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第百二話 いばらの冠

 ざわめく円形の闘技場では、観覧席に貴顕の男女が美々しい身なりで並び揃っている。いつものように酒を携えてひしめき合い、地上には普段はここに入ることは許されない平民達が溢れんばかりに押し寄せていた。


 平民達は無論この王都の異常事態と生活の不安で口々に嘆きの声を上げていたが、それを軽蔑するかのように彼らを見下ろす貴族達も、内心は似たようなものだった。戸惑いをを酒で必死に押し隠し代々の支配階級として、平静を装っているだけに過ぎなかった。


 ざわめく闘技場に太鼓が打ち鳴らされ、竹法螺が鳴り響いた。


 すると今まで騒然としていた空間が、一気に静まりかえった。いつもはミカドが登場するその合図と場所に、尊い白衣を身に纏い、左右に神聖な獣を従えた王女がゆっくりと姿を現した。その頭上には金の冠が煌めいている。


 かの王女が先日、大巫女であったレイを捕らえ、その罪を暴いた上で臨時の大巫女となったことは、今や王都の誰もが知ることであった。しかし今まで王宮においても、シンハの世話役としてそれほどの存在感を持たなかった王女が、まさかこれほどの霊威を放つとは彼女を見知る貴族達ですら誰も想像すらしていなかった。


 貴族達はかろうじて反射的に「ハーレ」と叫び合ったが、下々の者は闇を照らす光の如き麗姿に、息を飲んで釘付けになった。


 ミオは静かに左から右へと静まった闘技場を見渡すと、良く通る高貴な声で言った。


「皆の者。今、誰もがこの豫国、王都の異変に戸惑い、嘆いていることでしょう。どうしてこんな事が起こっているのか、その理由が知りたいと思っていることでしょう。私はその答えを知っています」


 王女の言葉に、誰もが首を伸ばしてさらに彼女の姿に注視する。


「それは・・・長きに渡ってこの豫国の大巫女にあったレイ。あの者が、偽の大巫女だったからなのです」


 闘技場は一斉にどよめき返した。その噂自体は、レイが大逆の罪で捕らえられた日から王都に流れていたものではあった。しかし今ここで、この王女の口から耳にすると人々は改めて顔を見合わせて驚愕し合った。


「レイとダンの一族はミカドを謀りました。その卑しい身の上と、先代の大巫女サクヤ様のご遺志を偽り、大巫女の地位を得たのです。しかしそのような仮初めの者が、豫国で最も尊い役目を果たせるはずがありません。昨年も、一昨年も、さらに以前からずっと、彼女が行ってきた年送りの神事は全て偽りのものでした。もちろん年送りの儀式も。豫国の罪と穢れは、祓われておらず、その淀みは年々と溜まっていった。そしてついには大神もお怒りになり、豫国に数々の災いが襲いかかった。それがこの現状なのです。・・・・静まりなさい! 皆の失望と不安はよく分かります。この事態を収めるため、私は、本日ただ今より大巫女として年送りの儀式を執り行います」


 自らを新たな大巫女と宣言したミオは、握っていた聖杖の先を闘技場の入り口へと向けた。激しい太鼓の音が響き渡り、人々の視線もそちらに集中する。


 そこには土埃が舞う中、腕を荒縄で縛られ、前を歩く兵に引かれながら、裸足でよろけて歩く女の姿があった。


 長い髪は乱れ、顔は泥と埃にまみれ、身体の至る所にある無数の傷口から血が黒く滲んでいる。しかし何より目を引いたのは、女の顔の左半分を被った襤褸布である。 


 その襤褸布からも血が滲んである。聡い者は、それを見て彼女が左目を奪われていることを悟った。


「大罪人、レイをここへ!」


 ミオの言葉で、闘技場を連れられて進むこの女が、全ての不幸の原因であるあのレイなのだと気づいた人々は、一斉に視線に憎悪を滲ませた。


 特に距離の近い平民達は、言葉にならぬ怒声と罵声を次々に張り上げる。次第に誰かが小石を投げ始めた。その小石がレイに当たって彼女がよろけると、人々は湿った歓声を上げ、次々にさらに大きい石を拾い集めて投げた。


 レイを引く兵が一応槍を掲げて彼らを制止するのだが、次々と投げ当てられる石から、特に彼女を守ろうとはしなかった。蹌踉けて歩調の遅くなった彼女を、太い腕で縄を引き、引きずるように前に進む。


