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第九十三話 星は誘う

 常勝と謳われるヤクサ将軍の屋敷は王宮のすぐ近くに聳え立っていた。


 ヤクサ将軍は王族でこそ無かったが、代々豫国の軍兵を指揮する家柄で、その当主の妻にはいつも王族の姫が与えられる豫国屈指の大貴族である。王宮近くに屋敷を構えることを許されているのも、そういう貴顕の家柄のおかげであった。


 おまけに王都のあちこちにいる愛人達とも、公の場でも同席することが黙認されるという厚遇ぶりだった。本来豫国ではミカド以外、王族貴族であろうと愛人、側室を持つことは大神の教えによって違法である。もちろんそれは建前であり、実際にはある程度裕福な者は男女問わず秘密の愛人がいるのが当たり前なのだが、人前で並び立つことなどは決して許されることでは無かった。密告があればたちまち兵士がやってきて、町の広場へさらし者され、棒で打たれることになる決まりである。


 それを考えれば、ヤクサ将軍の待遇は別格と言って良い。


 当然周囲のやっかみはあったが、もはや誰も文句を言うことなど出来はしなかった。


 何しろ彼の代々の家柄のことだけではなく、当代の大巫女を巫女団の里から匿い、擁立し、ミカドに献上したのは他ならぬヤクサ将軍なのである。その功績とそこからの権勢を考えれば、この特別扱いも不当なものと訴えることは火の粉を招くことなる。


 そんな人々の羨望と嫉妬の眼差しを、彼はいつも小気味よさげに胸を反らして歩くのが心地よかった。


 ヤクサ将軍はさらに夢想する。


 このままうまく行けば、娘の一人をミカドの妃にすることも夢では無い。もしそうなった上に娘が男子を産み、ミカドに即位することとなれば、一門の悲願であったミカドの外戚となり、自分の血を引くミカドが誕生する。家柄と功績、そして現在娘が七歳から三十五歳まで十八人いることを考えれば、それは決して遠い夢では無い。


 つまりヤクサ将軍は、今豫国で一番栄耀栄華に近い場所にいる人物だった。


 そんな彼の屋敷は、三日前から人の出入りが洪水のように慌ただしく溢れかえっていた。あちこちで口論と罵声が飛び交い、やってきてはすぐまた駆け足で出て行く者もいる。数多いる召使い達も、その迫力を恐れて仕事にならず、疲労困憊している彼らに恐る恐る水や食事を運ぶので精一杯だった。


 もちろんただ今屋敷で最も疲弊しているのは、ヤクサ将軍に他にならならい。でっぷりと肥えた腹はそのままだが、頬はこけ、目の下にはくまが刺青のようにはりついている。王都でも美食家で知られる数日前の彼とは、まるで別人の顔つきだった。


 ヤクサ将軍は今も自分の執務室に押しかけている十三人の部下の怒鳴り声にも近い報告を聞くふりをしながら、三日前の夜のことを思い出した。


 ミカドから使者が送られてきたのは、彼が好物である猪の乳房に蜂蜜をかけ、頬張ろうとしていたとしていた夕暮れ時のことである。


 ヤクサ将軍は衣服を整え豪奢な輿に乗ると、慌てて王宮へと急そがせた。一体何の用だろうか。こんな時間に突然呼び出すとは、そうそうある事では無い。


 王宮の正門の前で輿から下り、王殿へ続く白亜の大階段を輝きだした星空を背負って上りながら、将軍は悪い予感を覚えた。


 もしやミカドの健康に何か良からぬ事でも起きたのだろうか。


 全く畏れ多いこととは思いながらも、昨今のミカドの様子を見ていると平時からとても健康とは言えず、いつお隠れになるのかと危惧する声はあちこちで聞かれていたのだ。


 もしや、呼ばれたのは自分一人では無いのかも知れない。


 ヤクサ将軍は全身に冷たい汗が噴き出るのを感じた。


 今、密かにこの世を去ろうとしているミカドは、重臣たちに遺言を伝えようとしているのでは無いか。特に後継者については、ミカドは未だ定めていない。周囲が次期ミカドの最有力と予想していたサルタ王子には遂に後継者として指名しなかったばかりか、本人は大巫女を匿って領地に籠もってしまい、今豫国は混迷を極める事態になってしまっているのだ。


 ならば、ミカドが緊急に伝えたいこととは後継者の指名の他に何があるだろう。


 しかし、早鐘を打つ胸を落ち着かせ、王の部屋に入ったヤクサ将軍を待っていたのは、ミカドの意外な姿だった。


「うむ、良く来た。将軍」


 いつもは自室では寝台に横になり、上体だけを起こしているミカドは、ふちに金の細工が施された豪華な椅子に威厳をもって腰をかけていた。


 服装も寝着とは違い、髪も整え、ミカドに相応しい衣服に鮑玉を連ねた首飾り、父祖伝来の金剛石の指輪をはめている。何より、その顔つきはまだやや頬がこけてはいるが、以前よりもずっとふっくらして艶があり、長い眉のかかる瞳にも力がある。


