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第百話 荒野の果てに

 突き刺すような冷たい風が、砂を含んで吹いている。大地からは水分を奪い、地上の生命の灯火も吹き消そうとしているような風だった。


 ワカタとイヨは外套を頭から被り、砂の丘を早足で駆けていた。思ったよりも足が砂に深く沈んでふらつきそうになるが、もう慣れてしまっていて倒れるほど均衡を崩すことはない。


 二人が目指している場所は、ワカタがカラオと別れた洞窟だった。あの場所は、二人が豫国での活動において拠点と決めた一つである。とりあえずあそこには当面の食料もあるし、あの洞窟を基準にしてこの辺りの地理も理解しているから色々と安心である。待っていればカラオとも合流できるだろう。


 だが、確かにあの場所へと近づいているはずなのに、行けども行けどもあの時の森や景色がどこにも見える気配がない。森の木立はどこにも見えず、大岩があちこちにある砂道が続くばかりである。所々に枯れ草だけが残っており、それが風に揺れて余計に気分を暗鬱とさせた。


 時折、烏がこちらを狙うように鳴いてきて、無性に腹が立った。


 特別な訓練を受けているワカタが、一度拠点にした場所を間違うはずがない。だとすれば、今さまようように歩いているこの砂の丘が、あの森だったということであった。


 考えてみれば、そう不思議なことでもないのだ。森や川、人の暮らす村々が一夜のうちに消えて砂のようになってしまうと言う現象は、今や豫国の各地で起こっている。恐らく、あれから森にも黒い光が落ちたのだろう。


 その様を想像する度に鳥肌が立つ。


 ワカタの腕には、白綿の衣に包まれた見たことも無いほど小さな赤子が泣いていた。


 この赤子を、早く安全な場所へと連れて行かなくてはならない。ワカタは寒風と砂から赤子を守るように外套をかけ直した。


 二人は無言のまま歩を進めると、彼方にあの洞窟が見えた。木々は消えてしまったが、洞窟は崩れずそのまま残っているようである。すると風の中に混じった、穴から流れてくる煙の匂いに気がついて、ワカタは胸をなで下ろした。


「おーい。カラオ! 待っててくれたのか」


 荒涼とした大地に声が響き、洞窟の入り口に掛けられていた茶色い布がめくれて、すらりとした体型の若者が姿を現した。若者もワカタの顔を見るなり、飛び上がって手を振った。


「ワカタ様ー! やっとお戻りになったんですね! おいら、二日前にここに来て、王都に向かおうか随分悩んだんですけど、いつもの決まり通りここで待ってたんですよ。凄い心配したんですから!」


 洞窟の中にはすでに毛皮や干し肉、魚などが運び込まれており、弱めた火も焚かれてあった。


 さあさあ、早く休んで下さいと毛皮の敷物を用意され、腰を下ろす。イヨは相当疲れがたまっていたのか、敷物に横になると、カラオに自己紹介もせずにそのまますやすやと寝入ってしまった。よく見れば目の下には濃いくまがあり、顔も随分と汚れて足には小さな傷がいくつもあった。よほど辛抱してここまで歩いてきたのだと、ワカタは抱き寄せ撫でてやりたい衝動を覚えた。


 そのワカタが何かを守るように腕の中に隠しているものにカラオが気がついたのは、紫蘇茶を用意しようとしていたその時である。器を落としそうになりながら、目を見開く。


「え、ちょっと。ワカタ様・・・それ赤ん坊じゃないですか。えっ、えっ、この娘だけならまだしも、どうして赤ん坊なんて連れているんですか」


 その問いをされて、ワカタは一気に今まで無視していた疲労が砂と埃にまみれた全身にかかってきて、そのまま俯いた。血の流れが、疲労を巡らせているようだった。


 とびきり小さな赤子を産み落とし、後を託してこの世を去ったナミ。レイが王殿へ向かってしばらくした後の、神殿への突然の包囲と襲撃。


 ワカタが先頭になって道を切り開き、数十人の侍女達とともに王都を抜け出してここまで着たのだった。


「王都でそんな異変が・・・じゃあこの赤子は。でも、じゃあその他の侍女達はどうしたんです?」


「みんな死んだよ」


 カラオは即座に身体を強ばらせて警戒した。追っ手がそれほど凄まじかったのかと想像し、ここも見つかるのでは思ったのだが、それを全て分かった上でワカタは虚しく首を横に振った。


