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第九十八話 一輪の花

 また一つ星が流れた。


 星々が輝き、凍えるような風音が鳴る天空をレイは切れ長の目を細めて仰ぐと、不意に娘時代の頃を思い出した。


 確か、昔三人で暮らしていた家で、ナルが星と地上の人の運命や宿命について語っていたことがあった。イワナから直々に教わったというあの話はどんなものだったのだろう。歩調を緩めてしばし思い出してみたかったが、そんな時間は無かった。


 毛皮の外套の裾が風に靡き、翻る。


 今は一刻も早く、王の寝室へと行かなくてはならない。


 整然とした石畳を早足で駆け抜け、王殿の前まで来ると、レイは振り返り灯りに照らされた侍女達の顔を見て頷き合った。


 どの娘も若く美しかったが、面持ちは暗く張り詰めており、唇が少し震えている。これから自分たちが使用としていることを考えれば、当然のことだった。


 ミカドの暗殺。この国で、そんな大罪が行われたことは未だかつて無い。その歴史の重さ、禁忌を犯す罪深さを考えるほど、どれほど時間が経っても顔が青ざめる。


 自分はただ大巫女という地位に座り、人々から傅かれていればそれで良かった。だが、様々な思惑と成り行き、そして自分の意思から、まるで運命に導かれるように今夜のような瞬間が訪れてしまった。


 これに呼応する星が、天にはあるというのだろうか。


 レイは天を仰ぎ、瞬く星を見て唾をごくりと飲み込む。


 いつもより異様なほど静かな王宮には、ほとんど衛兵の姿が見えなかった。風の音が広大な敷地や石柱が連なる通路に虚しく鳴るばかりである。伊国と呼ばれるようになったコウゾ邦への出征、赤く染まる水、混乱する王都、今はどこも人手が足りないのだろう。


 王殿へと続く白亜の大階段が、いつもより遙かに長く感じるのは気のせいだろうか。聖杖をつきながらある程度の高さまで登ると、視界のすみに神殿の屋根が映った。


 あの後、一体どうなったのだろうか。


 レイは目を閉じて、あの異国の青年の顔を思い浮かべた。大丈夫だ。ワカタならば全て良いようにやってくれるだろう。すでにナミが出産していてれば、神殿と王都を抜け出して安全な場所へと母子を連れて行ってくれている。


 ならば、自分も役目を果たさなくてはならない。


 自らに言い聞かせながら大階段を上りきり、広場を通ってついに王殿の前までたどり着く。入り口の衛兵は左右に二人。彼らは普段は連れぬ侍女を不審に思ったのか、垂れた頭を上げて何かを口にしようとしたが、それよりも先にレイの持つ聖杖の底が地を打った。こんという音が響く。たちまち衛兵達は気を失ってその場に倒れ込む。


 夜風の流れる王殿に聖杖の地を打つ音が何度か響き、レイたちは遂にミカドの寝室までたどり着いた。


 だが、唾を飲み込み、深く息を吸って部屋に入ると、そこにはミカドの姿にはなかった。


 レイ達は慌てて寝台に駆け寄り検めたが、やはりミカドはいない。それどころか寝具に温もりすらもなかった。


「逃げたのでしょうか」


 侍女の一人がぎらついた目顔で言った。しかしこちらの動きに気づいて急遽逃げたのならば、寝具に少しばかりは温かさが残っているはずである。それが無いとすると、この部屋の主はずっと以前からここにはいなかったということだ。思えばあれほどに立ち籠めていた香草の芳香もなく、部屋には僅かな残り香しかない。


 一体どこに。焦る気持ちを抑え、必死で考えを巡らせる。しかし、普段のミカドの数多の行動から考えれば、今、必ずこの場所にいなければおかしい。身体はもう随分弱っているようだったし、何か用事があれば相手を呼びつければ良い。ミカドはもはや大巫女だろうと誰であろうと、この部屋に呼びつけることが出来るのだ。