 今までの様子が嘘のように、死の影が一切無い。


 ヤクサ将軍は内心狼狽えたが、彼を真に驚愕させたのはミカドの次の言葉だった。


「東を、攻めるぞ」


 絶句するヤクサ将軍にミカドは拳を天に振り上げ、低い声でさらに繰り返した。


「東を攻める。今こそ、大巫女を騙るあの女と、サルタを捕らえ、御箱を王都へと運ぶのだ!」


 ヤクサ将軍は自然と、その太い唇と指が震わせていた。


「ミカド、何故急にそのようなことを。今まで大巫女様から何度進言されても、倭国をはじめとする周囲の蛮族どもの事があって大規模な戦は許可しなかったではありませんか」


 ミカドは四白眼を爛々とさせ、ふんと鼻を鳴らして答えた。


「分からんのか。世の中に流れというものがある。儂は今までこの国が痩せ衰えていく流れの中で悩みもがいていた。その流れは止められず、それがいつしか自分の心身まで蝕んでいたのだ。だか、その流れが遂に変わった」


「そ、それは一体何のことでしょうか」


「ようやく、新たな巫女が見つかったのだ」


 ミカドの寒気を覚えさせる様な視線を受けて、ヤクサ将軍の脳裏に、あの日闘技会で見た小汚い少女の姿が浮かんだ。


「話には聞いています。しかし、たったそれだけの事で」


「愚か者め。これは瑞兆じゃ。あれをみよ」


 ミカドは椅子から異様な速度で立ち上がると露台へ向かい、木枯らしの吹き込む庭園の空を指さした。


 すでに迫っていた夕闇は漆黒になり、星界には無数の星々がまるで金砂銀砂を鏤めたように燦然と輝いている。


 するとその輝きの中で、幾筋かの星が流れた。さらにそれをきっかけにまた同じように二つ星が流れた。


「見よ。毎年この時期になるとあのように流れる星が見られるものだが、今年は異様に数が多い。これは地上の流れが変わる前兆だ」


「そ、そんな話私は聞いたこともございませんが」


「当たり前だ。愚か者め。これは代々のミカドと巫女団にのみ伝えられてきた秘術なのだから。まあ、恐らくレイはこの秘術を伝授されてはおるまい。知っているとすれば東の巫女たち。見よ。星々の輝きとともに、我が肉体は再び活力を取り戻しているでは無いか。今ここに、豫国とこの大八洲の国々の趨勢が決まる」


 ミカドは天を抱くように両腕を広げ、高らかに哄笑した。


「ヤクサ将軍、準備が整い次第、すぐに東へ向かえ。この流れに乗り遅れてはならぬ。今年の年送りは東の巫女ナル、あの女を生贄とする!」


 将軍はミカドの有無を言わせぬ威容よりも、言葉の意味を理解し震えて飛び上がった。


『今年の』年送りの生贄。つまりミカドは今、あと一月余りのうちにサルタ将軍との戦に打ち勝ち、東の巫女ナルを捕らえ来いと命令しているのである。


 ヤクサ将軍は恐懼して勅命を拝命すると、大急ぎで屋敷に戻っていったのだった。


 以来、屋敷には各部署の部下達が押しかけ、総大将であるヤクサ将軍の下、東の状況、人員や装備の段取り、王都の警護、作戦の立案、補給について報告や指示、議論が行われているのだった。


 ヤクサ将軍は人差し指で机を何度も叩きながら、うんざりした。


 東、サルタ将軍とナルのいる伊国とは、もうここ六年ずっと膠着状態が続いていたのである。倭国や出雲を警戒する必要はあったとはいえ、今まで伊国を攻める機会はいくらでもあったものを、大巫女や周囲がいくら進言しても攻めようとしなかったものを突然翻し、ひと月で攻めて勝利せよとは無茶にもほどがあるというものだろう。


 そもそも、とヤクサ将軍はげっそりとした顔でさらにため息をついた。


 この勝負、勝てるのだろうか。サルタ将軍が真っ向から向かってきたならば、先祖がこの地を平定して以来、数百年のうちで豫国最大の戦いとなる。そう、今まで豫国は周囲の蛮族と戦ったことは無かったし、内乱が起こったこともなかった。常勝将軍とうわたれているヤクサであったが、それは各地で起こったちょっとした小競り合いを武力をちらつかせて調停したり、鎮圧したりするという治安維持が主な職務だったのである。


