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第九十二話 白玉の声

 ワカタがレイの部屋を出、石造りの廊下を歩いていると、向こうからに侍女長のナミの姿が見えた。普段なら後ろに三人は従えているはずだが、今は一人である。やや腹の出た姿ではあったが、その歩みは舞のように美しい。


「ナミ殿、実は今、人をやろうかと思っていたところでした。レイ様が、あなたに来るようにと・・・」


 ナミはワカタの言葉が言い終わるのを待たず、一気に懐に潜り込むと、いきなり腰の短剣を抜き、首筋めがけて襲ってきた。だがワカタはさらりとかわし、刃もそのまま空を切って壁に突き当たった。


 ワカタの顔色は、変わっていなかった。


「さすがね。私もそれなりに訓練を受けているのだけれど。レイ様の用件はもう分かっているわ。私に侍女長の役目を休んで、出産に備えてしばらく安静にしていろと言うのよ。私にとってもありがたい話だわ。でもね、するとその間、この神殿を実質取りしきるのは、あなたということになる。ついこの間まで、この王都にすらいなかった人間が。男が。あの娘を使って上手くレイ様の懐に潜り込んだようだけど、目的はなに?お前は一体何者なの?」


「私は故郷を無くしたただの流民ですよ。目的も何も無い。ただレイ様に見込まれたので、食うために儀仗をやっているだけです。この世で、目的を持って生きる人間ばかりでは無いんですよ、侍女長」


 信じるものか、とナミは目を細めた。


 短剣を鞘に収め、姿勢を正すとナミは何事も無かったかのように優雅に歩き始めた。ワカタとすれ違う瞬間、ナミは耳元で囁いた。


「同じ事をレイ様に問われて、同じ応えをしたならきっとあなたは呪いで死ぬわね」





 大巫女から呼ばれたナミは供も連れず、前髪を汗ばんだ額に張り付かせ、いくつもの円柱を早足で通り越し、ようやく部屋へとたどり着いた。


 呼ばれた理由は分かっている。


 腹が目立ちはじめ、出産を控えている身だからそろそろ休めというのだろう。身体的にはありがたい話ではある。


 しかし今この神殿において、侍女長が一時的にも退くことはあのワカタというどこの誰ともしれない若者の天下の到来を意味する。男でありながら神殿に入り、大巫女とイヨの身辺に侍り、次期守備隊長を任されることになっている彼は、侍女たちが神殿を守る兵士でもある事を考えれば、もはや侍女長と同格の存在である。


 その上、自分よりも大巫女の信頼が厚いから、今後その影響力はどんどん大きくなるに違いなかった。


出産している間、そんな彼に好き勝手されては神殿の秩序、ひいてはミカドを斃すという計画が頓挫してしまいかねない。


 ナミは頭から湯気が出そうな赤い顔を入室した途端に引っ込めて跪くと、大巫女のレイにすがるようにして訴えた。


「レイ様、休暇のお話大変ありがたく思っております。確かに私ももう月のものがとまって五月になろうとしていますから、体力や神経を使う侍女長の役目はきつくなってきておりました。しかし」


 ナミは鋭い目顔で頭上の大巫女を見上げた。


 視線が合うかと思ったが、気だるく腰をかけた彼女の切れ長の目は、机の上の花に向けられている。


「あの者を安易に信用しすぎではありませんか。今のままでは、あの、本当にどこの誰かも分からないあの得体の知れない男にこの神殿は乗っ取られてしまいます。どうか、あの者を余り近づけすぎないで下さい」


 だが返ってきた大巫女の言葉は冷たかった。


「お前よりもよほど信用が出来るわ」


 ナミは慌てて机の向かいへと膝で移動した。


「何を仰います?!呪いなら私にもかけたではありませんか。誓約をしたのです。ですからミオ王女との経緯も裏の事情も全て告白したのではありませんか。私も、あの男と同じように、裏切れば死の呪いが発動するのですから」


