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第百六話 天に満つは (そらにみつは)

 大巫女を乗せた輿が海岸に到着したのは、西の山々に厚い雲から降りてきた日が沈もうとしている夕刻だった。沈み行く夕日を背に、白絹と金糸の天蓋で覆われた大巫女の輿は、護衛の男達が持つ無数の松明に囲まれ、サルタ将軍の部下によって運ばれて来た。


 正気の者は自然と跪き、海岸で狂乱の宴をしていた人々もこの時ばかりは動きを止め、大きく口を開けて呆然となった。大巫女と言えば、平時であればたとえ大貴族であっても一生近づくことなどなど叶うはずもない、豫国の神秘である。その至尊の地位にある者が、今、自分たちの近くにいるのだ。


 宴に混じっていた巫女などは、輿の中からほとばしる怒気を感じ取り、顔面蒼白になって震え、背筋を伸ばしてその場に膝をつける。一部では大巫女はとっくに豫国を脱出して、エナ島に渡っているという噂があったが、やはり最後の一人が脱出するまで残る意向であるというのは本当だったらしい。その事実に海辺の空気が変わっていく。


 しかし、狂気に満ちた空気がまるで清水によって祓われたように静まると、巫女たちはおかしなことに気がついた。


 大巫女の一団の輿が二台しかないのである。


 大巫女が輿で移動すること自体、鶴亀山を追われるまでは豫国の歴史の中でも前代未聞の出来事ではあったが、もし大巫女が輿に乗るのならば、まず大巫女ひとりが乗る輿、もう一つには国宝である鏡を治める御箱の輿が用意される。そして今回は大巫女の補佐をしているイワナの輿があるはずだから、普通に考えれば輿は三つないとおかしいのである。だが男達に固く守られてやって来た輿は二つ。


 その僅かに違和感が、巫女たちの心を不安にせさせた。


 しかしそんな巫女たちの不安をかき消すように、輿の中から雷のような厳しい声が響き渡った。


「これは一体何事ですか!」


 途端に罪悪感が全身を駆け巡り、民は平伏し、巫女たちは凍り付いた。


「申し訳ありません!ナル様、こ、これは」


 ナルの輿のすぐ側で、ウメは彼女の怒りを静めようと、とにかく何か弁護をすべく頭を垂れた。だが頭上からは、錦に覆われた向こうからでも分かるほどの激しい霊威があり、許しを乞う言葉は口から出すことが出来なかった。


「この豫国危急の時に、なんという愚かしい!」


 錦の向こうで、ナルが立ち上がる音がした。


 ウメは思わず顔を上げ、身構えた。いよいよ、大巫女がおよそ六年ぶりに姿を現すのだ。


 錦が上がり、現れたナルの姿にウメは絶句した。真新しい衣や白玉の首飾り、腕輪などは大巫女に相応しい立派なものではあった。しかし、彼女の顔は竹製の仮面に覆われており、その異形の姿はウメだけでは無く巫女たちを不安にさせた。少なくとも、鶴亀山や大麻山においても、ナルがこのような仮面を被って出てきたことなど一度も無かった。


 そして一番輿の近くにいるウメは、ナルの後ろに立つイワナを見て震えた。イワナはその細い腕で、ナルの腰を力の限り支えているのだった。


 よく見れば衣服からはみ出るナルの首や手首はイワナのものよりも細く皺が刻まれており、艶も無く、髪には白髪が多くなっている。思えば呼吸も異様に深い。


 やはりこの六年という歳月に彼女が背負ってきた労苦は、ナルの身体をここまで弱らせていたのだ。


 ウメはようやく見えてきた希望の光が、闇の中に消えていくような気持ちになった。


 しかし仮面の口から響く大巫女の言葉は、はっきりと滑舌も良く、厳かな声が稲妻のように浜辺に響いた。


「皆の者。このような愚かな振る舞いを私は大変残念に思います。このようなこと、決して許されることではありませんよ」


 夕闇が迫るすっかり黒くなった厚い雲が、天から圧迫してくるかのように人々を重苦しくさせ、ただ額を地に擦り付けさせた。


 だが、海から冷たい風が吹いたその時、酒か暢草か、すっかり出来上がった一人の男が、すくりと立ち上がり、輿の大巫女に向かって叫んだのである。


 「だってよ。仕方ねえじゃねえか!」


 巫女や近くの人々が取り押さえようとしたが、それでも男は止まらなかった。


「俺たちはよぅ、このままだと命が危ないって言うんで、巫女様方を信じて家族を連れてここに来たんだ。でもよ、船はもう何度もエナ島からを往復しているって言うのに、俺たち東人の平民や奴婢の番は来ねぇんだ。それにミカドの兵もうすぐそこまで来てるって言うじゃねぇか。もう終わりじゃねぇか。恐いじゃねえか。もうとにかく踊ってでもいなけりゃやってられねえよ。結局、西人の貴族連中だけが助かるんじゃねえか」


