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第八十四話 潜入

 「あー、危なかった。危なかった」


 ワカタは凍える夜の森の中を、大慌てで駆け抜けた。幸い、頭上には肥えた月があり、目が慣れれば足下もはっきり見える。木の根に気をつけ、気味の悪い鳥や獣の鳴き声さえ無視すれば、駆けるのには何の問題も無かった。


 隠れ家にしている洞窟の近くまで来ると、顔を左右させ辺りを慎重に見回して、つけられていないか確かめる。


「よし」


 ワカタはほっと胸をなで下ろし、洞窟の入り口に垂らしている黒布をめくって中へと入った。洞窟の中はすでに灯りが灯っており、暖を取るための敷物も敷かれていた。中央にはたき火の後があったが、用心のため今は消しているようだ。


 もう三日も待っていたカラオは、立ち上がって怒りをぶつけた。


 「もうワカタ様! 遅いじゃ無いですか! 心配したんですからね!」


 「いやいや、そう怒るなよ。本当に危ないところだったんだって」


 手をひらひらさせながら、ワカタは自分の身に起きた出来事を少しだけ大げさにして話し始めた。


 村を失った流民を装い、別の村へと忍び込んでいると、旅の一座が見世物をただで披露してくれるというので驚くほど大きな天幕の中へと入った。そこで語られた豫国の歴史、繰り広げられた妙技の数々、めまいのするような美女。息をのみ、時にはうっとりとして舞台に見入っていたが、突然、同じ客席からきつい声の娘が立ち上がり、紛れ込んでいた兵士たちが暴れ出して天幕の中は大騒ぎになったのである。


 辺りが乱れに乱れて砂埃が舞う中、逃げ足だけには自信がある自分は、なんとかどさくさに紛れて天幕を抜け出すことが出来たのだ。


「へえ、それは災難でしたね。もし怪しまれて尋問されていたら、おいらたちが豫国の人間では無いってばれてたかもしれませんね。そしたら殺されてたかもしれませんね」


「おい、もっと本気で心配しろよ。そうだよ。危なかったんだよ。それにさ、その立ち上がった娘っていうのが、巫女らしいんだ。巫女が兵を指揮していたわけだ。一体なんだんだよ、あれ」


 ワカタはそう言って、置いてあった自分の毛皮を羽織り、寒い寒いとカラオの横に腰を下ろした。


「それ、本当に危なかったですね。巫女は人の心を読むことも出来る者もいますから」


 カラオが息がかかるほどの距離で神妙に言うと、ワカタは改めて背筋が寒くなった。


「こら、あんまり脅かすな」


「本気で心配しろって言ったくせに」


「でもさ、俺らにはこれがあるから大丈夫だろ」


 ワカタは懐から、小袋を取り出した。それは倭国を旅立つ前、太師張政がワカタの一行に与えたものであった。中には張政の作った特別の青銅札が入っている。


 二人が豫国に密かに潜入できたのも、この札のおかげだった。


 だが、カラオは胡散臭げな顔をした。


「それ、あんまり当てにしない方が良いですよ。張政様の凄さはみんな知っていますけど、このお札はみんな持っていたのに、結局船は沈んで、豫国にたどり着けたのはおいら達だけ。やっぱりこの国の結界は想像以上だったわけですよ。あるいはこのお札、あんまり効果が無いか」


「昔から豫国に行くには前もって連絡して、正式な使者が行く決まりになっていたけど、忍び込もうとするとこうなるわけだな。全くなんて国だ」


 二人は少しの間無言で、同じ船に乗っていた仲間の顔を思い浮かべた。皆、およそ秘密部隊には似つかわしくない、陽気な男たちだった。


 五年前、倭国大王暗殺に失敗し、出雲の父からも距離を置かれたワカタは絶体絶命だった。実際に行動に移したわけではないし、証拠を掴まれていたわけでも無かったが、何しろ相手はあの張政である。山門国への大進軍がおさまった後、倭国大王と張政に意味ありげに睨み付けられれば、ただ震え、後は死を待つばかりであった。


 だが、意外にも近衛の任を解かれたワカタとカラオに新たに与えられた役目は、新設された倭国における秘密部隊の長だった。どうやら大逆の計画を立てていたようだが実行したわけでは無く、まして出雲を治めている大王の第三王子帥響の長子を、すぐさま死罪にするわけにはいかないから、漢土や豫国、纏向への潜入、情報収集というこの危険極まりない仕事で使い倒してやろうという思惑だろう。


 そしてまたもや意外にも、破れかぶれになったワカタと、太師張政に並ぶほど頭脳明晰なカラオの秘密部隊は、この五年の間で優れた功績を挙げていた。この豫国潜入を命じられたのも、今まで積み重ねてきた実績があってこそである。


「おいら達が豫国に流れ着いてもう二月は立ちました。そろそろ情報の整理をしましょうか」


 カラオの鋭い目顔に、ワカタも咥えていた干し肉を一気に口の中に押し込む。


「うむ。豫国は凄い大国だ。何百年もどこの部族も国も手出しできなかった理由がよく分かったよ。天幕で見た兵士達の装備からして、俺たちとは違う。やつらが身につけている武具は、一見青銅のような輝きだが、めちゃくちゃ硬い上に羽のように軽いんだ。ほら、見ろよ」