「追っ手は、大したことは無かった。ほとんどの兵は今、出征しているからな。俺も随分斬ったし、ある程度のところまで来たら追ってこなくなった。彼女たちは・・・みんな自ら命を絶ったんだ。


 神殿の侍女たちはみんな王都から集められた生粋の都人で、王都の外なんて知らなかった。


 それが追われて初めて外に出てみれば、豫国の大地はこんな緑もなく川も赤く染まった別世界だ。その上自分たちの先行きも暗い。


 そんな現実に押しつぶされて、一人また一人、時には何人かで。俺やイヨが目を離した隙に自決していった。そういうことは、豫国では罪でもあるはずなのにな。最後まで頑張ってくれていたこの子の乳母役だった侍女も、昨日詫びの言葉を叫びながら崖から飛び降りた。俺も誰一人、埋葬してやることも出来なかった」


 ワカタは大きく息を吐き、カラオが差し出した紫蘇茶の器を荒れた両手で受け取った。


 ゆっくりと口に含むが、緊張が解ければ解けるだけ疲労が増す気がする。きっとイヨに負けず劣らず、自分も酷い顔をしているのだろうと思った。きっと、まともな顔をしていたら、もっとカラオは愚痴なり文句なりを自分にぶつけてくるはずである。


「ワカタ様。後は俺が見張っていますから、今日はとにかく眠って下さい。詳しい話はまたあとで」


 その言葉に甘えそうになりながら、ワカタは虚ろになりそうな意識を奮い立たせた。


「いや、そちらの報告だけでも聞いておきたい」


 カラオは苦笑しながらも、伊国での出来事を報告しはじめした。


「俺は巫女団の里に行って、大幹部であるイワナ殿に接触することに成功しました。そして同盟の話を持ちかけましたが、それは保留ということになりました」


「豫国の軍勢が攻めてきたからだな。今、状勢はどうなってるんだ。お前がここにいると言うことは、まさか」


「いいえ、落ち着いて下さい。伊国は無事です。まず、ヤクサ将軍とミカドの軍勢は、彼らが計画したよりもずっと少なくなってしまってたんです。


 これは私も教えてもらったことなんですが、まず豫国の兵を指揮しているヤクサ将軍には、伊国を攻める期限のようなものが突然設けられたいたみたいなんです。


 それでヤクサ将軍は慌てて軍備や食料を整え始めました。けれど、それでは間に合わないため、予定のほぼ半分の食料で進軍を開始したんです。つまり全くの準備不足だったんですよ。


 この時、ヤクサ将軍が考えていたのは、進路にある比較的豊かな村や町から、補給を受けながら進軍することでした。ところがこれが大きな誤算だったんです。報告にあったはずの村や町はもう無かったんです。


 そう、この森のように。けれど王都のヤクサ将軍もミカドもそれを把握していなかった。さっきのワカタ様の話じゃないですけど、自分の国がこれほど荒れた大地になっていることに、内心凍り付きながらみんな進軍したんじゃないでしょうか」


「当然、士気は下がるな」


「それどころじゃありませんよ。もしヤクサ将軍が途中で事の重大さを理解して、退却させていたら良かったのでしょうけれど、彼らはそのまま進みました。食料を失い、補給も受けられずそのまま当初の計画通り、船を使い川を下って巫女団の里に攻め込もうとしたんです。


 これほど愚かなことがありますか。


 伊国では、数は少ないとはいえ、地の利を知り尽くしたサルタ将軍が長年育ててきた精鋭が不退の覚悟で待ち構えているんです。当然至る所に罠だって仕掛けられていたでしょう。