 庭園へと続く露台の出入り口から、冷えた夜風ともに花の芳しい香りが流れてきたのはその時だった。


「ミカドはここにいらっしゃいませんよ」


 蠱惑的な声色の主は、流れるような襞のある菫色の外衣を纏い、銀色に輝く帯を締め、優雅な所作で部屋に入ってきた。部屋の灯りでその輝きが一気に大きくなる。


 そこにまるで申し合わせたように冷たい風が、入ってきた。彼女は庭園の暗闇を背負っており、豪奢な身なりとの対比で得体の知れないような迫力を感じさせた。


「ミオ王女。どうしてあなたがここに」


 早鐘を打つ胸を押さえ、レイはなんとか平静を保ちながら尋ねた。しかしミオはレイの心を見透かしているかのように、艶然と微笑んだ


「ミカドに代わって、あなたが来るのをお待ちしていたのです。あなたは今夜、ミカドを暗殺する計画だったのでしょう」


「あなたが逃したの」


 ミオ王女は紅い石の指輪をはめた指を口に当て、ころころと笑った。


「これはこれは。全く何もご存じでいらっしゃらない。いいえ、ミカドは元々もう王都にのどこにもいらっしゃいませんわ。ミカドは、ヤクサ将軍と共にコウゾ邦、伊国へと向かったのですから」


「ミカドが親征したと」


それは考えもしなかったことである。


「私が今ここにいるのは、畏れ多くもミカドに反逆したあなたを捕らえるため」


「ふざけないで。あなただってナミの仲間だったのでしょう。あなただって、同じ目的を持っていたはずでしょ。私とも」


 ミオ王女は細く形の良い顎を上げて大きく息を吸い込み、見下すようにレイを見やった。


「そう、半ばまでは。ミカドに対する叛逆。そこまではよろしい。けれどナミは兄の子を身籠もっていたことを私に隠していました。そして我が子をミカドに即け、自らは国母となりあなたを摂政としようなど、到底許せることではありません」


「では、あなたとナミとでは、考えが違っていたというの。・・・あなたは自らミカドとなり、女王として君臨する野心をお持ちなのか」


 言葉にしながら、レイは確かにそれも正当なことなのかもしれないと思った。血筋で言えば、ミオはナミよりもずっと王家に近い。


 ミオ王女がにやりとしたその時、殺気立っていた侍女の一人が短剣を持って飛び出した。残りの四人も狂ったようにそれに続く。


 しかし、レイがあっと声を上げた瞬間、王女の手が白い花が靡くように上げられると、外で弦の音が聞こえ、彼女が背負う闇の中から無数の矢が侍女達を貫いた。矢は侍女達の手足に突き刺さり、頭や肩を貫き、喉を貫き、悲鳴を上げさす間も与えずに生命を奪った。


 侍女達が倒れ、石床が赤黒く染まって行く中、ミオ王女は何事もなかったかのように微笑み続ける。


「ほほほっ、私はミカドの地位になど興味はありません。ただし、あるべき方にミカドに即いていただきたいと思っています」


「それは、サルタ将軍ですか」


 一瞬ミオ王女は意外そうな顔をしたが、すぐに気高いいつも微笑に戻り、レイの間違いを正した。


「サルタ王子とお呼びするべきです」


「そうか・・・サルタ王子。ミカドの第七王子。は・・ははははっ、全て分かった。あなたの考えが」


「何がおかしいのですか。ミカドの王子の中で、最も聡明で英邁な御方です。今のこの瞬間も、他の王子達がどれほど堕落した場所で目も当てられぬほどに腐っているか、あなたは知らないでしょう。あなたは会ったことはないでしょうが、あの御方こそ、最もミカドに相応しいのですよ」


「ミオ王女・・・人の中には、何かを引き寄せる性質を持って生まれた者がいるのはご存知か。求めてもいないのに富が転がり込んできたり、人が慕って集まってきたり。私にはどうも秘密というものが集まってくるらしい。私の人生は、自分の秘密も人の秘密も積み重なっていく。かつて、先代の大巫女であられたサクヤ様の秘めた恋もそうだった。聞きもしないのに、何故かあの方は私にだけ語ってくれた。あなたは、ミカドの妹であり、そしてサクヤ様の妹でもありましたね。あなたの、遙か昔の恋の相手がサルタ王子だというと、今の私は知っています。そして、どうして二人が結ばれなかったということも」


