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第3話 在りし日の二人

 リティスが乗り込んだ馬車が、王宮へと向かいゆっくりと動き出す。

 これで完全に引き留めることはできなくなった。トマスと共に馬車を見送りながら、エマは小さなため息をこぼす。

 閨係を務める間は王宮に滞在することになるので、準備はとても慌ただしかった。

 身の回りの整理、荷造り、リティスが担当していた業務の引継ぎ。

 出発が三日後に指定されていたから、決算や救貧院の訪問どころではなくなってしまった。クルシュナー男爵家総出でリティスを無事送り出すために尽力した。エマとトマスは見送りを終えたら、後ろ倒しとなっていた業務に取りかからねばならない。

 先ほどより小さく見える馬車に、エマはもう一つため息を落とす。

 これでよかったのか、という思いは未だにくすぶっている。

 リティスへの心配もあるが、彼女が閨係を満足にこなせなかった場合、未経験という事実を知っていながら送り出したクルシュナー男爵家にも累が及ぶ。

 それなのに準備に時間を取られたせいで、最低限の閨の知識さえ教えることができなかった。

 リティスが性的なことに疎いのは知っているが、それがどの程度なのかあえて確認したことはなかった。

 本当に大丈夫なのか不安は尽きない。

 けれど――……。

「止められなかったわ……あんなふうに泣くリティスを見るのは、初めてだったから」

 エマの呟きを聞き咎めたトマスが、こちらを振り返る。

 大切で大切で、愛しい旦那様。

 ずっと年上なのに可愛らしく、毎日新しく恋をしている気分になる。

「自分が幸せだから、必死なあの子を見て後ろめたい気持ちになった……というのは、ただの傲慢なんでしょうね」

 ただ、はらはらと涙をこぼす彼女が痛々しくて、見ていられなかった。

 四十歳以上も年上の男性との結婚を強いられた時も、悪評を流された時も、リティスは決して泣かなかったのに。

「私だってあなたに一目惚れして、なりふり構わず追って追って求婚したんだもの。人生の先輩ぶって理屈を説くなんて、はじめからおこがましいことだったのよ」

 クルシュナー男爵家に被害が及ぶかもしれないという保身も何もかも取っ払った時――最後に残ったのは、彼女を後押ししたいという強い思いだけだった。

 そういったエマの葛藤も承知の上で、トマスは穏やかに笑ってくれる。永遠に好きだ。

「ふふ。そう言われると思い出すね、君の猛攻。どこに行っても先回りしている情報収集力には、脱帽したものだよ」

「当然よ。あなたはずっと年上で、すぐにも他の誰かと結婚してしまうんじゃないかって気が気じゃなかったもの」

 愛があれば、年齢も国籍も身分も乗り越えられる。

 だからトマスの実父とはいえ、先代男爵のやりようはあんまりだと思った。

 クルシュナー男爵家に嫁いできた当初のリティスは、いつも俯きがちだった。我が儘も一切言わず、ただ老男爵の指示のままに動く。

 人形のように感情のない子。

 それが彼女への第一印象だった。

 リティスは何ごとにも一生懸命だが、思い詰めやすい性格をしている。

 自己評価が低いことも含め、おそらく生家のレイゼンブルグ侯爵家に原因があるのだろうが、彼女は多くを語らない。全て、出来損ないの自分が悪いのだと思っている。

 そんな彼女が、第二王子が関わった途端、初めて感情を剥き出しにして見せた。

 我を通すことすら不得手とする、あのリティスが。

 ……止めることなど、到底できなかった。

 トマスが、エマの肩を優しく支える。

「どのみち、王宮からの勅令は断りきれるものじゃない。その場しのぎの嘘をついたところで、発覚してしまえば子ども達や、男爵家で働く使用人達まで巻き添えにしてしまう可能性があった。この件に関して言えば、僕達にできることはなかったさ」