 だからヤクサ将軍の兵達は、悲惨な状態になっています」


「じゃあ、この戦いは伊国側が勝つか」


 カラオはしばし考え、かぶりを振った。


「いえ、少しずつ・・・・やはり数が違いすぎます」


「共倒れか」


「そうなれば倭国にとっても、厄介な事態となりますよ。期待していた同盟が、無意味なものになってしまうんですからね。でもワカタ様、巫女団やサルタ将軍達は、全く別の作戦を考えていたんです。それはもう、何年も前から始まっていたんですよ。その事を察知していれば、おいら達ももっと別の・・・。だから今は一刻も早くここから・・・」


 カラオは自分たちの戦略に読み違えがあったことを悔やみ、前歯で色の良い下唇を噛んだ。だが、ワカタが炎を見つめる視線の先に、別の事を思いをはせているのに気づき、表情に影が生まれ、瞳が光った。


「・・・誰のことを考えてるんですか」


「いや、別に誰でもないさ。豫国の今後のことを考えていたんだ。どうなるんだろうな、この国は」


 おそらく滅びる。二人は内心そう思った。


 今の豫国各地の荒廃ぶりは、二人が漢土でみたものと変わらない。統治する力を喪失した朝廷、それによって各地で大小の争いが続き、民も飢え、殺され、病が流行り、恐ろしい勢いで数を減らしていく。漢土で見たのは、荒れた大地と表情を失った民、そして死体の山だった。


 もし、豫国でそのような状態が続けば、とどめを刺すのは、もしかしたら倭国になるかも知れない。いや、その可能性はとても高いのだと思い、ワカタは器を握る力を強くした。


 「とにかく、今日は寝て下さいよ。ワカタ様もこの娘も、休息が必要です」


 その夜、ワカタは夢を見た。


 白亜の神殿で君臨し、一人血を流している女の夢だ。女はこの世のものとは思えないほど優雅だが、ちょっとした動作の度に目や口から血を流していた。声を発するだけでも血が飛ぶ。よく見れば眼球すらない。


 想像を絶する苦しみであるはずなのに、彼女は表情一つ動かさない。きっと、自分がそのように血を流し、傷を増やし、震えていること自体に気づいていないのだ。


 ただ、自身が育てる小さな庭にいる時だけ、彼女は凍えて強ばっている身体をまるで幼女のように無垢にほどいていた。


 きっと触れればその身を針へと変えてしまう。だから今の光景だけを、自分は見守っていたかった。


 夢の光景は変わっていく。遊んでいた凜々しい少女の庭に、シンハというあの虎のような獣が何匹も忍び寄る。硬直する少女。脇から出てくる武装した男達。それを束ねる、毒々しい唇の色をした女。その女が手を上げると、シンハも男達も一斉に少女に襲いかかった。少女は逃げようとするが当然逃げ切れず、背をシンハの前足に割かれて横転する。


 自ら立つ力を失った少女は、血を流し、その場から動けずにいる。しかしいつのまにかどんどんと数を増やすシンハ達は少女の身体を貪った。牙が薄い皮膚に深々と食い込み、その隙間から男達が長槍で彼女の手足を何度も突き刺す。


 少女の輪郭がどんどん失われていく。


 しかし最後の瞬間、視界が一気に少女の唇へと近づいた。彼女が囁いた言葉を悟り、ワカタは汗まみれで飛び起きた。


 差し入る光は明るく、洞窟の外へ出てみると日はほぼてっぺんに上がっている。自分たちがここにたどり着いた時とほとんど変わらない。つまり、ほぼ丸一日眠り続けてしまったのだ。