 兵の中で一番偉そうな奴から盗んできたんだと、ワカタは今まで腰に下げていた剣を鞘から引き抜いた。剣の刃は炎の光に反射して、宝玉のような輝きを見せた。冷気を感じさせる鋭さなのに、血の通っているような波動すら感じる。二人は思わずつばを飲み込んだ。今まで見たどの鉱物とも違ったものだった。 


「だが結局この国は、どうやら分裂状態にあると言う噂は本当のようだな。大まかに分けて、西はミカド、東は大巫女が治めているというのが客観的な事実だろう。神官を表す「伊」、予言と預言を表す「豫」。伊豫国とはよく言ったものだ。ちょうどこの島は中央に山脈があるから、それで割とはっきり分かれているみたいだ」


「問題はどうしてこのような事態となっているかでしょうね。俺も流民のふりをして王都まで行ってきましたけど、大体はワカタ様が見た劇の通りに理解されているようです」 


「じゃあ、そういうことなんじゃないのか」


 カラオはこのすでに王子という地位を失っている若者に、乾いた微笑みをみせた。


「ワカタ様のそういう馬鹿なところ。俺、好きですよー」


 ワカタはしばらくもぐもぐと口を動かしていたが、その言葉が侮辱だとようやく気がついた。


「な、なんだと」


「そんな劇をわざわざ見せて回っているなんて、その情報が間違っている証拠じゃないですか。つまり、真実は逆でしょう。劇では大巫女を僭称している女が、王都のミカドの権限まで奪おうとしているような話でしたけど、実際はミカドの方が大巫女の地位、権限を手に入れようとしたのではないかと考えられます」


「待てよ。豫国というのは、神託を受ける大巫女が治める国で、それでここは数百年の栄華を極めてきたんだろう。だから帥大殿もそのしくみを取り入れようと、昔ここにやってきてククリ様を連れてきたんだ。それほどうまく行っているしくみを、なんで壊そうとする必要があるんだ?」


「・・・きっとおかしくなったんでしょうね」


 カラオはしばし思案した後、さらっと言った。


「おいおい、なんだそりゃ」


「これは、それほど冗談ではありませんよ。考えてもみて下さい。漢土は今どうなっていますか? あの地に興亡した国々だって、それぞれが英雄であったり優れた文武百官によって治められていました。その形自体に、根本的な間違いがあったわけではないでしょう。けれど結局時が経てば、何らかの要因で狂いや綻びが生じて滅んでしまうという歴史を、俺たち秘密部隊は太師様から学んだじゃ無いですか。豫国だってその例外では無かったと言うことでしょう。ミカドか、大臣か、あるいは国全体が何かをきっかけにおかしくなってしまったと言うことは、良くある話です」


「ふむ。しかし考えてみればおかしな話だな。倭国は豫国の仕組みを取り入れようとして、ククリ様を迎えたというのに。豫国ではその仕組みが崩壊しつつある。けれども倭国はかつての豫国のような状態になって、今のところ栄えているじゃないか」


「何事も万能な仕組み自体があるわけではなくて、その土地や民にとって必要とする時期というのもあるでしょうからねぇ」


 なんだかこの頃張政のような口ぶりをするカラオに、ワカタはふんっと唇をとがらせた。顔は可愛いままだが、目つきが鋭くなったように感じる。


「お前と俺の情報を合わせて、大体のところは分かったよ。じゃあ、話を次の段階へ進めようぜ。西と東。倭国へ凄まじい呪詛を送っているのはどっちだと思う?」


「恐らく西。けれどまだ確信がありません。豫国の内乱につけ込まれないように、周囲を牽制しておきたいのはどちらの側でも同じですからね。こんな時、巫覡の隊員が生きていたら、豫国に入ってすぐに分かったでしょうが。俺たちにはそういう素質がありません」 


「ふーむ。では、今度は俺が王都に行こう」


「えっ?」


「なんだよ。今回は俺が東の伊国方面へいってきたんだから、次は西の王都に行くというのは別におかしな話では無いだろう。今度はお前は伊国に行けばいいじゃないか」


「いや、俺が伊国に潜入するのは良いんですけど、ワカタ様が王都にかあ・・・いっしょに行動した方が良いかもしれませんよ」


「なんだ?」


「豫国の王都は・・・凄いですよ。町並みや水路、宮殿全てにおいてそこら辺の寂れた町や、倭国とは比べようもありません。豫国の人間から見たら、倭国なんて蛮族の国ですよ。おいら、実はその衝撃から立ち直るのに結構時間がかかってしまいました。ワカタ様は倭国の王子みたいなものですから、衝撃が大きすぎるんじゃないかなあ」


「王子みたいなとは何だ。今でも王子と言えば王子だ。大王の孫だぞ俺は」


「まあ、俺が一番心配しているのは流民狩りなんですよ。今、豫国のあちこちで天災が起きて流民が王都に流れているのは知っているでしょ。俺もそれを利用して潜り込めたんですが、王都では流民を片っ端から捕らえてどこかへ連れて行かれるみたいなんですよ。噂では、神殿の生贄にされるとか。俺、ワカタ様がうっかり捕まってしまわないかそれが心配で」


「馬鹿っ! 俺は倭国の秘密部隊の隊長だぞ! そんな間抜けなことするか!」


「ま、ワカタ様はお強いから、捕まっても自力で逃げられるかもしれませんけどね」

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