 レイが一歩進む度、人々の怨嗟の声はさらに激しくなった。


 周囲の声が嵐のように飛び交う中で、レイは乱れた呼吸を抑え、残った右目で闘技場を見渡した。右から左、上から下。どこを見ても突き刺すように憎しみの籠もった視線が、無数の矢のように自分を突き刺している。


 自らの不安と絶望が憎しみに変え、この不幸の源は全てお前だと責めてくる。そこには身分の尊卑など何も関係なかった。むき出しの怒りが、ただ放たれている。


 その光景を見て、レイは身体から何かが溶け出すように力が抜け、その場に座り込みそうなほどに愕然とした。


(こんな下らない奴らのために、私は祈っていたのか。この身を汚し、他国を呪っていたのか)


 今、高い地位にいる者ほど、この滅び行く国で果たさなければならない責務があったはずだ。だが、一体あの着飾った連中の誰が、国とそこに暮らす民を憂いで立ち上がったというのだろう。いや、自らの保身のためでも良い。変化を、望んだだろうか。


 そして今、同じ目の高さで石を投げてくる平民達は、安寧の中でどうして蒙昧であり続けることになれてしまったのだろうか。


 かつては違ったのだろう。偉大だった。


 だが、腐った。


 国も人も腐ったのだ。


 この腐臭漂う土地と人々を、どうしてなんとか出来ると傲慢で、無意味な希望を抱いてしまったのだろう。


 レイは顎を上げ、屍の満ちる闘技場の遙か上座に虚ろな目をやった。


 そこにはこの闘技場でただ一人、勝者の微笑を浮かべるミオ王女の姿がある。


(呪ってやる・・・。殺してやる・・・。こんな国など滅びてしまえば良い)


 闘技場の端まで来ると、今度は背中を槍でつつかれながら、遙かな階段を上らされた。最上階にはミオ王女がおり、その数段下に磔用の柱が立っている。ここで火あぶりにして、生贄とする計画なのだろう。


 あの女は、年送りの作法よりも大衆の心を選んだ。


レイは何度も倒れそうな足取りで長い階段を上がったが、一段上がる度に体中が痛みで悲鳴を上げ、そのたびに怒りと憎しみが増した。




(ああ、殺してやりたい。何の価値もない者どもめ。ここにいる全員を呪い、全ての不幸を味わわせてやりたい。あの杖があれば、それが出来るのに)


 レイは遂に階段を上り終えた。


 今まで背を槍で押していた兵二人が彼女の縄をほどき、そのまま柱にくくりつける。ミオ王女が目配せをすると、兵は藁や油をレイの足下に用意した。


「これより年送りの儀式を始める」


 王女の声が響くと、人々はより熱狂して殺せ殺せと声を張り上げた。


 左右の兵が命じられたままに槍を掲げたその時、闘技場の端で起こったどよめきは一気に人々の間に広がった。


 レイもどよめきの根源へと視線を向ける。


 そこには、輝く剣を構えた男の姿があった。


 それが誰であるのか確信して、レイは全ての感情を忘れたかのように右目を見開き、全身を強ばらせる。


「ワカタ」


荒れた唇で、誰も聞こえないほどにレイは小さく囁いた。


 彼方にいるワカタと、視線が合う。


 考えなくても全て分かる。彼が何故、ここに来たのか。彼が何故、あんなにも恐ろしい顔をしているのか。


 それが分かった瞬間に、このあふれ出す熱い思いは何なのだろうか。あふれ出すこの涙は何なのだろうか。


 もはや命が惜しいわけでもなく、ここから逃れたい気持ちなど無い。だが、ここにワカタが現れたことでどうしてこうも安らげるのだろうか。不思議なことに、氷が溶けるように怒りや憎しみが消えていく。


 しかしその安らぎの中、すぐに不安が駆け巡りレイははミオ王女を仰いだ。その不安は的中した。


 彼女は白い歯を食いしばり、ワカタの方を苦い顔で睨んでいた。


「何をしている!あの者を捕らえなさい!いいえ、神聖な儀式を邪魔する大罪人です。その場で切り捨てなさい。あの者の正体を私は知っています。あやつは倭国の諜者なのです」


 まるで合図のようにシンハ達が雄叫びを上げ、すぐさま剣や槍を持った兵達が、ワカタのいる闘技場の入り口へと押し寄せる。しかし、最初の数人が今まさにワカタに襲い巣かかろうとした瞬間、彼らは血しぶきを上げて絶命した。