 ワカタはその事に気がつくと、とんでもない時間の浪費に背筋が凍り、顔が蒼くなった。


 洞窟の中ではイヨも、白布に包まれた赤子もすやすやと眠っていたが、カラオの姿がない。嫌な予感がして剣を腰にやり、再び日の光の下に出る。


 すると、そこには先ほどまで確かにいなかったカラオの姿があった。砂風に髪を靡かせ、どこか寂しげに佇むその眼差しは、出会った頃のままのような気がした。


 だが、ワカタを見つめるカラオの視線は、いつものような聡明な鋭さではなく、王都で見たシンハのような獣性が宿っている。


「ワカタ様、王都に戻る気なんでしょう?」


 ワカタは全てを見透かされていることを悟った。


「絶対に行かせませんよ。おいら達は、今すぐこの国を離れるんです。王都に行ってはいけません」


「頼む、分かってくれ」


 その言葉でカラオは拳をさらに握りしめ、表情は一気に蒼くなった。


「女だ。どうせ王都で出会った女に絆されたんでしょう。いつもの事じゃないですか。それなら、その女も一緒に連れて逃げてくれば良かったのに! だけどもう駄目です。時間がありません。おいら達はここは離れなくてはならないんです」


「俺は王都に行かなくちゃならないんだ」


「行ったら生きては帰れませんよ! 今の王都にだって最低限の兵くらいいますよ。いくらワカタ様でも、お一人で行ってどうにかるわけではありません」


「構わない。死ぬなら、あの人と死にたい」


 毅然と、しかしどこか微笑んでいるかのようなワカタの表情に、カラオは歯を食いしばって右足で地を叩いた。


「ふざけるなよ! だったらどうしておいらを抱いたんですか。愛し合ってたでしょう、通じ合ってたでしょう。どうしておいらじゃ駄目なんですか?!」


「愛していた。お前とだから、つらい異国の土地でもなんとかやって行けたんだ。けど、お前も分かっているだろう。お前は、俺たちはそこにあった袖を掴んだだけだ。お互い孤独だったな」


「それの何が悪いんですか。それが偽りというわけでもないでしょう。ずっと一緒にいましょうよ。ワカタ様とならどんなところでも付いていきますから。おいらを、一人にしないで下さいよ」


 カラオは慟哭したが、それでもその声色にはでに諦めがあった。


「イヨと、その赤ん坊を頼む」


 ワカタの高貴な眼差しは、もっとも信頼している人間に対するものだった。その眼差しを向けられることが、カラオの誇りだったのだ。


「ずるいですよ・・・。おいらを裏切るくせに。おいらがあなたを裏切れないって確信してそんなこと言うんだから」


 カラオは膝から崩れ落ち、大地の砂を握りしめて涙を流した。


 ワカタがカラオの手を取り、最後の抱擁を交わそうとしたしゃがんだその時、背中に激痛が走った。振り向くと、白衣に包まれた赤子を抱き、片手に短剣を握ったイヨが、無表情で立っている。


 気配は全くなかった。


 ワカタとカラオが何かを口にする前に素早く短剣を背中から引き抜き、イヨは後ろに下がって間合いを取る。それと同時に、ワカタの背からは血が噴き出した。


「駄目だよ。お兄ちゃん。レイ様のところには行かせないよ」


 カラオが短剣をはじき落とそうと身構えた瞬間、イヨは鋭く叫ぶ。


「そっちのお兄ちゃんも動かないで! 動くとこの子を殺すから」


 少女の顔には表情がなく、何のためらいもなくそれを実行に移すだろう気配があった。


「お前・・・どうしてこんな」


 ワカタは痛みを堪え、膝をついて尋ねた。後ろではカラオが傷口の具合を見ているのが気配で分かる。この状況下で、最適の行動を取ろうとしているのだ。


「お兄ちゃん。王都に向かう途中でさ、私にいったよね。これからはずっと一緒だ。一人にしないって。駄目だよ、約束破っちゃ。お兄ちゃんがレイ様のところに行ったら、ほら、私また一人になっちゃう」


 口元は笑っていたが、イヨの声色は乾いている。ワカタが言葉を失っている間にも、彼女の言葉は続く。


「ねえ、本当はどうして私が王都に向かっていたか、お兄ちゃん知らないよね? 村が滅んだのは本当だよ。でも王都に向かったのは、ちゃんと目的があったの。私の、本当のお父さんとお母さんに会いに行ったんだ。私、捨て子だったって言ったでしょ。前に村の人が教えてくれたの、お前は捨てたのは王都の人間だったって。両親はきっと、王都にいるんだろうって言ってた。


