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第百四話 サルタ将軍の秘密

「だから、あんたの出番だって言ってるでしょ!!」


 民が避難船へと乗り込む海岸に最も近い陣地の中で、ウメは卓に両手を叩きつけ、今にも飛びかかる勢いで怒鳴った。声は土の香りのする天幕内に響き渡り、当然外にも漏れていることだろう。


 だが、そんなことを気にする余裕など無いし、外の連中もきっとそれどころではないはずであった。


「いい加減、新たなミカドになると宣言しなさいよ!」


 ウメの目の前で腕を組み、眉間に皺を寄せて目を閉じるサルタ将軍は、それでも沈思し続けた。巨木のように背筋を伸ばし、膝を開いて椅子に座る姿には威厳があり、将軍がふうと一息吐いて豊かな髭を揺らせば、並の兵ならたちまち縮み上がってしまうほどの貫禄がある。


 だが、ウメの方も将軍の吐息ごときでたじろぎはしなかった。今や彼女も巫女団の幹部の一人であるし、混迷を極めたこの数年で、随分と兵と行動をともにした。肝の据わり方では、サルタ将軍直属の部下にも負けていない。そしてそもそも、もうこの天幕には自分の他に、サルタをミカドにと求める者はいないのだ。


 天幕には、ウメとサルタの二人だけだった。将軍直属の部下達は、前線で撤退の指揮を執っているのである。


 王都から差し向けられたミカドの軍は圧倒的な数だった。伊国に入るまで彼らはサルタ将軍が巡らせた地理的な罠に陥って士気も下がり、兵糧も僅かだというのに、数を減らしながらもそれでも進軍を止めはしなかった。仲間が穴に落ちても、川船を沈められて水に流されても、矢で射られても止まらない。飢えに苦しめば馬を、時には死んだ兵を喰らって凌ぐというすさまじさである。


 その様を恐れて、逃げ出す友軍も一人や二人ではない。


 だが、彼らの目には生気というものが感じられなかった。空腹と疲れのせいか動きも鈍く、矢で狙えばまずよけることは無かった。それでも進軍は止まらない。まるで死人の軍団が、攻め込んできているようである。


 数が減ったと言っても、それでも伊国の兵達よりも王都の兵は遙かに多い。こちらは民を避難させながらの防衛戦なのだから、それはいかに指揮者がサルタ将軍でも簡単なことではなかった。


 もはや戦はこちら側に勝ち目が無いことは、誰の目にも明らかである。だが、もともと自分たちにとって、戦に勝つということが最終目的ではない。真の大巫女であるナルの命令を果たすこと。それこそが巫女団とサルタ将軍の勝利に違いなかった。


 すなわち、民を連れての豫国の脱出である。


「とりあえず計画自体は迅速に進んでいるわよ。だから戦線を一気に下げて、兵の負担も軽くなった。向こうの進軍速度も鈍いまま。でも将軍なら分かるでしょう。このままじゃ、兵や民や巫女の心が折れてしまう。あれが聞こえるでしょう」


 ウメは天幕の外に指をさした。


 海岸からはどこか心を不安にさせる波の音とともに、陽気な太鼓や手拍子が聞こえてくる。それは今自分たちが置かれている状況を考えれば、まことに奇妙なものだった。ウメは早足で布をめくって天幕の外へ出ると、目を細めて浜辺を見やった。


 見渡す限りの広い砂浜には、船を待つ民達で溢れかえっている。少し前まで、背負えるだけ背負った大量の家財道具が揺れる音や、連れてこられただけの連れてきた家畜の鳴き声で人の声の方が小さいくらいだったのに、今は太鼓と手拍子、笑い声でかき消されている。


 この数年、ナルの密命を受けて各地から避難させてきた者たちの最後の一団である。


 彼らは迫り来るミカドの軍と、自分たちの乗るはずの船の順番がなかなか回ってこないことに神経をすり減らし、いつの間にか酒を呷りはじめ、暢草が出回り、宴会のような騒ぎとなっているのだった。よく分からぬ歌を歌い、踊り、淫らな行為をする者たちもいる。そしてその中には、戦いから逃げてきたサルタ将軍の兵や、巫女団の者までいた。


「このままだと、最後の最後で間に合わなくなる。張り倒したり、首に縄を掛けて連れて行くにしたって、乗船する時に予想以上の時間がかかってしまうわ。今撤退を指揮しているあなたの部下やその下の兵だって、もうぎりぎりなのは分かってるでしょ。でもあなたが新たなミカドだと宣言すれば、みんな大きく勇気づけられるのよ。向こうにだって動揺が広がって、きっと今以上に足が遅くなる。良いことずくめなんだから!なのに一体なぜそうも頑ななの」


 ウメは右足を大きく地面に叩きつけた。


 サルタ将軍は何を考えているのだろうか。今のこの状況を考えれば、部下を戦わせている将軍として、民を連れてきた者の責任として、そして王家の者として当然のことを求められているだけではないか。もちろんそれは今までとて同じ事ではあった。


 ミカドの心身が病んでいることは、この伊国にいても誰もが知っていることであるし、この無謀な進軍をみてそれはさらなる確信へと変わっただろう。狂乱している者たちも、ミカドの軍の数に震えていると言うよりも、乱心したミカドと常軌を逸した兵の動きに怯えているというものも多分にあるのだ。


 ならばなぜ、この人格者として誉れ高い男が、立ち上がらないのか。


 今こそ、サルタ将軍がミカドとなれば、いや、本当にミカドに即位はしなくても、我こそがミカドだと宣言するだけでも、敵味方の人心は大きく変わるはずである。その事に気づいた時、ウメは暗闇の中に一筋の光を見た気になった。


