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最終話 まほろばの国

 家族の手を引き、家財を背に乗せた家畜を引きずって、人々は海に開かれた道を渡りきりつつあった。


 先にエナ島にたどり着いた者は、皆息をつくよりもまず後ろを振り返り、今自分たちが歩いてきたこの奇跡の光景を確かめずにはいられなかった。天空には星が雨のように流れ、海が開いて海底が道になっている。誰もがこの奇跡を忘れてはならない、この目に焼き付け子孫に伝えなければならないと思った。恐らく、千年のちの人々には、このような奇跡が地上にあったことなど理解できないだろう。


 対岸には槍や剣を持ったミカドの軍兵が集まっているが、誰一人としてこの道へと歩み出す者はなかった。この聖なる道に一歩でも踏み出したら最後、どうなるのかきっと誰もが本能で悟っているからに違いない。


 輿から降りたイワナはしっかりとした足取りで背筋を伸ばし、誰よりも深いまなざしで海の道を見た。


「ナル様が開いた海の門です。以後、我らはここを鳴門と呼びましょう」


 海と地が鳴り、空が吠え続けた。


 豫国を脱出した民はその音にひれ伏すように、この奇跡への感謝を祈った。


 そして次第に、流れる星が薄く、少なくなっていく。


 夜明けが近いのだ。


 その瞬間に、人々は我が身の行く先を案じ始めた。確かにとてつもない奇跡が起こって自分たちは救われた。しかし、この先故郷を離れて一体どこへ向かうというのだろうか。このエナ島と呼ばれる地に永住すれば良いのだろうか。しかし、ここは安息を求めるには豫国に近すぎる。例え海の道が閉じたとしても、ミカドの兵は用意さえすれば船を作って海を渡ってくるだろう。しかし、この島のさらに先の地など、想像すらできず、ましてそこで暮らす自分たちの姿を思い浮かべることなど出来はしなかった。


 しかし対岸の遠い空を見れば、不吉な黒雲が唸りを上げて豫国を覆っている。もはやあの地に帰れるはずもなかった。


 星の雨が消えゆくと共に、民達の心の灯火も弱りだし不安が伝染していった。


 海の道に異変が起こったのは、その時である。


「ああっ、海の道が閉じる」


 それは安堵でもあり不安の声でもあった。


 二つに割れて開かれた道は、大きな海鳴りとともに次第に狭くなっていく。


 しかし、再び閉じたと思われた海の扉は、正しく融合せずに不思議な動きを見せ始めた。遙かな海面が、回転しているのである。


 それは巨大な渦だった。凄まじい水量の渦は巨大な音を海原に響かせる。


 その音に吸い寄せられるように、豫国の上空にあった黒い雲が一斉に向かってきた。


「これは一体・・・」


 そう呟くイワナの横に、自らの力で立ち上がったナルが並び立っていた。その視線は海原の渦にある。


 驚いて右を向いたイワナだったが、姿形は同じはずのナルが、ナルとは感じられないのはどうしてだろう。


「ナルはこの地の神話を繰り返そうとしているのよ」 


 その言葉で、イワナはやはりこの肉体の中身がナルではないと悟った。


「この島が何故『エナ島』と呼ばれているかご存知ですか」


「・・・いいえ」


「東人の遙か昔の伝説でございます。この地に流れ着いた男神と女神は、互いの力を和合させて聖なる島々を生み出した。その最初の地となったのがこの『胞衣えな島』なのです。さあ、ご覧下さい。あなたの息子と教え子がその奇跡を今再び現します!」


 するとナルの胸が虹色に輝きだし、浮き出た勾玉は頭上高く上ると、そのまま天にあった星のような勢い、海原の大渦へと流れ去っていた。


 途端に豫国の暗黒を吸い込んでいた大渦が、朝日のような勢いで輝き出した。それは勾玉の虹色、そして先ほどまで降っていた星の輝きである。


「光と闇が中和・・・いえ、和合している」


 鳴門に渦巻く天から降る闇と、それを受けとめる輝きは辺りの全ての色を奪うかのように激しくなった。


 誰もが目を守ろうと、手をやる。


 しかしその中でただ一人、仮面をつけている大巫女は超然として新たな奇跡を見つめていた。


「ナルはまた新たな扉を開きましたよ。豫国の罪と穢れを浄化し、この聖なる島々の穢れをも永久とこしえに清める祓戸を!」


 ナルの姿をした大巫女は両腕を広げ、高らかに宣言した。


 しかし後ろに控えていたウメとモモも、抱き合いながらまた叫んだ。


「駄目です! 光が足りない! この光だけでは」


 イワナよりも強く、二人は鳴門の光と闇を感じていた。勾玉と星の輝きだけではまだ足りない。あの圧倒的な闇には負けてしまう。あれは豫国数百年の闇、この神州中の恨み、支配と征服の憎しみなのだ、