 その言葉を聞いた時、今までずっと惨めだった自分の心に光が射してくるような気がした。どんなつらい時も、王都にお父さんとお母さんがいる、一生会えないかも知れないけれど、私にもそんな人たちがいるんだって思うだけで、一日を乗り切れた。


 それで、人生が終わったって良かった。


 ・・・でも、村がなくなってしまって、私だけ生き残った時、ああ、今こそ王都に行こう。お父さんとお母さんに会いに行こうって思ったの。・・・


 私、会えたんだよ、お母さんに。


 信じられないかも知れないけど、一目見た瞬間に分かった。遠くの輪郭だけでも分かったの。初めて見たお母さんは、綺麗な服を着て、宝石の付いた腕輪を身につけて、高いところから私を見下ろしていた。


 私を見る目は、村の人たちと同じで、ゴミを見るようだった」


 イヨは年齢に似つかわしくないほどに、悲しく微笑んだ。


「侍女長、ダン家の元王族ナミが私のお母さん」


「まさか・・・」


「お兄ちゃん気づかなかった? あの人は身籠もっている時でも、積極的に動いていたでしょ。きっとどれくらいまでは大丈夫なのか、知っていたんだよ。だって、今回が最初の妊娠でも、この子が最初の子でもなかったんだから」


 ワカタははっとして、当然の事実に気づいた。ナミとナギがダン家を追放されたのは、レイが入れ替わる以前である。つまり、その頃から二人は関係を持っていた事ということだ。当時は恐らく十代。それから今の年齢まで関係を持っていて、今回が初めての妊娠というのはまずないだろう。


 もし生まれていれば、その赤ん坊たちは一体どうなったのか。


 急に、イヨの面差しがナミと重なった。


「私、村にいた頃、お父さんとお母さんは何か事情があって私を捨てたんだろうって思ってた。だから二人を恨んじゃいけない。憎んじゃいけないって。今の人生が寂しくっても、天国に行ったら改めて二人に会った時に、いっぱい抱きしめてもらって、いっぱい甘えようって思ってた。


 だから今は我慢だって言い聞かせてた。けど、私はこの世でお母さんにもお父さんにも会えたの。でも、会えなかった方が良かったかも知れないね。


 私は一目であの人がお母さんだって分かったのに、あの人は全然気づいてくれなかった。昔産んだ私の事なんて少しも覚えている様子もなくて、これから生まれてくる赤ちゃんばかり気にしていた。


 その途端、私の人生がまた惨めな気持ちでいっぱいになった。だから今度は、お父さんに会いに行った。お父さんはね、私を一目見てすぐに気づいたみたい。


 私は知らなかったけど、私が昔のお母さんにそっくりだったんだって。本人が気づかないのに、不思議だよね。でも、お父さんも酷かった」


 イヨは肩をふるわせ、その振動が構えた短剣にも伝わる。


「お父さんは私が自分の娘だって分かっていたのに、私にここからいなくなれって怒鳴った。これから生まれてくる子どもは、この国の新しいミカドになる子で、お前がいるとその子の将来に都合が良くないからって。


 私、両親に会ったら今までの辛かったことや悲しかったこと聞いてもらって、慰めてもらおうって思っていたのに、お父さんは一番にそう言って、殺そうとしてきた。そんなお父さん、要らないよね」


 イヨは天を仰ぎ、あはは、と笑った。


 その視線の先に、ワカタも自然と目が行った。冬の、白い空だった。低く風の音が鳴る白は、まるで全てを拒絶する色だ。この少女には、世界がそう見えているのだろう。


「ほんと、お父さんもお母さんも酷いよ。私の事なんてなんとも思ってなかった。だからこの子は、生まれたら絶対私が殺そうって決めてた。本気だよ? 動かないで」


 イヨは視線を地上に戻し、ワカタと見つめ合う。


「さあ、そっちのお兄ちゃん、右から回って洞窟の中の道具で手当てをしてあげて。お兄ちゃんは気とかいうのが使えるから、たぶんこれくらいの傷じゃ死なないはずだけど、それくらいしてあげようよ」