「なにを」


ミオ王女は隠れていた目尻の皺を深め、初めて狼狽えた顔を見せた。


「王家において、叔母と甥ならば婚姻を禁じる法はない。年回りも良く、身分としても王家の血という点からしても理想的な縁組みだ。だが、ミカドも、当時の事情を知る一部の者たちも、決して二人の結婚を認めなかった。それはなぜか。私は知っている」


「お黙りなさい! 図に乗るのもいい加減になさい。曲がりなりにも大巫女の地位にあるからと、優しくしていればすぐつけあがる。卑しい身で、それ以上口にすると許しませんよ。それにあなたが何を言おうと、もうすぐサルタ王子はミカドとなられます。コウゾ邦、伊国への親征。その混乱の中、ミカドは命を失うのです。そしてその瞬間、豫国も伊国も争う理由がなくなります。新しいミカドが誕生する。サルタ王子がどれほど拒もうと、人々はあの方の即位を求めるでしょう。実際、混乱する豫国をまとめられる者など他にいないのですから。そして私の望みは、ミカドとなったサルタ様の后となること!」


 王女が歌うように自らの計画と望みを吐露し、陶然となっていると、すかさずレイの哄笑が部屋中に響き渡った。


 その声に、王女は気の触れたような血走った目顔でレイを見た。


「何がおかしいのです」


「これが笑わずにいられようか。サクヤ様の恋も哀れと思っていたが、これほど滑稽な恋と女が他にあろうとは。あなたは王家の者として、この国を根底から覆すほどの禁忌を犯そうとしている。それはサクヤ様やナミを遙かに超えるもの。私の伝え聞いたサルタ将軍の人となりから考えれば、彼は決してあなたを妻にはしないでしょう。あなたは禁忌に染まる両手でサルタ将軍の首を絞め、自分を愛せと言っている。ミオ王女、あなたの恋は、もう遙か昔に終わっているのよ」


「山里で育った巫女が、一体男女の恋の何が分かるというの」


「恋は知らないけれど、愛なら知っている。私の知る愛とは、そんな押しつけがましいものではない。何も言わず、ただ毎朝一輪の花を飾ってくるような、そんな何気なく温かなものだ。それが、凍えた心を包んでくれる」


「訳の分からないことを。もうあなたとは話す意味もありません。大巫女レイ殿。大逆罪であなたを捕らえます」


 レイは右手に握る杖の先を、ミオ王女をへと向けた。


「無駄よ。私にはこの聖杖がある。私には矢も当たらない」


 その気になれば、この王女を自由を奪うことも、庭園に潜む兵達を眠らせることも可能である。だが、ここは一端退くべきだとレイは判断した。まずは、ワカタやナミと合流するのだ。


 レイは異界に入る『穴』を思い浮かべ、聖杖に力を込めた。しかし、不思議なことに輝くはずの聖杖は全く反応を示さず、レイの身体も未だ現世にあった。


「ほほほほほっ、あなたの今の顔こそ、滑稽というものです」


 レイは今度は杖の底で床を叩いた。だが音は部屋と庭園に響き渡るものの、ミオ王女も闇の中の殺気も変化はなかった。


「何故・・・聖杖が反応しない」


「私が聖杖の力を封じたのです」


 ミオ王女が向けられた聖杖の先に手をやる。するとどこか蛇を思わせる杖の頭の部分が揺らめきながら輝きを見せた。それは杖が主として認めた証である。


「そんなこと、出来るはずがない!」


 しかし杖は礼の手を離れ、宙を飛んでミオ王女の右手におさまった。


「どこまでも愚かな女だこと。あなたは忘れていて? 聖杖とは本来ミカドの持ち物。神殿の大巫女のあなたはそれを貸し与えられているに過ぎません。そして今ここに、ミカドと同じ血を引き、偉大なる大巫女サクヤと同じ血を引き、同じく穢れを知らぬ王女がいるのです。杖がどちらを主に選ぶか、あなたにもお分かりでしょう。そう、私こそが、本来今この国でもっとも大巫女に相応しい者なのです。私はサルタ王子がミカドになったあかつきには后となる。けれどその前の短い間だけ、私は大巫女になりましょう。そして大巫女としての最初の役目は、年送り。反逆者レイ、お前を年送りの生贄にして、豫国は新たな年と時代を迎えます」

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