 このままでは、陰陽の和合が完成しない。二人は互いを守り合うように鳥肌を立てておののいた。


 しかし大巫女は二人の恐怖を一笑する。


「全く、巫女団の巫女は、いつからこんな腑抜けになったのかしら。我らが背には天の王たる輝きがあるではありませんか! さあ、新たな年の始まりです!」


 誰もが光と闇の大渦に釘付けの中、その背後で迫っていた光に気づくことが出来ていなかった。東雲はとうに終わり、東の山々からは日がすでに半身を現していた。


  陽の極たるその光は、鳴門の大渦を輝き照らす。


  先ほどまでは僅かに浸食されそうな翳りを見せていた光にさらなる力が漲り、今度は闇を求める勢いで回転を盛り返し、均衡を保った。


 光が闇を蝕しているのでもなく、闇が光を蝕しているのでもない。ただお互いが全力で求め合い、応えあっている。


 まるで男女が愛し合うように。


 回転する渦はいよいよ絶頂を迎え、一際大きな海鳴りを響き渡らせると、今度はすうっと静かになっていった。


 愛し合った余韻の中でまどろむように、深い波の音だけが岸に響いた。


 誰もが天からの無窮の光を浴び、千波の音を聞き、大地に抱かれるようにして吐息をついて、自らの生命を抱きしめた。


 朝日を浴びながら、波の音を背にして人々は大巫女を仰いでいた。岸辺の小高い岩場には、大巫女、イワナ、そしてウメとモモが並び立ち、朝日を背にして鳴門の渦を眺めていた。


「この身体も、もういくらも保ちません。私は次の大巫女を指名するためここにいるのです。イワナ殿。あなたはもう聞いていますね」


 イワナは小さく頷くと、神妙な面持ちでそのまま大巫女に拝跪した。


「皆の者聞くがよい。この先、私が隠れた後、皆を導く大巫女をここに告げる。次期大巫女はこのイワナである!」


浜辺にざわめきが流れた。特に驚いているのは、巫女たちである。イワナが巫女団にとって欠くことの出来ない大幹部である事は周知の事実だが、彼女たちはイワナの巫女としての資質がどのようなものであるかも知っている。そうでなくても、これほど高齢での大巫女の即位など古今例に無い。


 これからの旅路に、そんな老女に大巫女など務まるのだろうか。


「若き二人の巫女よ、お前達に異存はあるまいな」


 ウメとモモもイワナの両脇で拝跪し、顔を伏せたままで応えた。


「もちろんでございます」


「身命を賭して、お支え致します」


 聡明な二人はほんの刹那戸惑ったものの、すぐにこの意図と自分たちの役割を理解した。脱出した民が向かう場所は、纏向だと聞いている。そこまでの道のりの統率は、巫女としての資質よりも指導者としての力が必要になってくる。さらにかつて纏向で貴き身分だったイワナをおいて、豫国の民と彼の地の仲介となる者が他にあろうはずがない。


 そして自分たちこそ、そんなイワナを扶翼しなければならないのだ。


「かしこみて、拝命致します」


「本来は大巫女が後継者に数年の教育を施すが、もはやイワナ殿には不要でしょう。そしてこの身体も保つまい。よって御鏡、御箱、この聖杖を受けたのちはそなたが大巫女である」


 いつの間にかナルの右手には深緑色の聖杖が握られていた。


 イワナは顔を伏せたまま、僅かに震える両手で杖を受け取り、大巫女の顔を見ようと面を上げると、もうそこには何者の姿もなかった。


 立ち上がり、呆然とするイワナだったが、そのままふと凪ぐ事の無い鳴門の渦を見やった。


「わたくしは、また我が子を失ってしまったのですね」


 ぽつりと寂しく呟いた新たな大巫女に、ウメは恭しく申し上げた。


「いいえ、失ったのではありません。お二方は母の掌から巣立ったのです。そして我ら民の全てが、イワナ様の御子でございます」


 モモは同じく言った。


「イワナ様こそ、すべての民の御母でございます」


「・・・いや違おう。ナル様、サクヤ様、代々の大巫女たちこそ我らの御母であられたのです。生贄となった娘たちも忘れてはなりません。しかしこれより私は民の代母となって、新たなる地へ皆を導きましょう。さあ、故地をその目に焼き付けなさい。かつてまほろばだった、偉大なる国はいまや幻の国となりました。しかし我らがゆくもまほろばの国です。たとえそうでなくても、まほろばにせねばなりません。約束された豊かな国をつくりましょう」


 祝福のような潮風が吹き、岩場の三人の顔を撫でた。


 しばし海原を見ていると、ウメがふと大巫女に尋ねた。


「そういえばイワナ様。纏向というのは、国の名前なのですか。国によっては、土地の名前がそのまま国名になる場合もありますが、彼の地は纏向という国名なのでしょうか」


 イワナは海原にあった視線を振り返って東へと向けると、清らかな潮風を吸い込んで応えた。


「いいえ。纏向は国名ではありません。わたくしの一族が王家から分かれて彼の地に行ったとは言え、あそこもいくつかの国が集まった場所ですから。かつて筑紫の国々が結んで倭国と称したように、別の名前があります」


「その名とは」


「日(ひ)の本(もと)」



 東に輝く日を仰ぎながら、神の名を告げるように言った。





「『豫国から見て』、日のいずる遙かな東にある国。日の本」


                                終

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