「ああっ、今まで散々情報を隠し、私を煽動しようとしていたくせによく言えること。それにお前が二枚舌であれこれ言うより、あの男とイヨが現れたおかげで私はやる気になったのよ。お前もあの男に感謝こそすれ、つべこべいうものではないよ」


 それに、とレイは意味深にナミの腹を見た。


「お前は次のミカドを身籠もっているの。万に一つのことがあってはならない。もしそんなことがあれば、その方が計画は大きく変わってしまう。今後出産まで、跪礼も免じてやるから、どうか今は出産を第一に考えろ」


ナミは感謝を述べて優雅に立ち上がり、こぼれ落ちる巻き毛を掻き上げ、拳を握りしめてレイに訴えた。


「ですが、あのワカタという男は危険です。あまりにも得体が知れません。あの強さも異常です。普通の民が、誰かから手ほどきを受けたとは言えあれほどの力を身につけることが出来ましょうか。もしや東の巫女かサルタ将軍の諜者ということだって」


レイは一瞬うんざりとした表情をして息をつき、すぐに目つきを鋭くして以前よりふくよかになったナミの左頬を躊躇いなく打った。


「全くうるさい女だね! 仮に東の諜者だとしても、私の呪いがかかっている限り裏切ることなどできはしないのだから、関係が無いだろう。それよりもお前やミオ王女ももっと現実的になれ。毒や短剣では、幾重にも守られたミカドを斃すことは難しいし、もし出来たとしてもヤクサ将軍の軍兵がいたら、たちまち私たちが捕らわれて殺されてしまうのは目に見えているではないの。まあ、ミオ王女は復讐が目的だから、それさえ遂げられれば本望かも知れないが。だが、お前は我が子をミカドにしたいのだろう?私に摂政になって欲しいのだろう。国も救うんだろう。なら、それには私の大巫女の権威だけでは無く、その後政権を安定させる力が必要だと何故分からないの。そしてそれは、あの男が侍女達を鍛えることである程度の形になる。ワカタが裏切らないと保証があるのなら、その力をできる限り利用しないでどうするのよ」


 レイはもう一度今度は左の頬を叩いたが、ナミはよろめきもせず、眼差しも変わらない。もし身籠もっていなければ、蹴りが入っていただろう。


「私とて分かっています。確かにあの男の力は有用ではあります。あの男一人いれば、幾通りもの作戦を立てることだって出来ます。しかし、どうも嫌な予感がするのです。あの男は何かを隠している。私たちを、この豫国そのものすら破滅させる何かを隠し持っているような」


 眉間を狭めるナミに、大巫女はぷっと吹き出し、哄笑した。


「予感って。それを大巫女の私にいうの? 私からは何も感じられないわ。確かにあいつは怪しいのは認める。もしかしたら豫国の人間でさえ無いかも知れない。けれどお前と同じく誓約したのだ。決して我らを裏切ることはできはしないのだから、何を恐れることがある」


 冷水で満ちた器に布を浸け、レイは自ら布を絞ると野生の鹿のような気高い眼差し持つ女の、近頃豊かになった頬を冷やした。


「ほら、打って悪かった」


 その白い手と思いやりに嘘は無いように思えた。だが、その事にこそ、ナミの不安はかき立てられた。


大巫女の目下の者へのこのような扱いは、今までなかった事である。この変化が、すべてあのワカタという儀仗の影響なのだとしたら、彼は一体どれほど危うい存在なのだろう。胸にとてつもない胸騒ぎを感じる。むしろ、あの者こそ、我が子をミカドに即かせるために排除しなければならない者では無いのだろうか。


「ところで、お前に聞きたいことがある」


「何でしょうか」


「ふと思ったのだけれどね。お前はもし、我が子のためならば、自分が犠牲になれるか」


 その質問にナミは背筋の凍る思いがし、高貴な口元を一瞬ゆがませ、額に汗をにじませた。


 今、闘技会で生贄候補となるはずだったワカタは、儀仗としての役目を授かり候補からは外されることになっている。巫女として育成されるあのイヨという少女も同様である。すなわち、もう二ヶ月先に行われる今年の年送りの生贄は、未だ決まっていないのである。


