乱暴に扉を開けて現れたのは、エマ・クルシュナーだった。
トマスの妻であり、家内のことを取り仕切る男爵夫人。
先代が存命の頃から何かと気にかけてくれた彼女は、今でもよき相談相手だ。二十五歳にして三児の子を持つも、若々しく溌溂としていて、リティスにとって姉のような存在。
そんなエマが、慌てた様子でリティスを捜していた。
何かあったのだろうか。
「どうかされましたか、エマさん?」
「もう、やっぱり書斎にいると思った! 無理して働かなくていいって何度も言っているのに……ってそうじゃなくて! たいへんなのよ、これ!」
エマがものすごい勢いで突き出してきたのは白い封筒。
思わず受け取ると、上質な紙特有の触り心地だった。表には流麗な筆致でリティスの名が記されている。
何気なく裏返してみて、封蝋の刻印にぎょっとする。
大鷲に太陽――それは、王家が公式に使う印章だ。
「トマスに会いたくなって書斎に来る途中、執事と行き合ったから、ついでに配達物を受け取ったのよ。そうしたらリティス宛てのとんでもない手紙が交ざっているじゃない? もういちゃいちゃするどころじゃなくなって急いであなたの私室に行ってみたけど不在だしじゃあ子ども達のところかしらって向かってみてもいないしもしやと思ってここに来たら案の定って感じで……」
やけに饒舌になったエマの声が、耳を素通りしていく。
だが、彼女の動揺も無理はないと思う。
王家からの手紙を受け取るなんて、序列が高いわけでもない男爵家ではかなりの大事件だ。リティス自身の手もかすかに震えている。
男爵夫妻が固唾を呑んで見守る中、恐るおそる手紙を開封した。
簡潔な文章なのに、そこに書かれている内容を上手く理解できない。
真っ白になる頭で、リティスは何度も何度も手紙に目を通し……五度目で、ようやく衝撃と共に受け入れることができた。
要約すると内容は、『この度成人を迎えるベルンダート王国第二王子アイザックの閨係に、リティス・クルシュナーを指名する』――というものだった。
◇ ◆ ◇
アイザックの名を見た瞬間、在りし日の思い出が一気に甦る。
日差しの下、幻想的に輝く銀髪。
鮮やかな感情をそのまま映す青い瞳。
好奇心に満ち溢れた笑顔も、明るい未来を信じて疑わない強さも、リティスにはずっと眩しくて仕方がなかった。
三歳年下の第二王子だけが、当時の心の支えだった。
けれど、老男爵との結婚が決まったあとから、もう何年も会っていない。
幼く無邪気だった少年は、どのような大人になっただろうか。
笑顔も強さもあの頃のまま、成長したのだろうか――……。
「――旦那様に『二人で話し合っておいで』って言われたから一応私の居室に来たし人払いもしてみたけど、結論なんて初めから決まっているわよね?」
記憶に沈んでいたリティスが我に返ると、半眼になったエマの顔が目前に迫っていた。
「…………はい?」
「断るわよね? もちろん断るわよね?」
さらにずずいと彼女の顔が近付いて、リティスは目を瞬かせる。
「断るって……これは勅令ですし、よほどの事情がない限り断れるものでは……」
「だから、よほどの事情を何とか無理やりひねり出すのよ! どこかに抜け道はあるはずだわ! 勅令が出る直前に婚約していたとか、大きな持病が発覚してしまったとか!」
「ちょっと無理があるのでは……」
「あなたが閨係を務めるって方が無理あるわよ! だってリティス……あなた、男性経験がないじゃない!」
エマの悲鳴のような叫びが、二人きりの室内にこだまする。
その後の沈黙は、たいへん気まずいものだった。
リティスは恥じ入って視線を伏せる。
そう。老男爵と結婚したものの、リティスは未だに純潔を保っていた。
『スキモノ未亡人』なんて誤解も甚だしく、むしろ経験皆無だ。
老男爵は既に高齢で、夜のあれこれも盛んではなかった。それも男の沽券というものにかかわるようで、だからこそ若い妻を『床上手』などと吹聴したのだろう。
