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第百九話 幼年期の終わり

 目映い光が炸裂し、再び浮遊感が三人の巫女たちの精神を襲い、彼女たちは自らの時へと帰ってきた。


 天空には今も星々の輝く雨が流れ続け、眼下には変わらず割れた海と出現した道あり、そこには人々がエナ島を目指して走り歩いている。


 その対岸にはミカドの軍勢が集結し続けている。だが、彼らは開かれた海の道へとは進むことは出来ず、おののきながら目の前の光景を見つめていた。


「ねえ、姉様。私たちは時を越えて奇跡を起こしましたよね。でも、これで終わりなのでしょうか。この地を、あんな危機が襲うことはもうないのでしょうか。もしあるのなら」


「きっとこの先にも、この地はいくつもの危機に襲われるでしょう。でも私たちにはもうこれ以上は無理なの」


「どうしてですか」


「私たちの寿命より先の時までは行くことが出来ないのね」


 レイの導き出した答えに、ククリは頷いた。


「その通り、正確には行くことは出来ても干渉が出来ないの。レイ、あなたは本当に聡明ね。実は私が教え子に選びたかったのは、あなたなのよ。あなたと私は、似ているから。そして次の大巫女に選んでいたはずです」


 ククリの姉のような微笑みに、レイはほんの一瞬顔を強ばらせ、動きを止めて息を吐いた。


「・・・ありがとうございます」


 目頭を熱くしたその表情は、尊敬していた人物からの賞賛を受けた、幼い少女のようだった。


 きっと自分もククリやイワナに褒められたなら、こんな顔をする少女時代があったのだと、ナルは思う。


 光の粒子が目映い中、ナルは自分も何か姉と言葉を交わしたいと焦ったが、なかなか言葉が出てこない。離れていた間、彼女はどのように過ごしたのか。どんなところに住んでいるのか。今、幸せなのか。詳しく聞きたいこと、聞いて欲しいことはいくらでもあった。


 けれど実際にナルの口から出た言葉は、全く別の事だった。


 その言葉を口にした瞬間、ナルは姉と過ごした最後の夜の、あの言葉が頭をよぎった。きっと、自分の選択肢はそんな風に変わったに違いない。


「姉様、大神が地上から離れていくという話は、姉様も知っておられたのでしょう。その結果、一体世の中はどうなるのでしょうか。単に、豫国の民への守護が薄くなるということなのですか。倭国の神はどのように答えを導き出しているのでしょう」


「端的に言えば、寒くなるの」


「寒く?冬が来ると」


「いいえ、そのような季節のことではないのよ。『気候』が変わるの。一年を通して今よりずっと気温が下がる。これはこの地だけではなく、韓半島、漢土のみならず西の果てまで同じです。これがどういう事か分かりますね。世の中は大きく変わるでしょう」


「それはつまり・・・今までのように作物が育たなくなる」


 ナルはそれが意味する事を悟り、顔を蒼くした。


「そう、寒い地方ほどそれが顕著になります。人が作る作物だけでなくて、草木や獣たちにも影響が出ます。当然、食べ物がなくなる。その結果、滅ぶものもあるでしょうし、生き残りをかけて、豊かさを求め南下する者もいるでしょう。それだけではありません。今ある規則、豫国で言う法というものの前提条件が変わるのです。人々の考え方、生活そのものが変わる。ここに争いが起こらないはずがありません。想像も出来ないくらい広大な規模で、戦いが起きることになるでしょう」


 なんという途方もない話だろうか。その果てに世の中がどう変わるのか、想像もつかない。ただ、多くの悲劇が訪れることだけは分かる。ナルは眉尻を下げ、唇をかみしめて顎に皺を作った。


「それでも私たちは、何も出来ないのね」


「そう、驕ってはいけない。私たちは神ではないのだから。でも目の前の、理不尽な困難にに立ち向かうことは出来る。決して諦めず、絶望してはいけない」


「ククリ様も、倭国でご苦労なさったのですね」


 ククリの毅然とした物言いと微笑に、レイは目を伏せた。


「さあ、そろそろ別れの時が近づいてきたわ」


 先ほどまではしっかりとあったククリの身体の輪郭が、ほんの少しぼやけたものになっていることに、ナルは気づいた。そして互いの距離も先ほどよりも少し開いている。まるで陽炎のようになってく姉の姿を前に、途端に胸が早鐘を打った。


 ナルは手を出して駆け出すように一歩歩みだし、ククリのぼやけた輪郭を抱きしめた。これはお互い精神であるはずなのに、よく知った懐かしい香りが広がり、温もりを感じ、数々の思い出が脳裏を一気に駆け巡った。