 そしてレイが、普段から生贄は王族貴族から出すべきだという意見を述べているのは誰もが知っていることだった。もしや。


「こ、子を出産した後であるのならば。必ず、必ず我が子をミカドにしていただけるとお約束して下さるのなら、私が生贄になることも厭いません」


「そうか・・・。いや、誤解するな。聞いてみただけだ。それに子が生まれるのは年送りのずっと後だろう。安心しろ。少なくともそれまではお前の身は安全だから」


そう言われても、一度出た汗は張り付いてなかなか乾きそうもなかった。


「おや、まだ怯えているの。分かった。お前の不安を一つ取り除いてやろう」


 不敵な笑みを浮かべたまま、レイは自分が身につけている三連の首飾りに手をやった。神殿に納められる白玉の中でも特に極上のもので、まるで虹を閉じ込めたような輝きは見る者を恍惚とさせる。


その白玉の一つを撫でながら、レイは囁いた。


「私は無条件にあいつを信用しているわけないじゃないの。私が授けた白玉は、全てここに繋がっているのよ。さあ、お前の姉妹達の声を届けておくれ」


すると不思議なことに、撫でられた白玉から少女と男の声が聞こえてくる。それは紛れもなく、今この神殿のどこかで交わされているイヨとワカタのものだった。


『ワカタお兄ちゃん、やっと会えたね』


『おいおい、ここに来てから俺たちは一日だって会わなかった日はないじゃないか。いや、よく考えたら、俺たちは出会った時から一日も会わなかった日は無いな。ずっと一緒だったな』


『うん。そうかもしれないけど、お兄ちゃんと離れて修行をしている間はとても長く感じて、もう五日くらい会っていないような気がするんだよ』


『ん、どうした。どうして泣いてるんだ』


『私さ・・・やっぱり無理だよ。巫女様なんて。ここに来てからもうずっと大


神の教えを勉強したり、水瓶を見つめたり泉に入って身を清めたりしているけど、私なんにも感じないんだもん。巫女様って、天気が分かったり、先のことを予知したり、遠くのことが分かったりするんでしょ。でも私全然なんだもの』


『焦るなよ。まだ一月くらいしか修行していないじゃないか。大巫女のレイ様も言っていただろ。お前には隠れた素質があるんだ。もしかしたら、未来の大巫女になれるかも知れないんだぞ。それともお前は巫女なんてなりたくないか。それなら』


『違うの。私、本当に巫女様になれるのなら、嬉しいと思う。でも無理。無理なんだよ。あのね、今まで黙っていたけど、私、捨て子だったんだよ。村の人に拾われたけど、ちゃんともらってくれる人は誰もいなくって、あちこちの家を回されて、色んな家の汚い仕事をして、残り物を分けて貰ってようやく生きてきたんだよ。そんな私が、巫女様になんてなれると思う?神殿の人たちは、口には出さないけどみんな育ちの良さそうな人ばかりだし、レイ様は王族だもん。きっと巫女も大巫女もそういう高貴な生まれの人がなるはずなんだよ』


『イヨ。忘れるな。大神のため、そして国と民ために祈る巫女に生まれ育ちなど関係あるわけが無い。巫女が何故王族や貴族達よりも尊敬されるか分かるか。巫女は人生を捧げて己を捨てて、他人のために祈る。それはとても尊いことなんだ。王族も貴族もそして平民も奴婢もみんな自分の事しか考えていないこの国で、巫女だけは誰かのために祈っているんだ。それはお前が村でしてきたことと同じように尊い』


『私偉くなんて無い。偉くなんて無いよ。あんな、汚なかったり、臭かったりしたことが偉いはずが無い。尊いはずが無い』


『誰も分かっていなくても、俺は分かっている。お前の塗炭の苦しみは、白玉を生み出す母貝の涙だ。決して自分を卑下するんじゃない。もうこれからは自分の出自を恥と思うな。そうすれば、お前は立派な巫女になれるから』


 次第に遠くなるワカタの声に、大巫女は震えながら白玉を撫でていた。

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