死別後も、ただひたすら慎ましく生きてきた。男爵夫妻の厚意に甘え、この家を出て新しい夫を見つけるという努力もせずに。
このまま微力ながら男爵家を支え、年を重ね、静かに消えていく。
それでいいと思っていた。
けれど――……。
「私は……この話をお受けしたいと、思っております」
リティスの口から、勝手に思いがこぼれ落ちていた。
頭の中で言葉を選ぶ余裕もない、驚くほど勢いに任せた発言。
そんな自分自身に戸惑っている間にも、エマは厳しい表情で言い放つ。
「私は反対よ」
「エマさん……」
リティスは少なからず驚いていた。
いつでも優しく頼れるエマに、頭ごなしに否定されるのは初めてのことだった。
彼女はふと、険しい眼差しを緩める。
「頑張り屋なのはリティスのいいところだけど、何も無理をすることはないの。みんなで対策を考えれば……あぁ、それでクルシュナー家に迷惑がかかると思っているのね? あなたは何も心配しなくていいから、私達に全部任せて……」
「――ち、違うんです……!」
リティスは必死になって首を振った。
膝の上で握った両手が震えている。思いを口にするのは昔から苦手だ。
けれどエマには、どうしても分かってほしいから。
リティスは引き結んでいた唇を開いた。
「私にとってアイザック様は……殿下は、誰より大切な方なんです! 子どもの頃からずっと……ずっとお慕いしておりました!」
再び静まり返る部屋に、弾む呼吸音だけが響く。
しばらく経ってから、リティスはようやく我に返った。
わざわざ大声で宣言することでもなかったのに、何とはしたないことを。
こちらを凝視するエマはぽかんとしている。
「あなたが……第二王子殿下を?」
信じられないといったふうに問われ、リティスは目を合わせないまま頷いた。
彼女にも……それどころか、誰にも打ち明けたことのなかった秘密。
十歳の頃、偶然王宮で知り合ったアイザックは、初恋の相手だった。
そして、老男爵と結婚し、死別した今になっても思い続けている。
我ながら馬鹿みたいだと思う。政略結婚を機に疎遠になったのだから、会えなくなったのもリティス側の事情のせいだ。
それなのに未練がましく、忘れられず、ここまで来てしまった。
エマは長い間、呆然と目を見開いていたものの、やがてそこに気遣いの色を浮かべた。
「リティスの気持ちは分かったわ。けど、それならなおさら、引き受けても辛くなるだけではない? 務めを全うすれば、閨係は不要となる。そうして殿下はいずれ……」
閨係は、あくまで性的な手解きをするだけ。
経験さえ積ませてしまえば用済みだ。
だから、既婚者の中でも後腐れのない者が選ばれやすい。未亡人でさらに年回りも近いリティスは、王家にとって最適な人材だったのだろう。
全てはアイザックと、いずれ婚姻する深窓の令嬢の、幸せのために。
胸が痛い。
彼の隣で笑う女性を想像するだけで苦しくて、視界がぼやける。
ぽたりと、リティスの手の甲に涙が落ちた。
一度気が緩んでしまうともう駄目だった。
いくつも、いくつも。涙は止まることなく頬を濡らしていく。
それでもリティスは、決然と顔を上げた。
「分かっています。この思いが報われないことくらい……それでも、せめて一度だけでも思いを遂げたい。夢を見たいんです」
閨での正しい作法なんてリティスは知らない。
教え導けと言われても、具体的に何をすればいいのか。
だが、アイザックとの甘い一夜を実現できるなら何でもする。
経験豊富な未亡人のふりだってしよう。
リティスの瞳から、もう涙がこぼれることはなかった。
「お願いします、エマさん。この家に迷惑はかけませんから……」
「家の迷惑とかそういうことじゃなくて! リティス、ちょっと落ち着いて……」
「お願いします!」
覚悟を込めて見つめ続けると、彼女はついに根負けした。
「わ、分かったわよ……協力するわよ……」
項垂れるようなかたちであっても、賛成を引き出せた。
夢の実現に一歩近付けたと、リティスは表情を輝かせた。