 言葉の最後の方は、カラオに対して仲間のように語りかけた。


「大丈夫。これでお兄ちゃんは王都には行けない。望みは一緒でしょ」


 二人のの動き警戒しながら、イヨはさらに間合いを取る。カラオは言われたままに洞窟の中に駆け込み、布と薬草を取って返ってきた。


 すでにワカタは気を巡らせており、血はほとんど止まっていたが、とりあえず血を拭き取り薬草を当てて肩から布を巻いた。


「そっちのお兄ちゃんの言うとおりなんだよ。ここにいたら、とても危ないの。お兄ちゃんが王都に行ったら、もっととんでもないことになるんだから。さ、負ぶってもらって、ここから出発しよう。伊国でも、倭国でもついていくから。ずっと一緒だよ」


 イヨが微笑んだ時、ワカタの頬には一筋の涙が零れた。気がつけば、ワカタは両の目から静かに涙を流していた。


「・・・・なんで、泣くのよ」


「すまない。イヨ・・・お前そんなに寂しかったんだな。抱えてたんだな。俺、ひとっつも気づいてやれなかった」


 赤子の首元から刃を離し、イヨは氷が溶けたような笑顔になった。


「ううん、もういいの。いいのよ。これからはずっと一緒なんだから。カラオお兄ちゃんもだよ。みんな寂しいんだよ。お兄ちゃんが必要なんだよ」


「でも、俺は一緒には行けない。王都に行く」


「・・・は? 何言ってるの。 そんな身体で王都に行って何が出来るって言うの。お兄ちゃん、本当に殺されちゃうよ?」


「それでもいい」


「この赤ちゃんが死んでも良いの?」


  ワカタは何も言わなかったが、赤い目の奥には誰かを犠牲にしてでも前に進む覚悟が見て取れ、それを悟ったイヨは寒気と共に怒りを覚えた。


 「お兄ちゃん・・・全然分かってないよ。お兄ちゃんが死んだら、本当に終わりなんだよ。私気づいてるんだから。ねえ、カラオお兄ちゃんは知ってるんでしょう。教えて上げてよ」


 カラオは膝をつき、震えながらワカタの左手をそっと握りしめた。


「その娘の言うことは本当ですよ。あなたに何かあれば、それで豫国は終わりなんです。おいらたちが与えられ首に提げていた青銅札、これはただの守り札なんかではないんです。これは、依り代。豫国から倭国に向けられた呪詛を封じ込めたものなんです。もしおいら達に何かあれば、すぐさまその呪いはあふれ出してこの国に降りかかります。人を呪いとして送り込む、かつて豫国の大巫女サクヤがククリ様に使った方法を、大王様と張政様は返したのです」


 カラオは最後の手段と思っていた事実を吐露した。それはククリから聞かされた話だ。かつて大巫女のサクヤは、亡国大渦の星を持つククリを倭国に送ることで、倭国大乱を長期化させようという思惑も持っていたのだ。倭国大王や張政が長年ククリと会わなかった理由のひとつだろうと。そしてその方法を、倭国は学習したのだった。表向きは秘密部隊の隊長として各地に赴くワカタだが、もしその身に何かあればすぐさま呪いが炸裂してその地を滅ぼす。


 だが、長年ワカタと過ごしてきた彼には、この先の言葉と結末が予想でき、そこから目をそらすように握る力を強くした


「・・・ああ、知ってたさ。俺たちが呪いの運び屋だって事くらい」


「うそ・・・よ。なら分かるでしょ。お兄ちゃんが王都に向かって、何かあれば王都ごと呪いでどうにかなるんだよ? 絶対死ぬんだから。お兄ちゃんの勝手で、まわりのみんなを巻き込むことになるんだよ? そんな事、許されるわけない」


「イヨ・・・この呪いは、あの人の叫びだ。俺はその叫びをずっと胸に抱えて過ごしてきた。だからあの人と初めて会った気がしなかった。この呪いは俺の身体に染みついて、ずっと離れない。お前もカラオも愛しているけれど、この国であの人ほど孤独な人はいはしない。俺が側にいてやりたいのは、あの人なんだ」