 そういった小規模な戦いは今まで五三年という生涯で数多経験しているが、千を超える兵を率いた大規模戦闘は実戦で指揮したことはないのだ。もちろんそれはここ数百年の先祖もそうであったし、これから戦うサルタ将軍とてそれは同じ事だろう。


 それだけ、豫国は平和だったのだ。


 外敵はともかく、まさか国を二分して戦うなどと、十年前は誰も想定していなかっただろう。しかもいきなりの決戦である。いまさら国の存亡を巡る戦いなど、胃が痛くなる。


 報告から分析するに、かつて八対二だった兵力差は七対三といったところだろう。伊国についた貴族がいるとは言え、私兵の禁じられていた豫国ではサルタ将軍が例外的に育てていた私兵がほとんどだった。


 多少増えたとは言え、普通に考えれば依然こちらが有利である。


 だが、相手はサルタ将軍である。訓練所で学んでいた時から、奴の才能は煌めいていた。剣、弓矢、指揮。どれをとっても一流で、なにも王子がそこまで技を磨くことは無いだろうにと呆れもしたし、身分を気にせず周囲の者の心を掴む人柄と才能に、指導者でありながら暗い嫉妬も覚えた。


 あのサルタ将軍がこの六年、ただいたずらに時を浪費していたはずが無い。むしろ。


 ヤクサ将軍が思いを巡らせていると、男達の熱気を冷ますかのように、窓から冷たい風が吹いてきた。


 その風にはっとしたヤクサ将軍は、少し頭を冷やしてくると言って庭の東屋へと足を運んだ。


 空にはまた星々が輝いている。昨日に外に出た時もこのような空だったから、ほとんど家で会議と報告に明け暮れていたのだと自覚すると、疲労はさらに増した。


「はあ、とっとと引退しておけば良かった・・・」


 本音をぽろりと出してしまってから、慌てて口に手を当て左右を見回し、誰いないことを確認してほっと胸をなで下ろす。


 ヤクサ将軍は気分が少し落ち着き、ふと星々の輝きが以前より頼りないのに気づいた。


「そうか、今宵は満月か」


 煌々と輝く月の光が強く、星々の輝きを弱めているのだ。


 蠱惑的な声で呼びかけられたのは、ヤクサ将軍がそんなたわいも無いことに得心してため息をついたその時である。


「こんばんは。ヤクサ将軍」


 すぐに毛むくじゃらの太い腕を腰にある剣をやったが、月光に照らされた相手の姿を見て、その必要の無いことを悟った。サルタ将軍は小さく飛び上がり、慌ててその貴き女性に拝跪した。


「こ、これはミオ様。どうしてこのようなところに」


 ミオは白い綾絹を頭から被り、口元を隠して目だけを出した恰好だったが、彼女の印象的な眼差しや一度嗅ぐと到底忘れられない芳しい香り、ただ立っているだけでにじみ出る気品、そして出自を示す紅玉の指輪ですぐにミオ王女だと言うことが気づいた。


 ミオ王女は、かつてヤクサ将軍が恋をした相手でもあった。


「お久しぶりです。将軍。なにやら随分お疲れのご様子ですわね」


 銀色に輝く彼女が口元を見せて艶然と微笑むと、ヤクサ将軍の身体はまるで麻痺したように疲労は一時全て感じなくなった。


「ミ、ミオ様。なんの、国の大事にござりますれば、将軍として当然のことです」


「では、あの噂は本当なのですね。ついにミカドが、東を攻めると」


「おおっ、やはりもうご存じしたか。まあ、この大騒ぎですからな。今その準備で王都は大わらわです」


「勝てますの?」


 ミオ王女の頼りなげ声にヤクサ将軍は立ち上がり、胸を張り右手でどんと叩いて応えた。


「もちろんであります。数の上ではこちらが圧倒的に有利。もう作戦は何年も前から考えているのです」


「それはどんな?」


「今作戦の最大の目的は、大巫女を騙るナルを捕らえ、御箱を王都へと持ち帰ることです。我々が目指すのは、拠点のある大麻山となります。大麻山は豫国最大の大河である八岐川の下流すぐ近く。上流から船で一気に侵攻し河岸に上陸して追い込むというのが一番良いでしょう」


「けれどそれは、サルタ将軍とて分かっていることでしょう。ここから大麻山に行こうと左回りで攻めようとすれば、鶴亀山地を越えなければならない上に、そこからすぐに戦闘になる。補給線を考えるならばそれは無理。ならば敵は、八岐川に沿って攻め込むだろうと考え、準備しているのではありませんか?」


「そうでしょうな。しかしそれはもう仕方の無いことです。これは潜入ではなく、決戦なのですから。ミカドが期限を設けて勅命を下した以上、それ以外の選択肢はありません。むしろ数においてこちらが圧倒的優位であり、相手側はまだ今回の勅命とこちらの作戦を知っていない状況を、好機とみるべきでしょうな。奴らは八岐川方面だけではなく多少は各地に兵力を分散しておりますから、こちらはさらに有利になります」