「お黙りなさい!」


 大巫女が叫ぶと、黒雲に一筋の光が走り、真の稲妻が鳴り響いた。


 男も他の人々も天空の轟音におののき、震えて平伏した。


「皆聞きなさい。皆をここに集めた巫女たちは、あなた方を救うと言ったはずです。何故それを信じられないのですか。心から大神を信じていれば、なにも恐れることなどないのです」


 しかし、と誰もが心の中で思った。この現実を前に、心を拉がれずにいられるだろうか。ただでさえ、近年大神の恵みは豫国にもたらされていない。しかも、今までもたらされていた栄華は結局、西人たちや一部の者だけに集中していたのだ。大神は本当に、自分たちを守ってくれるのだろうか。救ってくれるのだろうか。愛してくれているのだろうか。


 彼らの気持ちは、ウメでさえ手に取るように分かり、横目でナルを覗き見る。


「私は最も残念に思うのは、あなた方がここに残っていることです」


 ナルは先ほどの男に向かって言葉を掛けた。


「ど、どういうことですか?」


「あなた方はどうして船に乗らなかったのです」


 男は顔を上げた周囲の人々と、顔を見合わせて戸惑った。


「そ、そりゃ、俺たちだって乗りたかったですよ。でも伊国の貴族様方が先に・・・」


「自分たちが優先されるとは思わなかったのですか」


 思いも寄らない大巫女の言葉に、男をはじめ巫女も民もざわめき困惑した。


「もし巫女や指導した者の中で、西人を優先し、この者達を劣後とした者がいれば、私はその者を罰します。いるのなら、決して逃げられるとは思わないことです。しかしその者達とは別に、あなたたちも西人が優先されるのが当然で、自分たちは後だと思い、受け入れていましたね」


「そ、それは・・・」


「あなたたちも、豫国の民です。大神はあなたを愛しておられます。大神の前で、西人も東人もありません。それを信じ、西人と同じ機会を得て船に乗り込む資格があると、心から信じるべきだったのです。私はあなたたちが驕る西人達の前で自ら卑屈になり、絶望し、自暴自棄になっていることが残念でした。自らを粗末に扱う事は、罪なのですよ。例え誰から侮られようと、踏みにじられようと自分の心と命の尊さに疑いを持ってはいけない。それは大神を疑うことです。教えにもあるでしょう」


 しかしその言葉を語ったナル本人ですら、豫国の一般の民にはもはやその教えが伝わっていないのだろうということが分かっていた。


 ナルは急に胸が苦しくなり、呼吸が乱れそうになる。だが自らを抱く温かい手を背に感じ、決してそれを悟られまいとした。


「安心なさい。我々は無事に危機を脱することが出来ます。例えミカドの兵であろうと、大神が守り愛する我々を傷つける事など出来ません」


 大巫女の宣言に、巫女も民も目に涙を浮かべて感嘆の声を漏らした。ハーレと誰かが叫び始めると次々に賛美の言葉が続き、まるで合唱のようになった。


 丁度その時、船が帰ってきたぞという声が上がり、浜辺の歓声が一層大きくなる。目をやると確かに沖合には船が十隻、エナ島から戻って来ているのが見える。


 誰もが間に合ったと安堵の息を漏らした時、非情な警笛の音が人々の胸と耳を引き裂いた。


 蹄の音が聞こえ、サルタ将軍の部下が丘から全力で駆けてくる。


「ミカドの兵はすぐそこまで来ております! 将軍が防塁で待ち構えていますが、どうか皆様お逃げ下さい!」


 浜辺は再び騒然となった。


 だがナルはその伝令兵に言った。


「防衛は必要ありません。将軍にはすぐにここまで撤退するように伝えなさい」


「そ、それは・・・!」


「急ぎなさい。無用な死者を出してはなりません」


 有無を言わさぬ大巫女の言葉に伝令が再び駆け出すと、イワナが指示を出し、輿が人々をかき分けて水際へと運ばれる。


 人々は救いを求めて天に祈り、目の前の大巫女に涙を流して祈った。しかし船はすぐ見えている。あと少しで、間に合うかも知れない。


 焦燥が駆け巡る中、ナルはイワナとウメの手を借りて輿をゆっくりと降りた。その際、あまりの身体の軽さに、ウメは声が出そうになったがイワナの厳しい視線で、なんとか喉で堪えた。


「これは・・・いけない!」


すっかり暗くなった空くうに、不穏な光が飛んだのはナルが呟いたその時である。


 光は今まさに陸地に着こうとしている船に向かって飛び、船体に命中した。あちこちで悲鳴が上がり、船は瞬く間に炎が燃え上がって丸焦げになった。漕ぎ手たちが次々に海へと飛び込んで浜辺へと泳いできているが、彼らを迎える余裕など誰も持ち合わせてはいなかった。