「しかし、私は・・・」


 サルタ将軍は同じ姿勢のまま、言葉を濁した。表情と声色は確かに苦しげではあるものの、やはり答えは変わらない。


 ウメは卓を勢いよく蹴り上げた。


「もういいわよ!分かったわ。もうあんたが意見なんて関係ない。私が今からみんなにサルタ将軍が新たなミカドなると宣言したと言いふらすわ。そうよ。別に冠や聖杖や、長衣を着て即位式を見せる必要なんて無いんだから。ただそういう話を流せば、自然と状況が変わる。ああ、なんで今までそんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。サルタ将軍、あんたは黙って撤退戦の指揮だけをしてればいいわよ。私が」


「そんなことは許されない!!!」


 サルタ将軍は勢いよく立ち上がり、大きな掌を卓の上に叩きつけた。その震動と風圧でウメの前髪が上がり、天幕が揺れる。


「ならば理由を仰ってください」


 ウメは自然と、大幹部であるイワナのような口調になっていた。


「あなたがミカドに即かれないのは、父君を殺めたくないという理由だとイワナ様から何度もお聞きしました。親殺しの禁忌は、身分の上下を問わず、また他国においても共有する価値観ではあります。だからこそ、そう言われれば


 誰もが黙ってしまった」


「そうだ、私は・・・」


「しかしそれは嘘です」


 巨樹に雷が落ちたかのように震え、サルタ将軍は大きく息を飲んだ。


 その呼吸に吸い寄せられるがごとく、ウメは大きな歩幅でサルタの眼前へと近づく。


「あなたは何かを隠しています。それは私もモモもイワナ様も気づいていました。それでもあなたを信じてきたのです。あなたの大巫女様への心からの尊崇の念や、部下や民に対する思いやりは本物だと今でも思っているから。きっと、重大な秘密なのでしょう。しかし、こうしてあなたの部下が命を散らし、大神の巫女たちが、豫国の民が虐殺の危機にあるという今、どんな禁忌が言い訳になるというのですか。言って下さい。今まで死に、これから死んでいく者たちが納得できる理由を。そんなものがこの世にあるのか、教えて下さい」


 震える右手で顔の半分を覆い、サルタ将軍は重い吐息を漏らした。


「・・・豫国のミカドは代々、王家直系の男子がなるものだ。それが豫国建国以前からの、絶対の掟なのだ。それは大神との契約のひとつでもある。それが破られれば、これすなわち大神との契約の破棄を意味する。豫国の民は神の民ではなくなり、豫国は神国ではなくなるのだ」


「そんなこと、巫女ならだれでも知ってるわよ。でもそれがどうしたというの。王族の妃と、ミカドの王子であるあなたは正統な」


「違うのだ。私は、ミカドの実子ではないのだ。それどころか、私は西人ですらない」


「なにを・・・一体何を言っているの。将軍がミカドの実子ではないなんて、そんな馬鹿なことがあるわけがない。もしそうだというのなら、一体何者なのよ。ミカドの第七王子だから、王宮で育ち、コウゾ邦の太守も任されていたんでしょう。そうでなければ説明が付かない。第一、西人ではないっていっても・・・その見た目はどう見ても、東人ではないわ」


 ウメは改めてサルタと将軍の姿を見た。自分の背丈の倍はあろうかという巨大な体躯、彫りの深い目鼻、墨のように濃い眉毛や髭。それはどう見ても、遙か西方からこの地へとやってきた西人、すなわちこの豫国の支配者層の特徴である。貴族であっても東人の混血の進んだ中、これだけはっきりとした西人の特徴が残っているというのは、紛れもなく王家の血統以外考えられない。


「私の母は、ミカドの妃の一人であった。だが、子がなかなか生まれなくてな。しかもやっと授かった赤子も三度立て続けに死産となった。それで心を病んでしまったのだ。ある時、その母がどこからともなく連れて帰ってきた子どもが私というわけだ。一体どこでどう拾われたのかも誰も分からない。母は私が実の子だと思い込んでいたし、ミカドも王宮の者も、刺激してはならぬとしてそれに合わせた。もちろん哀れな妃に対する同情もあったのだろう。私の上には六人も兄がおった。私がミカドになる可能性など誰も考えていなかった。母が心安らかに過ごしていれば王宮も安泰、もし母が身罷れば私はひっそりと王宮からも王家の歴史から消え去ることが暗黙の了解だったのだ。王都を離れ、コウゾ邦を任せられたのも、そういう先々の思惑があってのことだ」


「・・・信じられない。こんな話が、現実にあるの」


「現実にあるのだから、受け入れるしかない」


 サルタ将軍は、恐らく一番苦悩しただろう少年の頃を回想するように目を閉じた。


「これで分かっただろう。私がミカドに即くことは許されることではない。なんの正統性もない、大神に対する裏切りなのだ。そんな事になれば、その時こそ大神は激怒し、この豫国と民を滅ぼすだろう」


 ウメは遠くなりそうな意識をこらえ、なんとか思考を続けた。まるで考えていない事態になってしまった。


 せめて先ほど思った通り、サルタ将軍が即位を決意したという噂だけを流せば良いとも思ったが、それではミカド側から真実を告げられれば、皆の心は余計に打ち拉がれてしまう。


 今は、何か希望が必要なのだ。


 例え小さくとも、暗い心に灯りをともせる何かが。


 それは、一体何だろう。

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