馬車が停車する軽い衝撃で、リティスは目を覚ました。
どうやら揺られている間に眠ってしまったらしい。王都の貴族街にあるクルシュナー男爵邸からそれほど遠くないはずなのに、これは失態だ。
――準備期間がほとんどなかったから、徹夜で恋愛小説を読み漁ったせいね……。
閨での立ち振る舞いを知らないリティスは、恋愛小説を教科書にしていた。
閨房術について学ぼうにもそういった類いの指南書がなかったので、やむを得ず、トマスとエマの愛娘・ルシエラの愛読書をお借りしたのだ。
八歳の少女向けの健全なものかと思いきや、意外にも性的な描写が散逸していた。
濃厚なキスをしたり、男女が同衾したり。
際どい書物を読んでいることを彼女の両親に報告すべきかと、リティスは苦悩した。
今は時間がないことを言いわけに、その問題は先送りにしている状況だ。問題はあるけれど、性知識底辺のリティスにはありがたい。
無論挿絵などないため、具体的なことは自身の読解力に任せるしかない。それでも、だいぶ知識を補えたはずだ。
――大丈夫。きっと何とかなるわ……!
リティスは心の中でこぶしを握った。
外側から扉を開けられたので、馬車を降りる。
閨係という秘匿性からか、王宮の正面門ではない。
ひっそりとした雰囲気と、芝生がどこまでも続く穏やかな庭園。威容を誇る主宮のような装飾は、ほとんど見受けられない。
見覚えのない離宮。
もしや既に、王族の居住区に入っているのだろうか。
離宮の正面には、侍女が一名のみ待機していた。
黒髪に黒い瞳、異国風の顔立ちの少女だった。静かな表情と落ち着いた態度で分かりづらいが、まだ十代半ばくらいではないだろうか。
「はじめまして。リティス・クルシュナーと申します」
「ようこそお越しくださいました、クルシュナー様。私はクルシュナー様の身の回りのお世話を任されました、スズネと申します。ご滞在中に気になることがございましたら、何なりとお申し付けください」
「よろしくお願いいたします、スズネさん」
スズネに促され、リティスは離宮へと足を踏み入れる。
やはり華やかさはないが、日当たりがよく清潔だ。適度に木目調の家具が配置され、ところどころに品のよさが窺える。人がのんびりするための場所だ、と思った。
通された客間も、当然居心地がよかった。
若干広すぎる気もするが、くつろぐためのファブリックも充実している。窓際に置かれた揺り椅子など昼寝にぴったりだ。
「第二王子殿下より、今日はゆっくりと休息をとるように、とのことでした。いずれ両陛下、並びに王太子殿下ご夫妻にお会いする機会もあるかもしれませんが、しばらくは王宮での生活に慣れることを優先していただきたいそうです」
王家の方々に会うことも、王宮での生活に慣れることも、果たして閨係に必要あるのだろうか……という疑問はよぎったけれど、一先ず頷いておく。
ついにアイザックの閨係として、一世一代の大勝負がはじまる。
◇ ◆ ◇
しばらくは穏やかな日々が続いた。
美容に力を入れて垢すりやマッサージ、体を内側から綺麗にするというたくさんの野菜を混ぜたジュースや珍味を取り入れる。爪まで綺麗に整えられ、長年質素に暮らしていたリティスも、それなりに見栄えがよくなったのではないだろうか。
毎日のドレスも落ち着いた色合いながら手の込んだもので、何だかだんだんと罪悪感が湧いてくるようになった。
ここまでしてもらって、実は閨係としての適性がないなんて。
身の回りの世話だけでなく、美容に関する全てのことも、専属侍女のスズネが担当している。彼女のことも、リティスは騙しているのだ。
当初のスズネは淡々と業務をこなす素っ気ない少女という印象だったが、あらゆる雑事をこなしてくれる彼女を見ている内に、面に出さないだけでものすごい努力家なのではと思うようになった。
最悪、リティスの見た目などどうだっていいはずなのに、アイザックのお呼びがかかるまで、様々な角度から綺麗にしようという奮闘をやめない。