「火矢・・・。このためだけに先行した兵ですね。ミカドとヤクサ将軍は私たちの計画に気づいたようですね」


 先行する船が炎上したしても、後続の船は即座に向きを変えることは出来ない。他の船も次々に火矢の餌食となって沈んでいく。


「終わりだ・・・終わりだ・・・!」


「殺される・・・私たちここで殺されるのよ。あははは」


 呆然とする人々の中から、絶望の声が漏れる。


「静まりなさい。信じるのです。ここから先、信じなければ生き残ることは出来ませんよ!」


 ナルは平静な声で叫んだ。そして自らの後ろに立つ、イワナを振り返り零れる花のように囁いた。


「では、イワナ様。後はよろしく頼みます」


ナルを支えるイワナの指に、一層力が籠もるのが分かった。


「ウメ、モモ。御箱を降ろして開きなさい。中の鏡をナル様にお渡しするのです」


 指示の内容に二人は顔を見合わせたが、イワナの声に反射的にすぐに身体が動いた。


 輝く日緋色金の箱に治められているのは、豫国最上の国宝。二人は翼を持つ幻獣の像に守られたその蓋をゆっくりと開いた。中には黒い鏡がある。かつて、倭国に旅立ったククリに授けられた複製の元物である。


 暗くてよく分からないが、その表面には何か文字のようなものが刻まれてある。


 二人は息を飲んで、鏡を見つめして覚悟を決めてその手に持った。


「ナル様」


「豫国の民よ。さあ、信じなさい。これより地上に奇跡が起こる!」


 ナルは細くなった両手で捧げられた鏡を受け取ると、鏡面を天に掲げて叫んだ。


 だが、歳月を重ねた黒い鏡は輝かない。日がとっくに沈んだ天空には厚い黒雲だけがあり、月の光すらも集めることは出来なかった。まして、今日は新月なのである。


 しかしその時、海から吹き付けていた風が急に強くなった。その勢いはどんどん増していく。寒風を受けて人々は悲鳴を上げ、身を寄せ合ってその場に座り込んだ。先ほどまではあれほど穏やかだった海面も大荒れとなる。


 そして、天空の雲が瞬く間に風で消え去っていく。


 見上げれば、そこには燦然と輝く銀河が現れた。


 黒い鏡面に、天空の星々が映り込む。星天が、今ナルの手の中にあった。


 「星が!」


 一番にウメが叫んだ。


 星々が一つ、また一つと流れていき、その勢いは増すばかりである。まるで雨のような数と勢いで、夜空はあっという間に光で満たされていく。その光の強さは、もはや月の光の比ですらない。


 まるで暁あかときのような明るさである。


 神の鏡はその光を受け、ナルはそれを海面に向けて反射させた。一筋の光が、海原を駆けていく。大地が震える。


 しかし、海面に変化はなかった。


(力が足りない。私では、奇跡を起こすことはではないの。大神の力はもはや)


 ナルの視界に、流れる星の雨とは違う光の流れが映ったのは、彼女が天に向けた顔を俯きかけた時、その時である。その光は天から地へと流れるのでは無く、まるで天を一直線に翔けているかのような動きだった。


 あれは。


 それが金色に輝く鳥だと気がつくと、ナルは周囲のざわめきが一切聞こえなくなった。そしてまるで一人だけ異界に入り込んだような静寂に包まれる。


『顔を上げなさい。そのように無様な姿は、大巫女にふさわしくないわ』


 それはかつて先代の大巫女であったサクヤに言われた言葉である。しかしその声色は、サクヤのものではない。


 左に顔を向けると、そこには遙か昔に別れた姉の姿があった。歳を重ね、傷跡もあり、体つきも違うが、その面差しは間違いなくどこまでも優しかった姉のものである。


 ククリは微笑み、鏡を持つナルの左手に手を置いた。


 『頑張りましたね。私も、力を貸します』


 海が震え出す。さらに光は集まり、先ほど走った光の筋をなぞるように海面が動き出そうとしていた。このままいけば、海が割れる。戸が開かれる。


(まだ、まだ足りない。姉様が力を貸してくれているというのに。ああ、大神よ。地上に残る奇跡よ)


 すると今度は天から緑の光が高速で降りてきた。その光は意思を持った矢のようにナルの元に到達すると、鏡のすぐ右側でぴたりと止まった。


 そこに浮かぶのは、もう一つの国宝。深緑に輝く杖である。


『なによ。情けない。しょうがないから、手を貸して上げるわよ』


 右に顔を向けると、そこには別れた友の姿がある。それはもう一人の大巫女でもあった女性である。


 レイの掌がナルの右手を導き、杖を握らせる。


『さあ』


『いまこそ』


「ああっ、我に光を!」


 真夏の昼間のような光が、さらに輝きを増す。


 ナルにはようやく遠くに音が聞こえてきだした。水の流れ、大地の唸り、そして天地の祝福。


 海の扉が開かれる。


 そして、新しき大地への道が開かれるのだ。

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