とにかく少女はこれが夢のようだった。
つい先ほどまで髪はぼさぼさで肌は埃と垢にまみれ、今にも破れそうな襤褸を着て檻に入られ、獣に食べられそうになっていた。それが闘技会が終わった途端、白い服を来た綺麗な女の人が何人もやってきて、泉の綺麗な水で丁寧に体中を洗い、虱もいた髪は油を塗り何度も梳いてもらって艶々になった。
おまけに用意された服は極上の絹で、着ているだけでとろけそうになる心地である。これから出されるという食事も、きっとこの上なく美味しいに違いない。
いったい自分の身に何が起こったのだろう。少女にはさっぱり分からなかった。
少女は広い部屋にぽつりと置かれた椅子に腰をかけ、今までのことを思い出した。
王都へ向かう道中でワカタというなんだか不思議な雰囲気のお兄ちゃんと出会い、一緒に旅することになった。だがいざ王都に着き、見たことも無い町並みに驚き、市場をうろうろとしているとあっという間に人狩りにあって檻の中に入れられたのだ。
連れて行かれた先は着飾った偉そうな人たちが取り囲む騒がしい広場で、見たこともない大きな獣が何頭もいた。獣は他の大人達を次々と殺していった。あんなに血を見たのは初めてだった。
このままだと自分も殺される。そう思った瞬間、自分は檻から逃げ出していたのだ。
だが今思えば、それは逆に獣たちにとって恰好の的だったに違いない。
すぐさま獣たちが自分めがけて駆けてきた。
もう殺される。
そう思った瞬間、ワカタお兄ちゃんがいつの間にか風のような早さでやってきていて、輝く剣で獣の首をはねたのだ。まさに一太刀で。
まさか、いつもへらへらとしていたお兄ちゃんがあんなに強かったなんて、思いもしなかった。
「あっ、ワカタお兄ちゃん!」
少女は豪奢な部屋でカチコチに緊張しながら座っていたが、遅れて連れられてきたワカタの姿に安堵のあまり椅子から飛び上がった。
だが自分と同じように身なりを整えられたワカタを見て、少女は自らの目を疑い、驚いてさらに飛び上がる。
太く艶のある黒髪、瑞々しい褐色の肌、爽やかな笑顔と堂々とした態度。あのだらしのないお兄ちゃんが、別人のようにかっこよい。
顔立ちは当然西人ではないけれど、それでもなんだか王族か貴族のような気品がある。これが、あのへらへら笑っておならをしていたワカタお兄ちゃんだととても思えなかった。
「よう、元気だったか。お前もすっかり綺麗にしてもらったな」
不思議なことに、ワカタは自分の変化も少女の変化もさして戸惑っていない様子だった。まるで以前にこういう恰好で、こういう扱われ方がされてことがあるかのように。
「・・・もうさ、凄い驚きだよ。私、今までこんな服着たことが無かったし、水も綺麗で、世話をしてくれた人たちはみんな綺麗で気品があって。それにここ、神殿って言うんでしょ。こんなところに私が入れるなんて・・・。それになんて綺麗な庭なんだろう。ほら、この部屋は庭と繋がっているんだよ。下から水を引いていて、池まであるの」
花が咲き乱れ、鳥が囀る庭を指さしながら、少女はワカタの手を引き、生まれて始めて履いた真新しい革靴で庭へと駆けだした。手をひろげると芳しい風が全身を撫でる。そして見上げた空は、いつもと同じものとは思えないほど高く青かった。
遙か彼方、流れる雲や風に乗る鵄を目で追いかけていると、次第に頭がくらくらしてよろけてしまった。緊張が一気に解けたせいかもしれない。
それをいとも自然にワカタが大きな掌で支える。
「大丈夫か。少し落ち着いて、座っていろ」
少女ははあはあと胸を押さえながら、支えられて椅子に座り込んだ。椅子も上等の物で、心地よい檜の香りがする。
庭園から流れてくる花蜜の香りの中、その素朴な薫りが少し気分を落ち着かせてくれたのだろうか。少女はここではじめて、やっとある事に気がついて蒼くなった。
「ね、ねえ、お兄ちゃん。私たち、これからどうなるんだろう。どうしてここに連れてこられたのかな」
少女の当然の問いに、ワカタはせっかく整えた髪を無造作に掻きながら応えた。
「うーん、きっと何か用事があって呼ばれたんだと思うんだがな。だが安心しろ、これだけ大事にされているっていうことは、まず命を奪われたりはしない」
「で、でもさ、私たちついさっきまで命が危なかったじゃない。場所が変わっただけでまた同じようなことにならないかな。そうだよ。すぐ殺されちゃうから、せめて今だけ良い思いさせてくれてるんだよ。これはとりあえずのご褒美で、きっとまた獣たちの中に放り込まれるんだよ。どうしよう!」
遠くなっていたあの広場のざわめき、大人達の狂気の視線が一気に蘇ってきて、体が凍えてしまう。
「大丈夫だ。その時はまた俺が守ってやるから」
そう笑顔でワカタが言って頭を撫でてくれた時、少女の胸が高鳴ったは何故だろう。
「お兄ちゃんって、凄く強かったんだね。綺麗な剣を持っているだけだと思ったのに」
「うーん、まあ、色々教えられたからなあ。けど、この剣の切れ味は異常だな。俺が知っているどの剣よりも軽いのに鋭い」
「それ、王都で私たちを捕まえた兵隊が持ってたのと同じやつだよね。普通の人は持っていなかったけど、兵隊さんにとっては珍しくないのかも。でも、きっとお兄ちゃんと同じようなことが出来る人、なんていないよ」
少女は逆光になった、背の高いワカタを右手で目を守りながら覗き見た。一体、この人は何者なのだろう。自分と同じく、天災で村を無くした流民だとばかり思っていたし、少し間抜けっぽくて人が良さそうだから一緒にいたけど、ただの村人にこんな事が出来るはずがない。だとすれば、どこかの貴族に仕えていた兵だったのだろうか。
「たぶん、兵隊達はこの剣の使い方を知らないんじゃないのかな」
「それって、お兄ちゃんが言っていた『気』とかいうやつ?」
「そう。俺は昔、この国に流れついた倭国の人に教えてもらったんだけどな、大陸の方だと割と知られているものらしい。自分の体や天地には気というものが流れていて、それを操ったりすることで、色んな事が出来るんだ。例えば、達人になると葉っぱで岩を切ること出来るって聞いたことがあるな。この剣は普通に持っていても軽くて丈夫な剣だけど、気を込めると切れ味が格段に良くなるらしい。けど、なんでこの剣をつくれる連中がそれを知らないんだ。それが不思議だよ。宝の持ち腐れじゃないか」
ワカタはまた一人でぶつぶつ言い始めた。よく分からないけれど、ワカタはたまにこんな時がある。そういう時、顔つきが少しだけ鋭くなるのを少女は知っている。
一体、お兄ちゃんは何者なんだろう。
でもきっとそれを聞いてもお兄ちゃんは正直には答えてくれない気がした。だから再び尋ねたことは無い。でもそれでもよかった。全てを失った少女にとって、この掌のぬくもりさえあれば、他に何も要らなかった。