 彼はこの件に関して、と強調した。

 つまり、何か別の角度から、リティスのためにできることがあるかもしれないということ。そういう冷静で抜け目のないところも好きだ。

 緩やかな下り坂を降りていった馬車は、とっくに見えなくなっている。

 何の憂いもなさそうに手を振っていたリティスを思い出し、エマは自然と笑っていた。

 最後まで、ただ好きな人に会いに行くだけみたいに、嬉しそうな顔をして。

「もう、本当に大丈夫かしら? あの子、その手のことにはとことん疎いし、それだけがどうしても心配で……」

「……あぁ、まぁ……なるようにしか、ならないよ。うん」

 トマスはやや遠い目になりながら、適当な相槌を打った。

 たとえ無責任でも、あとは成り行きに任せるしかない。

 昔から、第三者の色恋沙汰は放っておくのが肝要、と言われているし。


   ◇  ◆ ◇


 リティスがアイザックと出会ったのは、王妃主催のお茶会でのことだった。

 七歳だった第二王子のアイザックと、十二歳だった彼の兄・第一王子のルードルフ。

 彼らの側近や婚約者を決めるため、年頃の近い貴族の子ども達が集められ、当時は頻繁にお茶会が行われていた。

 リティスは十歳だったから、そのどちらにも招かれていた。

 あの頃はかなり足繁く王宮に通っていた記憶がある。

 それは、現在は立太子しているルードルフのお茶会に参加していた時のこと。

 いつもと趣向が異なり、会場は屋内ではなく、王妃が管理する美しい庭園。開放的な空間に、華やかで愛らしいドレスをまとった少女達の高い笑い声が響く。

 周囲にうまく馴染めなかったリティスは、少し休憩がしたくて席を外していた。

 庭園のさらに奥へと向かうように歩きながら、自身のドレスを見下ろす。

 地味な紺色のドレスは、何度着たのか数えきれないくらい。新しいものを買い与えてもらうことが少なかったので、丈も微妙に合っていない。

 今日のために着飾っている少女達に、リティスはすっかり気後れしていた。

 わざわざみすぼらしいと口にする者はいなかったけれど、彼らの視線は正直だ。

 リティスが異質な存在だと分かるから誰も近付いてこないし、挨拶すらされない。まるでいないもののように扱われる。

 家にいたって、外にいたって、居場所がないことに変わりはないのか。

 リティスの足は、自然と人がいない方へ向かっていた。

 華やかに整備された完璧な庭園から遠ざかり、生き生きとした木が茂る方へ。

 もしかしたらあの時は、立ち入り禁止の区域に足を踏み入れていたのかもしれない。リティスは、何かの建物の裏庭へとたどり着いた。

 そうして見つけたのが――光のように目映い少年、アイザックだった。

 彼は周囲に護衛もいないのに、リティスを警戒することなく話しかけてきた。

『ここは秘密の場所だから、他の人に話しちゃ駄目だぞ』

 あの頃のアイザックは、無邪気で物怖じしない性格だった。

 最初は義妹に似ていると思い、ほんの少し苦手に感じていた。

 けれど、言葉を交わす内に気が付いた。

 天真爛漫な朗らかさは、委縮しがちなリティスの体から気負いを取り払ってくれる。他者と視線を合わすことに感じていた不安を消し去ってくれる。

 リティスは、義妹が苦手だったのではない。

 父や義母が間に入って衝突してしまうから、それが怖かっただけなのだ。改めて腑に落ちると、世界が変わった気がした。

 その時にはもう、光のような少年にどうしようもなく惹かれていた。

 リティスとアイザックは度々同じ場所で落ち合うようになった。

 月に一、二回行われるお茶会の時のみなので、頻度は多くない。

 けれど、二人はたくさんのことを話した。

 仲よくなるにつれ、リティスは家庭の事情も打ち明けていた。

 母が死んだ直後に、父が後妻を連れてきたこと。既に後妻との間には子が二人おり、裏切りは母が生きている時から続いていたこと。

 父も後妻もリティスには興味ないようで、後妻との子どもばかり可愛がっていること。

 二歳になった義弟は可愛く、リティスにも懐いてくれていること。三つ違いの義妹とも仲良くなりたいと思っているが、なかなか会わせてもらえないこと。

 アイザックの家庭の話を聞くのも好きだった。

 世話焼きな兄と心配性な父。おっとりしているけれど、何ごとにも動じない母。

 全てを超越したような雰囲気を持つ王家の方々に、そんな人間らしさがあるなんて新鮮な驚きだった。

 彼が語る家族像には愛情が溢れていて、眩しくて羨ましかった。

 秘密の友達という関係が続いて数年が経つと、やがてお茶会は開催されなくなった。

 おそらくアイザックと兄のルードルフの側近……そして、婚約者が決定したのだ。

 胸は痛んだけれど、自分が選ばれるはずもないということは分かっていた。

 せめて、秘密の友人関係だけは続けていきたい。

 とはいえお茶会が開催されなければ、リティスが王宮に招かれることもない。

 アイザックとの距離の遠さを、まざまざと見せつけられているような気がした。

 月に一、二回の交流は、彼らの生誕祭など慶事に合わせた回数となった。

 年を重ねるごとに、ただ会うだけのことが難しくなっていく。

 そうしてついに、リティスが十六歳になった時。

『……もう今後、会うことはできません』

 老男爵との結婚が決まり、最後にお別れを告げるため会いに行った。

 あの時のアイザックの顔が、今でも忘れられない――……。


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