頭で、必死に考える。
親しみを込めた返答をすべきじゃないと思った。
硬質さを宿した彼の瞳は、今の立場の違いを分からせるためのもの。ただの閨係でしかないという、明確な線引き。
「……お久しぶりにございます、第二王子殿下」
急に胸が苦しくなったけれど、リティスは何とか声を震わせずに返した。
不意に、アイザックの気配が尖る。
彼はさっと踵を返すと、驚くリティスには構わず寝室へと移動してしまう。
咄嗟に足を踏み出しかけ、リティスは体を強ばらせた。
頑なな背中に拒絶されている気がして、ついて行っていいのかと躊躇う。彼にとってリティスは、不本意な相手だったのかもしれない。
それでも、先ほどの推測が頭の片隅にちらついた。
後釜は、きっといくらでもいる。
ここで諦めるわけにはいかない。
リティスは一度深呼吸をすると、経験豊富な閨係としての仮面をかぶり直した。
男性と……しかも好きな相手と、寝室で二人きり。しかも自分だけ夜着という、あまりに防御力の低い格好。
そんな状況下にあっても、動揺してはならない。
ルシエラに借りた恋愛小説の中に、年上の女性がリードする物語があった。
リティスは慣れたふうの笑顔を作る。
「――殿下。上着をお脱ぎになって、楽な格好でベッドにどうぞ」
大胆にベッドまで進むと、弾むように腰を下ろす。その際、夜着の裾が割れてふくらはぎが露わになっても、リティスは決して恥ずかしがってはいけない。
「緊張していらっしゃるでしょうが、私に身を任せてください」
黙ってリティスを見下ろしていたアイザックは、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……少し見ない間に、ずいぶん淫らに変わったようだな」
彼は皮肉の言葉と共に、やや乱暴にジャケットを脱ぎ捨てる。
そうしてつかつかと近付いてくると、リティスの隣に座った。
「それで? 俺はどうすればいい?」
剣呑な目付きで覗き込まれ、リティスは怯みそうになった。
――あ、あら? どこか不機嫌というか、怒っているような……。
艶っぽい展開になるはずが。雰囲気が悪い。何かが彼の癇に障ったのだろうか。
リティスは全速力で頭を回転させ――アイザックも初めてで緊張しているのだろうと気付いた。
「では、まずは横になってみましょうか。大丈夫ですよ。殿下はただ、体の力を抜いているだけでいいんです」
しかめっ面のままでも彼は素直に従ってくれたので、そのまま先に進むとする。
再び頭の中で、リティスは恋愛小説……もとい指南書をめくる。
あの物語、ヒロインは自由を愛する踊り子だった。
曲芸団と共にある領地を訪れ、領主の一人息子と恋に落ちるのだ。一夜の火遊びからはじまる、身分違いの恋物語だった。
確か踊り子は、男性の体をわさわさと触っていた。
寝転ぶアイザックの隣に座って、リティスも腕に触れてみる。
――わっ、わぁ、何だかすごいわ……!
シャツ越しでも体温や感触が伝わってきて、危うく手を離しそうになってしまった。
温かい。秘密の友達だった時も、こんなふうに無防備な体を触ることなどなかった。筋肉の密度が分かって、自分の腕の感触と違うことに驚く。
とりあえず、一生懸命に腕を擦ってみよう。
一心不乱に手を動かしていると、アイザックが目を瞬かせた。
「……リティス?」
「あ……続けますね」
ちょっと勇気を出して、肩にまで手を伸ばす。
これで本当に、男性がその気になるのだろうか。何かが違う感がすごい。
「……リティス?」
「で、では、次に移りたいと思います」
胸や足なども擦った方がよかったのかもしれないが、さすがに難易度が高い。
ここは別の手を打った方がよさそうだ。
「殿下、目を閉じてくださいますか……?」
アイザックが素直に目を閉じるのを見届けてから、リティスは顎に手を添えて真剣に考え込んだ。
――確か……『二人はそっと身体を重ね合わせた』、という描写があったわ……。
わざわざ書き表すということは、そこに何かしらの効果があるのだろう。
だが、リティスが上に乗ったら、間違いなく重い。
王族であるアイザックに対して失礼にあたるだろう。
リティスは熟慮の末、彼の隣に同じように寝転び、そっと寄り添うことにした。
体が密着して、ますます鼓動が早くなる。
何とか気持ちを宥め、自分もまた目を閉じてみた。
――そうすると、『だんだんフワフワとしてきて、海を揺蕩っているような、自由の翼に包まれているような心地になり……』そう、何もかも無事に終わっていたはずだわ……。
指南書ではそうだった。
そして目が覚めると朝になっていて、鳥がちゅんちゅんと鳴いていた。
男女が共にベッドに入ると、不思議なことが起こるものだ。
そしてこれが子どもを授かる行為というのだから、ますます不思議だった。世界の神秘。
そんなこんなに思いを馳せている内に、リティスは眠気に抗えなくなってきた。やけに温かい人肌が隣にあるせいでもある。
「……リティス?」
……三度目になった、アイザックの怪訝な呼びかけ。
応える者は当然いない。
◇ ◆ ◇
「大失態……?」
翌日。
鳥がちゅんちゅんと鳴く朝に目を覚ましたリティスは、頭を抱えて青ざめていた。
指南書では、ヒロインが目覚めるのを、ヒーローが腕枕をしたまま待ち構えていて、しばらく愛を囁くというのが定石だった。
そこで出てくる『可愛かった』、『素敵だった』、『幸せな時間だった』、という言葉が重要視されていた気がする。
それなのに、朝になると隣からアイザックが消えていた。
シーツに温もりすら残っていなかったから、リティスが起きるよりずっと前にベッドを抜け出していたのではないだろうか。
その直後、リティスが目覚めたことに気付いたスズネが寝室にやって来た。
彼女は、微塵も寝乱れていないことをしげしげと確認すると、何かに配慮したように頷き、朝食の準備をすると言って退室して行った。なぜかひどく神妙な面持ちだった気がするのだが、見間違いだろうか。
アイザックの不在、スズネの態度を総合して考えるに。
……どうやらリティスは、何か重大な失敗をしてしまったらしい。
けれど、どうにも理由が分からない。
――昨晩は、全てうまくいっていたはずよ。そっと体を重ね合わせて、気付いたら朝になっていたもの。
何かが違った? 何かがいけなかった?
そういえば腕を擦っている時、アイザックが不思議そうに目を瞬かせていた。
「その気にさせる……興奮……そうだわ、興奮が足りなかった?」
リティスはハッと気付いた。
共に眠るのではなく、興奮させるということが重要だったのではないか。興奮すれば眠れなくなってしまうような気もするが、だとしたら、ただ一緒に寝ただけの昨晩は確かに失敗だ。
閨係として、これは非常にまずい展開。
アイザックは失望したかもしれない。
次の機会が遠ざかったかもしれない。それどころか、リティスはもう二度と呼ばれないかもしれない。
知らない他の誰かが、次の閨係に指名されて――……。
リティスは頭を振って、嫌な想像を追い払った。
「頑張らなくちゃ……ここで、諦めたくないもの」
もう一度、作戦を立て直さねばならない。
リティスは持参してきた荷物の中から恋愛小説を取り出すと、スズネが戻ってくるまで読書に没頭するのだった。