 続けて厚い甲冑を着込んだ兵達も間合いを取りながらながら槍を差し向けたが、力を込めて切っ先を差し出した瞬間に、甲冑ごと深々と切れて次々と倒れ込んだ。


 ワカタは自分を取り囲みながらも狼狽える兵達の姿など気にもせず、睫を伏せて深く息を吐いた。彼が右手に持つ日緋色金の剣は、まるで主の霊気を吸い取るようにその輝きを強くする。空いた左手は舞いのように半円を描き、剣の霊威を洗練させていた。


 その異様な迫力に誰もが戦慄を覚えた。今、この男に近づけば間違いなく殺される。その本能的な直感は、兵達だけではなく観覧席にいる貴族達にすら寒気を覚えさせた。


 次の瞬間、ワカタがかっと目を見開いて右足に力を込めると、不思議な波動が兵達の動きを封じた。その一瞬の隙に、ワカタは舞のような一振りで彼らの生命を奪った。


 人々が悲鳴を上げる中、ワカタは血の滴る輝く剣を天に掲げ、かすれた声で叫ぶ。


「我は倭国の諜者にあせず。畏れ多くも大豫国、至尊の大巫女レイ様に仕える儀仗である。神殿の守り人なり。レイ様は今も真実この国の大巫女であらせられる。命を削り、身を捧げこの国と民のために祈ってこられた尊き御方なるぞ。お前達、この無礼、命を持って償うが良い」


 ワカタの乱れた髪も、伸びた無精髭も汚れた肌や衣服も、誰もそんなことは気にならなかった。ただその光る剣の切っ先に怯えた。日の光を集めるあの剣に、その眩しさに、まるで自らの心の恥部を刺されたようないたたまれなさだった。


「ワカタ」


 しかしレイの心だけは、ますます熱いものが溢れていた。


 この愛しさと温かさは何だろう。果たして、今まで自分はこのような感情を持ったことがあっただろうか。この思いで祈ったことがあっただろうか。この優しさで、人と触れあったことがあっただろうか。


 そしてこのような愛しさで、自分を愛したことがあっただろうか。


 それが一番、大事なことだったはずなのに。


「お黙りなさい。野蛮な倭国の手先が、なんと汚らわしい。今や豫国の大巫女は私です。この者はミカドの命を狙った大罪人」


 ミオ王女は聖杖の底を地に打ちつけ、左右のシンハ達も彼女を称えるように雄叫びを上げる。すると闘技場を囲む観覧席の最上段から、弓矢を構えた兵達が次々に姿を現した。真下の貴族達も慌てふためいたが、弓兵たちは顔色を変えずに狙いをワカタに定めた。


 それでもワカタの前進は止まらなかった。頭上の弓兵を右から左へと睨み付けて視線をレイに戻し、湯気が上るように怒気に溢れた身体がそのまままっすぐと歩いていく。近づく者は一振りで絶命した。


 人々のどよめきは波紋を呼び、やがて波のように引いてワカタの進路を開いた。


「放て!」


 良く通る弦の音が次々に響き、輝く鏃の矢がまるで星の流れるように放たれた。しかし、それすらもワカタは何事でもないかのように最小の動きでかわし、薙ぎ払う。 


 その様に、人々はいよいよどよめきを超えて言葉を無くした。


 これは死だ。決して触れてはならないものだと、たちまち背中を見せて逃げ出す。


 しかしワカタが剣を振るったその瞬間、彼の瞳にほんの僅かな疲労と痛みが映ったのを、遙か頭上のミオ王女は決して見逃さなかった。本能的な嗅覚でワカタの身体が万全ではないのだと感じ取り、思わず首を出して身も乗り出す。


「弓兵、休まず狙い撃ちなさい」


 そして自らは聖杖に願いを込めて祈った。今の自分には、一体何が可能なのかも全て理解できている。


 ミオが杖先をワカタに向けると、まるで時が止まったかのように彼の身体は一瞬硬直した。ワカタはすぐさま全身に力を込め、自分を縛る不可思議な力を振りほどこうとした。ぐっと空気が張り詰め、そこに太鼓を叩いたような音がする。ワカタが自由を取り戻すのは、後一瞬で可能だったはずである。だが、雨のように降る、輝く矢が彼の身体に突き刺さるのは、その一瞬で十分だった。