職務に忠実なだけだろうが、決して手を抜かない姿は称賛に値した。
今だってそう。
そろそろ退勤してもいい頃合いだというのに、長椅子に座ったリティスの足を揉み解してくれている。瑞々しい花の香りがする香油を、惜しげもなく使いながら。
「あの……スズネさん? そろそろ外も暗くなってきたし、あなたもゆっくり休んでくれていいのよ?」
「今マッサージをしておけば、翌日足がむくみません。これも必要な工程です。それに、私はクルシュナー様の専属侍女ですので、食事や睡眠に関してもこの宮から移動する必要がありません。お気遣いいただかなくて結構です」
やはり口振りは素っ気ないのに、やっていることは献身的。もはやわけが分からない。
リティスは閨係として招かれたのであって、至れり尽くせり優雅に過ごすために来たのではない。
そうしてふと冷静になってみて、離宮での暮らしに多々違和感があることに気付いた。
スズネ以外の者に遭遇することがほとんどなかったので考えもしなかったが、どうやらこの離宮では多くの使用人が働いているらしい。
料理を作る者も、洗濯や掃除を担当するメイドもいる。
――なぜ姿を見せないのかは分からないけれど……この離宮に、他にも客人がいるということかしら?
リティス一人のために働いているはずがないので、そういうことなのだろう。姿どころか気配すら感じないので、全員隠密部隊でもやっていけるのではないだろうか。
その時はたと、嫌な推測に行きつく。
もしかしたらこの離宮に滞在しているのは、自分と同じような立場の者かもしれない。
そう。実はアイザックの閨係候補が、リティス以外にも複数名いて、失敗してもすぐに替えが利く……とか。
リティスはさぁっと青ざめた。
あり得る。あっという間に首を挿げ替えられて泣く自分が、簡単に想像できた。
――が、頑張ってくれているスズネさんのためにも、自分のためにも……こうなったら何が何でも、閨を成功させなくては……!
リティスが悲壮な覚悟でこぶしを握り締めた時、部屋の外から小さな鈴の音が響いた。
隠密使用人が気配を表すなんて初めてのこと。
ただ目を瞬かせるリティスだったが、一方スズネの反応は顕著だった。
僅かに息を呑んだかと思うと、温かな蒸しタオルを用意して香油を拭っていく。その手付きは丁寧だが、かなりの早業だ。
「スズネさん? どうかしたの?」
彼女はリティスを立ち上がらせると、夜着の襟元や裾を手早く直した。
そうして、ひたりとリティスを見据える。
「クルシュナー様――殿下のお渡りにございます」
お渡り。
アイザックが……この離宮を訪れたということか。
僅かに緊張をはらんだ視線を受け、リティスの鼓動もにわかに早くなっていく。
ついにこの時が来た。
スズネが先導し、暗い廊下を歩く。
灯りは彼女が持つランタンのみだが、月のおかげで足元は明るかった。
窓の外にはきっぱりと割れたような半月。何だかやけに大きく見えて、現実味がない。足元がふわふわしているのは不安のせいだろうか。
どこをどう歩いたのかも分からない内に、スズネはある部屋の前で足を止めた。
最低限の装飾が施された扉は、リティスに与えられている部屋と同じく温かな雰囲気だ。特に厳かな空気はない。
そのおかげか、夢見心地ではあるものの、それ以上緊張せずに済んだ。
扉を開くスズネに頷き、リティスは自ら入室する。
頭を下げているので、本当にアイザックがこの部屋にいるのか、実感が湧かない。
やはり自分は夢を見ているのではないか。
スズネのマッサージが心地よくて、うたた寝してしまったのかもしれない。
「――リティス、顔を上げろ」
かけられた声音は低く、無意識に肩が揺れる。
リティスの中のアイザックの記憶は、彼が十三歳の時点で途切れている。
身長はほとんど追いつかれていたけれど、まだ全体に少年らしさを残していた。凛として重みのある声は、まるで知らない男の人のよう。
リティスは何かに急き立てられるように、顔を上げた。