「姉様。姉様!もっと、ずっと一緒にいたいのに。私も、倭国へ行きたいのに。そう約束したのに!」


 あの日々も、あの時ももう帰っては来ないのだ。涙を流すナルの髪を、ククリは光る手でそっと撫でた。それは巫女団の幹部でもなく、倭国の女王でもないナルのただ一人の姉の掌だ。


「愛しているわ。いつまでも」


 ククリが微笑むと、辺りはまた時を越えるかのように黄金の光が炸裂し、それが静まるともうククリの姿はどこにもなかった。


「あ・・・」


 恐らくこれが最後だったのだ。この先、きっと姉と再会することはないのだろう。本当にこれで良かったのだろうか。もっと話すべき事があったのではないだろうか。どうして人は、ずっと一緒にいられないのだろう。


 ナルが果てしない喪失に震えながら自分の両肩を抱きしめていると、後ろでレイが鼻息をついたのが聞こえた。


「私も、もっと語り合いたかったな」


 振り返ると、その視線の先は彼方へと消えたククリの残照ではなく、ナルへと向けられている。


「ナル・・・私はもう生者ではないから、私ももうここに長くいられないのよ。あなたとは色々あったけど、もうお別れね。でもあなたにはまだ長い人生があるわ。どうか豫国の民を・・・」


「そのことなんだけれど」


 レイが祈るように込めた言葉を、ナルは真顔になって遮った。その表情は姉を恋しがって泣く少女ではなく、指導者しての威厳があった。


「あなたがその身を捧げて、豫国はかろうじて破滅を免れた。けれどその地の穢れはずっと残るでしょう。草木は枯れて大地は荒れ果て、作物も育たない。疫病も広がる。私と共に行かなかった者たちは、絶望の淵をさまようことになる。私はこの大地の穢れを祓いたいと思うの」


「気持ちは分かるけど、どうするというの。豫国全土を覆った穢れは、大地に染みついて、豫国の痕跡をほとんど消してしまった。もう聖杖や鏡を使ったって・・・」


「私たち三人で起こしたこの奇跡を利用するの。この海に開いた道を」


 ナルがそっと両手でレイの右手を握ると、その思考が送り込まれた。ナルの胸が虹色に輝き、勾玉の輪郭を浮かび上がらせた。その輝きにレイは目を見開いた。


「そうか。あなたは、一人ではなかったものね。この星降る奇跡の瞬間、至宝の勾玉、そして陰と陽の和合の力を使えば、確かに出来るかも知れない。でも、そんなことをしたら、あなたの身体は。あなたには、この先エナ島へ渡った民達をさらに導く役目があるでしょう」


「その役目を、あなたに任せたいの」


「はあ?ちょっと、何か言っているのよ。私はね、王都で死んだのよ。もう肉体はこの世にないの!」


「私の身体を使って欲しいの」


 跳び上がる勢いで驚いたレイだったが、ナルの両目は真剣であった。


「私とナムチの魂は、勾玉に宿って豫国の汚れを祓うための奇跡を起こす。だから私の身体にあなたの魂を」


「冗談じゃないわ!常軌を逸している。他人の肉体に、別人の魂を宿すなんて不可能よ!」


「いいえ、私たちは巫女なのよ。その身に神を宿す女たちじゃない。確かに、きっとごく短い間にはなるとは思う。でも出来る。今は大巫女の言葉が必要なのよ。私はもうすでに次の大巫女を指名してあるし、それをイワナ様にも伝えてあるわ。けれど本当は、皆の前で私が宣言すべきだと思うのよ。そうでなければ、この危急の時に民心は得られない。どうかお願い、大巫女として最後の大仕事を頼みたいの」


「全く・・・私が王都でどれだけ大仕事したと思っているのよ。これ以上働かせるなんて、信じられない!」


 レイは聖杖の底を打ち付けたが、それで何かが抜けたのかため息とともに肩を落とした。


「あなたってば、もう最初から覚悟していたのね。分かったわよ。引き受けるわよ。その覚悟がどういうものか、私には分かるんだもの」


「ありがとう」


「それで?脱出する民を導く次の大巫女は、誰なのよ?」


 ※三世紀から顕著になり始めた「寒冷化」は八世紀頃まで続き、北半球に大きな衝撃をもたらした。ユーラシア大陸では北部の遊牧民が草原を求めて南下し、多くの難民を生み出した。彼らも南へ、西へと逃れていき、結果、かの有名な「民族大移動」を引き起こすことになる。


 その混乱の中で、あれほどの栄華を極めたローマ帝国(西ローマ帝国)は滅亡するのであった。


 中国大陸では三国時代は終焉を迎え、北地域はさらに分裂し、五胡十六国時代へと移り変わる。


 そして、日本。魏志倭人伝に記された卑弥呼の死と台与(トヨ)の記述から後が、この時期に相当する。世に言う、「空白の四世紀」の始まりである。

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