 鈍い音とともに幾本もの矢がワカタの身体を深々と貫き、血しぶきが上がった。


 舞い上がった血が大地に落ちると同時に、ワカタはその場に膝をつき、ごほっと吐いた血が地面に染みこむ。


 人々は息を飲んだが、ミオ王女だけはにやりと口元を歪めた。もうあの男は立てはしない。


「手を休めてはなりません!そのまま射殺しなさい!」


 貴重な金色の矢はその後も休むことなくと延々と放たれ、次第にワカタの身体も顔も、地上から喪われていった。静まりかえった闘技場で、ミオ王女の哄笑だけが響き渡る。


 ぼろぼろになり、輪郭すらおぼろになったワカタの残骸を見て、ミオ王女の胸は踊った。今この時、一体、吊された娘は、愛する男の死にどのような表情をしているだろうか。恐らく眼下の惨事に目を背け、震え泣いているはずだ。


「さあ、目をお開けなさい。あの愚か者の死に様を見て、己自身を恥じなさい!」


しかし、聖杖の先端を突きつけるように振るった先には、王女が想像もしていなかった光景があった。


 レイは先ほどまでの衰弱が嘘のようにしっかりと背筋を伸ばし、かつてワカタと呼ばれた残骸をじっと見つめていた。その目には叫びも嘆きも、絶望は映っていなかった。


「なんと・・・なんて冷たい娘でしょう。やはり卑しい者には人として当たり前の感情がないのでしょうか」


 信じられないと、顔を引きつらせていったミオの言葉に、レイはようやくゆっくりと目を閉じて応えた。


「私は、あの方の命の最期をしっかりと見届けることが出来ました。今見た光景を、私は一生忘れることがないでしょう。私は、愛を受け取りました」


 ワカタの骸から流れていた血がどんどん黒くなり、蠢き出したのは王女が言葉が出ずに大きく口を開けたその時である。最初はだれもが見間違いだと思っていたその蠢きは、液体が増殖するように大きさを増すことで確かなものになった。まるで泉から水が湧き出るように、不透明な黒い液体が蠢きながら大きくなっていく。


 その黒の中心部が異様な盛り上がりを見せた時、人々に髪が逆立つような悪寒が走り、全身に鳥肌が立った。鼓動が早くなり、汗が吹き出し、震えが止まらない。息切れをするような苦しさが駆け巡る。


 もうあの黒いものを見ていたくない。頭ではそれを理解し、身体が悲鳴を上げているのに視線を離せないのは何故なのだ。


「あれはなんです!」


 聖杖を握りしめたミオ王女は、怯えている左右のシンハを守るように、最も高い場所で叫んだ。


 その問いに、吊された女が静かに応える。


「あれは、この豫国から各地に送られた呪詛の塊です」


「なんですって」


「もう何年も以前から、サクヤ様が大巫女であられたよりもずっと前から、この豫国から放たれてきたものです」


「あれが、呪詛だというの。しかし何故こんなところに、よりにもよってこの神聖な王都に」


「彼方の土地にも、優れた者がいたのでしょう。呪詛は、この地にかえってきたのです」


 悟ったように言うレイに、ミオ王女は杖の底を叩きつけて怒鳴った。


「ならばお前の力不足ではないではないか。卑しいお前に力が無かったからこうなったのです。先代の姉上様も一体何をしていたのでしょう。もっと強力な、もっと恐ろしい呪詛を送れば良かったのに!全てお前のせいです!」


 ミオ王女は再び聖杖に祈りを込めた。先ほどよりも深い祈りに応えるように、杖全体が深緑の光で輝きだし、長い王女の髪もふわりと浮き上がる。全ての力を込め、今な隆起し続ける黒いものに向けて放った。


 力は緑の輝きを伴って黒いものに矢のように到達した。その一瞬、人々の心に希望が生まれ、小さな吐息となる。


 しかしそれはほんの刹那である。


 蛇の頭のように隆起する呪詛の黒は、緑の光を鉄が雨粒を弾くように小揺るぎもしなかった。


 そして黒いもののあちこちに、無数の赤い瞳の「目」がかっと開かれた時、人々は今度こそ心臓に氷を突きつけられたようになった。


 何人かはかろうじて呻き声のようなものを出していたが、多くの者は凍ったにように動けない。あの赤い目から、自分の目へと何か冷たく、異質なものが身体に入ってくるような恐怖。身体と精神が浸食されるおぞましさ。死の一歩手前で、何度も足踏みしているかのような寒さだった。


 寒い。寒い。一体この寒さは何なのだ。


「ああっ、サルタ、サルタ・・・私を、私を助けて!」


 ミオ王女は震えて怯えるシンハ達と身を寄せ合い、杖握ったまま手を組んで愛しき者の名を何度も呼んだ。


 誰もが恐怖を通り越し、思考は混乱してもう気が狂ったにようになっている。それでもここから逃げ出すことも出来ず、指一本すら動かすことも出来はしない。寒さに凍えながら、深い穴の中に落ちていくような感覚である。そしてそこに底などという慈悲深いものは、存在しないのだろう。