「なんで・・・お兄ちゃんまで私を捨てるの?!なんで私たちじゃ駄目なの。そんなの酷すぎるよ」


 ワカタの左手を握る力が強くなっていた。きっと、カラオも同じ事を思っているのだ。


 イヨが目で合図する。カラオは心が通じあっているかのように、その意図を理解した。カラオの左手が、ワカタの傷口に触れる。そしてそのまま強く握りしめた。


 途端にやっと収まりかけていた痛みが激痛に戻って、全身を駆け巡った。ワカタはううっと一度だけ声を上げたが、すぐに無理矢理押さえ込み抑み、かわりに全身から汗が噴き出した。


「これが私たちの痛みだよ。私たちの叫びだよ。おいていくなんて言わないでよ」


「すまない。本当にすまない。だけどお願いだ。俺を、あの人の元に行かせてくれ」


 ワカタは乾いた砂の上に、血と、自らの額をつけて懇願した。その姿に、イヨは一瞬、口を開けて震え出す。


「ずるいよ! あんまりだよ! だったら私を殺して行ってよ! それが出来ないなら私がお兄ちゃんを殺してやる!」


 イヨが短剣を構え、走り込んで来た瞬間、カラオは素早く立ち上がり、彼女の手首を掴んで刃を捨てさせた。


「もうやめよう・・・俺たちには、この人は殺せないし、止められない」


 イヨは自分と同じ顔をしいてるカラオを見上げ、見つめ合った。その表情は涙にまみれた、負けた者の顔である。途端に力が抜け、イヨはその場に膝をついて座り込んだ。


「そんなの・・・分かってるよぅ! 分かってたよぅ!!」


 イヨは先ほどまで短剣を持っていた右手で繰り返し地面を叩き、涙を大地に染みこませた。


 ワカタは何度も二人に謝っていたが、水と食糧を洞窟から運んでくると、傷を負った身体とは信じられないほどしっかりした足取りで、王都へと向かっていった。





 まるで見えない何かが、理不尽な罰を押しつけてくるような白い空の下、砂を含む風にまみれて少女は泣き続けていた。


 そしてカラオはただ呆然と、ときおり砂粒が流れる白い空を見ていた。。


 自分ももっと、縋り付いて引き留めれば良かったのかも知れない。そうしていれば、結果は同じであっても、今のこの気持ちは少しでも違っただろうか。言葉は見つからず、思考と後悔だけが駆け巡る。


 風が一際強くなり、その音で少女の泣き声も小さくなった。


 もう随分時がたったような気がする。日が傾いている。風の吹いている今なら、声を出してもあの人には聞かれないだろう。


 届きもしない。


 ワカタと過ごした日々が瞼の裏に蘇る。


 倭国大王とククリとの誓約の際、計画が露見し全てが終わったと思った時の絶望。首の皮一枚で命拾いをし、秘密部隊として半島に渡った時の情熱。そこら中に死体が転がり、焼かれ、蠅がたかり、泣き叫ぶ気力さえ無い人々が暮らす、荒廃した漢土で感じたやり場のない怒り。