 ミオ王女はそうですか、と呟くと被っていた綾絹を取り去って、しばし白い月を眺めた。


 その銀に輝く横顔に、凜とした眼差しに、官能的な唇にヤクサ将軍は陶然と


 なる。この女性は恋い焦がれた若き日と全く変わっていない。いや、むしろ年月を経た今の方が円熟したしなやかな美しさがある。王都のどんな美姫も彼女の足下にも及ぶまい。


 だがそんな彼女はシンハの世話係に立候補し、未だ独身である。


 美しきシンハの女王。


 その理由を、ヤクサ将軍は誰よりも知っていた。


「ミオ様、私の邸にいらして口をきいて下さったということは、もう、あの日のことを許して下さったと言うことなのでしょうか」


 一瞬、王女の表情が強ばった。その事にヤクサ将軍は凍えた。


「どうかお許し下さい。あの時は、ああするしかなかったのです。私の立場で他に何が出来たでしょう」


「・・・それは詭弁ですわ。将軍。だって、あなたはミカドへの忠誠心から、私の恋を密告したわけではないでしょう?あなたは私に恋していた。その嫉妬でそうしたのです」


 ヤクサ将軍はあの時の暗い感情を思い出すように、顔を伏せた。


「そうです。恋しておりました。すでに私はマナ家から妻を娶っていましたが、気持ちは抑えることが出来なかった。全てを捨てででも、あなたと生きたいと思いました。そのあなたは、私には見向きもせず、あの男に恋していた。ですが、誰がどう考えてもあの者はあなたには相応しくなかった。だから、ミカドも許さなかったのです。私が告げ口をせずとも、許されることではありませんでした」


 不意に冷たい風が吹き、庭園の木々がざわめいた。


「ミカドは、もうだめです」


 ミオは灯りを吹き消すように呟いた。


「い、今なんと」


「将軍にも分かっておいででしょう。ミカドは健康を害しています。神聖な血統により長寿ではありましょうが、もはやミカドとしての責務を果たせることが出来ない状態です」


 ヤクサ将軍は言葉に詰まった。それは何年も前から誰もが思っていた公然の秘密である。将軍もつい数日前ならば心の中で同意していただろう。


 しかし、あの夜のミカドはむしろ。


 それに星の動きだか輝きだかは分からぬが、攻める時期としてはそう見当外れでもないのだ。


 今、豫国のあちこちで天災が起き、蝗が発生し流民が溢れているというのに王都がこうも正常に機能しているのは、未だ王都への食料や衣類等を生産する土地が無事だからである。豫国の村々は王都の直轄でない限り、それぞれの場所でほとんど自給自足で生活しているため、それら一つ一つ、もっといえば村のいくつかがまるごとなくなっても、王都に直接的な影響はないのだ。


 だが、王都の食料庫が無事だとしても、近頃は王都への流民が多すぎる。取り締まってはいるが、もしこのまま流民が増え続ければ、王都の治安や食料事情は破綻してしまうだろう。だが、未だ天災による被害が少ない東、伊国を取り戻せれば、当面の危機は回避される。


「いえ、ミカドは・・・」


「いいえ、ミカドはすでにご乱心なさっておいでです」


 王女は麗しい容を将軍に近づけ、宝玉のような黒い瞳で有無を言わせない迫力を見せた。


「今こそ、豫国には新たなミカドが必要なのです」


 将軍は心臓を掴まれたような気分になった。


「そ、それはつまり・・・まさか」


「この数年、誰かがしなければならなかったことです。けれど誰もしなかった。豫国大将軍ヤクサ・カライ。私は新たなミカドをたてます。真実相応しい者がいるのです。私に協力しなさい」


 ヤクサ将軍はしばらく呆然と王女と見つめ合った。しかし、すぐにはっとして唇を震わせながら太い首を左右に振った。


「いえ・・・・いいえ、あなたは、違う。あなたがなさろうとしていることは。復讐だ。私には分かります。あなたの心の内が」


 震える手にミオの細く長い指が触れた時、将軍はようやく自分が長い間深く息をしていなかったことに気がついた。


「もし、私の心を本当に分かっているのだとしても、あなたはそれに逆らえて?いつも、闘技会で脇に愛人を侍らせながらも、私を物欲しげに見つめているくせに。私はあなたの欲しいものを差し上げましょう。地位も権力も欲望も。ですから、あなたも私に差し出すのです。あなたが奪った私の未来を、今こそ私に返して」


 ヤクサ将軍は今、長年夢に見た王女の熱を自身の胸板に感じていたが、その後はもう何も考えることは出来なかった。

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