 人々が我が身の末路を予感したその時、春日の光を思わせる温かな声が闘技場に響き渡った。


「皆の者よ。その寒さに負けてはなりません」


固まった人々は、その声の方向に顔を向けることは出来ない。しかし、この高貴な声が、一体誰から発せられているのかすぐに悟った。


それは豫国で唯一、ミカドよりもさらに高みにいる者。大神殿の主に他ならない。


「己の魂の温かさ、この世で受けた愛を思い出し、私の声を聞きなさい。今私たちが感じている悍ましく、恐ろしいものは、かつて我々が他へと投げていたものです。自らはこの楽園に閉じこもり、耳を塞ぎ目を閉ざし、心も閉じて他者の幸福と懸命な努力を滅ぼそうとしていました。それは、大巫女だけの祈りによるものではなく、豫国の望みでした。呪いを受けた者たちの苦しみと無念を思い、悔やみなさい、恥じなさい。これは大きな罪なのですから。もし私たちに、この国に強者に相応しいだけの思いやりと慈悲があれば、それを自覚し防ぐことが出来たでしょう。しかし、流れぬ水が腐るように、我々の心は淀んでいったのです。我々は苦しみを知る民でした。幾たびの試練を乗り越え、辛苦を忍び、この地にやってきた。誰より思いやりの心を持っていたはずなのに。何故と問うには遅すぎます。我々は理によって、自ら放ったこの呪詛を受けなければなりません」


 身体が自由になるならば、この耳を塞ぎたかったと人々は思った。自分の心に、何かが芽生えるのが分かった。だが、そのせいで、大巫女の言葉は心を抉るような気持ちにさせる。できればずっと忘れていた方が良かった。目を背けていたかった。しかし、一度気づいてしまったからには、もう戻ることなど出来はしない。


 その罪は大きい。


 この場に先祖より伝えられた法を守っていた者がいるだろうか。そして自分たちのために、苦しんだ者のことを考えたことのある者がいるだろうか。


 結局、自分たちは死ぬしか無いのか。


 そして、さらにその先には。


 天は地上の呪詛と呼応するように唸り、瞬く間に暗くなっていた。お前達には凍える地の底こそ相応しいと言っているかのように。


 絶望の中、無数の赤く光る目を持つ黒いものが一瞬蠢きを止めた。獣が獲物を狩る前にする、冷酷な動作である。


 無形の黒が人々にいよいよ覆い被ろうとしたその瞬間、頭上から溢れる深緑の光がそれを防いだ。呪詛は後ずさり、さらにその光のおかげか、硬直した身体がほんの少し軽くなるのが分かった。


 輝く聖杖はミオ王女が握っている。


 だが、この光は彼女の祈りによるものでは無い。


「私の民に手出しはさせません。あなたたちはこの豫国で最も尊い大御宝なのです。大巫女である私が全ての罪を受けましょう」


「あっ」


 ミオ王女が小さく声を上げるとともに、聖杖は輝きを放ったまま彼女の手を離れて宙に浮き、本来持つべき者の元へと飛び去った。


 だが、その者の両腕は縛められており、持つことは叶わない。


 杖はレイの頭上で静止すると、蛇が尾を噛むように円形へとその身を変えた。まるで王冠のように輝くその輪は、そのままレイの頭に降りてきた。


 戴冠したレイが毅然と顔を上げ、赤い目の一つと視線を交わすと、綺麗な輪だった冠から無数の棘のような突起が生える。まるで、茨のように。


「豫国の栄華は、今日終わりを迎えるでしょう。築き上げた建物は砂となり、宝石も服も塵となるでしょう。しかしあなた達は命を落としません。あらゆるものを失い、あなたたちは飢え、惨めな暮らしをするでしょう。新たに豊かになった者たちに蔑まれ、虐げられるかも知れません。それはあなたたちの心を砕き、誇りを失わせる事でしょう。しかし忘れてはなりません。我々は大神に愛された豫国の民なのです。愛を己の核として、あらゆる苦難に立ち向かいなさい。決して誇りを失ってはなりません。絶望してはなりません。この世から、愛を消してはなりません」


 黒い呪詛の一部が、レイへと向かってその身をどろどろと変化させる。尖って槍のようになった塊は、輝く冠を目印にするかのように狙いを定めた。


 レイは、瞳を閉じた。


「ハーレ」


 その日、長きに渡って栄華を極めた豫国は、終わりを迎えた。

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