 それらは全てカラオと共有したものだった。きっと、この先何年生きたとしても、それ以上に煌めく感情を自分は得ることは出来ないだろう。


 そして今、思い出を失う寒さを味わっている。


 あれが、本当に最後なのだろうか。長年苦楽をともにし、愛を交わした自分たちの行き着く先がこれなのだろうか。


 ああ、寒い。どうしてこんなに寒いのだろう。涙の熱さだけが、頬の上に感じる。


 カラオはその場に蹲り、しばらく嗚咽し続けた。この姿をワカタに見られなくて良かったという思いと、見せつけてやりたかったという思いが交差して、訳が分からなくなる。


 でも、結局は同じ事なのだ。


 自分は愛を、失った。


 それを改めて自覚し、猛烈な恐怖が襲ってきたその時、屈めている背中に衝撃が走った。。


 「ちょっと、いつまで泣いてるの!」


 振り向けば、先ほどまで自分と同じように泣いていたイヨがこちらを睨んでいた。どうやら、カラオは彼女に蹴られたらしかった。


 目は兎のように真っ赤だったが、涙はもう流していない。凜々しいその目顔はまるで少年のようである。


 その変わりように、カラオはあらゆる負の感情を忘れて口を開けて驚いた。


 「ほら、もうしゃきっとしなさいよ。泣くだけ泣いたら、前に進むしかないんだから。私たち、生きていかなくちゃ行けないんだから」


 そうだな、と納得したが、それを理解した途端、また泣きそうになった。その先、一体どうやって生きていけば良いのだろうか。


 倭国に帰れば良いのか、伊国の巫女団に行けば良いのか。


 違う。そういう事ではない。あの人を失ったのに、どうやって生きていけるというのだろう。


「あんたね、まだ良かったんだからね。私分かってたんだよ? あんたの任務のひとつには、いざというときワカタお兄ちゃんを殺す事だったでしょ」


「どうして」


「私分かるんだから。神殿で勉強して、そういうのが分かるようになったの。それに頭も悪くない。ワカタお兄ちゃん達は、豫国に同盟を求めてやってきた。けど、同盟が結べなくて、豫国が倭国に敵対することだって可能性としては有り得た。その時は倭国も頭を切り替えなくちゃならない。豫国から倭国に今まで送られてきた呪詛の全てを、返す。そのためにお兄ちゃんを殺して呪詛返しを発動させることも、あんたの仕事だったんだよね。きっと命じたのは、倭国の偉い人なんでしょう」


 カラオは背筋を凍らせながら、いつも大王の傍らにある、この世の深淵を覗いたような双眸を思い浮かべた。


 「結果が同じなら。大事な人を殺さずにすんだのは、救いだよ」


 そういう少女の顔は、年齢に相応しい幼さが感じられない。一体この少女は、なにを経験したというのだろう。


 「そうかもしれない」


 思考が少し現実的になっていく。では、これからどうすれば良いだろうか。恐らく、倭国が当初思い描いていたような同盟は失敗である。豫国と伊国との戦いとの勝敗がどうあれ、まもなく豫国は滅びる。もしくは急速に弱体化するだろう。倭国にとって同盟に値する存在はなくなり、この地には『空白』が生まれるのだ。それは、倭国にとって懸念材料でしかない。


 このまま倭国大王のところに帰れば、責任を取らされて殺される。生き残りたいのならば、行く先は山門のククリか、ナルの巫女団ということになる。


 しかし現実的に考えて、今から動いて間に合うのだろうか。長い時間を浪費した。ワカタが王都で死ねば、すぐに呪いが豫国を被うのだから。


「大丈夫。私は異界を渡れると思う。一緒に連れて行ってあげるよ」


 心を読まれた事にカラオは焦りを覚えたが、それならばと頭を切り替え瞑目したままイヨに尋ねた。


「その赤ん坊は、どうする?」


 一瞬、イヨは先ほどと同じ、表情が無い顔になったが、赤子がああっと声を上げて手を伸ばしてイヨの頬を撫でると、僅かに微笑んでその手を握った。


「不思議だよね。この子、絶対殺すって決めてたのに。誰にも望まれずに生まれた私と違って、お父さんやお母さんやレイ様みんなに生まれてくることを望まれて、大切に育てられるはずだった赤ん坊。ミカドになるはずだった御子。でも今じゃ、みんないなくなって、この子もひとりぼっちになって、私と同じになっちゃった。そう思ったら、急に、この子を私が守らなくっちゃって思うようになったの。なんでだろう」


 イヨの真っ赤な目から、また涙だが零れていた。けれど、それは先ほどとは別の色がある。


 カラオは天を仰いだ。


 この涙は所詮は塩水だ。いくら流そうと、この乾いた大地は潤う事も無く、花が育つ事もない。だがこの拒絶するような白い空を変えるのは、こんな涙の色かも知れないと思った。

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