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第八十二話 神殿の箱庭

 神殿の昼下がり、レイは自室前の屋上庭園の地べたに腰を下ろし、背を木に預けていた。頭上では木々の枝がまるで天蓋のように被い、木漏れ日がさしている。


 庭園にはシマムト川の支流から水を引き、地上からくみ上げて作られる大きな池あり、周囲には豫国中から集められた樹木や、撫子や木芙蓉などの花々が秋の日射しを受けて栄えていた。 


 夏が終わり秋が来ても、庭園にはまた別の花が咲き始めている。木々からはいつも小鳥のさえずりが聞こえ、花々には蝶がひらひらと遊ぶ。このような屋上庭園は、王殿にも神殿にも数多あった。


 だが、やはりレイの一番のお気に入りは、自室のこの庭である。神殿の建設はミカドによってレイが保護されるよりも数年前からはじまっており、完成された時には自分の口を出す余地など無かったが、この庭だけは時間をかけて好みのものに変えていったのだ。


 大巫女は政には関わらず、ミカドの呼び出しが無ければ神殿を出ること自体そうそうあるものではない。


 大巫女とは、ひたすら大神を祀り祈るのが本分なのである。そのこと自体に不満など在るはずもない。そもそも大巫女とは、険しいあの鶴亀山の奥で一生を過ごすものなのだから。あの寒い土地での日々を思えば王都、王宮、神殿、ましてこの庭は、伝承に出てくる楽園のような場所だった。


 だが、秋風を頬に受け、僅かな冷気を感じてレイが思い出すのは、自分の故郷の冬だった。それは鶴亀山と比べれば、北とはいえ遙かに温暖な地である。


 毎年雪が降り積もる頃、母は自分には冬用の毛皮を与えてはくれずいつも凍えていた。いかに奴婢とはいえ、あの頃の豫国にはそれくらいの余裕はあったはずである。厚着をしたレイの母は、娘の頭頂や肩に雪が降り積もり凍えていても、ただ指を指して笑っていただけだった。


 理由は分からなかった。どれほど凍えてしもやけが出来ても、手足の感覚がなくなってきても、母は何もせずに笑い、レイも仕方なしに笑顔を作って母を見つめた。


 母とは普段は仲が良かったし、ちゃんと食事も与えてくれた。だが、月に一度ほど、母の作った料理を食べると腹を下すことが多くなり、レイが下痢して苦しんでいると、やはり母は笑い転げていた。父はいなかった。


 後に、同じ村の親戚が母はつらいことがあって、そういう病気なのだといって教えてくれたが、守ってはくれなかった。


 巫女団の使者が村を訪ねてきたのはそんな日々の中だった。その時も冬だった。


 途端に両親の態度が一変し、まるで宝玉のように大切にしてくれた。もう、凍えることは無かったが、母が凍え苦しむ自分を笑っていた時よりも、義務的に優しく手を包んでくれたその時の方が、他人のように感じたのは何故だろう。


 片足を足首まで池につけて遊ばせていると、水紋が広がって小魚が逃げていく気配があった。


「こちらにおいででしたか」


 その声は新しい侍女長のものだった。レイがここにいることを予想していたらしく、両手で足を拭く布を抱えている。


「足を拭け」


 若い侍女長は言われるまま、跪いてレイの細く白い足首の水滴を布で包み込んで丁寧に拭き取る。レイの角度からは、東人ではあり得ない彼女の高い鼻や艶のある髪もよく見え、そこに嫉妬と羨望が入り交じった感情が沸き起こった。


 レイは当然のように手を出し、侍女長の支えで起き上がる。


 その瞬間、侍女長のナミと目が合った。相手がいくら恭しくしようとも、背がほとんど同じなため、ふとした弾みに視線が交わるのだ。ナミは礼儀としてすぐに目を伏せたが、低い声で囁いた。


「まだ、お心は変わりませんか?」


 その言葉にレイが眉間に皺を寄せたのと、無礼な侍女長をぶったのはほとんど同じだった。ナミは打たれた頬に手をやってはいたが、特にこたえていない様子で、今度はしっかりとレイの目を見てきた。


 思わず、たじろぎそうになる自分を、レイは心の中で叱咤した。


(ひるむな、これが本物の王族の眼差しだろうと、今の私が恐れる必要がどこにある)


「何度も言わせるな! 私は大巫女だ。この神殿で大神に祈っているのが役目で、私の望みなのだ。なぜ私が畏れ多くもミカドを」


「豫国を救うためです」


「そのために私は、大巫女としての役目を果たしているだろう」


「それだけでは足りません。早々にミカドを斃し、新たなるミカドを立てなければこの国は滅びます」


 捨てられた王族の娘は、自覚しているのかふと気がつけば尊大な物言いになる。レイにはその事がこの上なく癪に障った。そもそも、「ナミ」というナルと一字違いの名前自体が気に入らない。


「ミカドはすぐ死ぬさ。それよりもお前たちがやらなくてはならないのは、次のミカドを用意しておくことだろう。ミカドの王子か、王族の中から年頃の男を無理矢理にでもミカドにさせればいい。少なくとも、今のミカドよりはましだろうよ」


「では、新たなミカドとなる者を決めれば、協力してくれますか?」


「だから何故私がお前たちに手を貸さなくてはならないのだ! そういう政は、お前たち王族貴族大臣の役目だろうに!」


 話にならぬと、レイは屋根の下に戻ろうとすると、ナミも花々をかき分けてついてくる。


「もはや役目がどうのという話ではありません。確かに仰るとおり、長きにわたって栄えた豫国には、それぞれに役割が当てられ、身分も定まっています。けれど、王族貴族を中心に、次第にその役目を果たさず、特権だけを貪る者たちが増えました。そういう者たちが国を滅ぼすのです。ミカドが乱心したとしても、それを諫め、あるいは別のミカドを立てるべきだ、と言うべき者が何もしない。外の国々はどんどん強くなっている。そんな状況で、役目役割に固執するべきではありません。それに、ミカドによって地位が入れ替わったとはいえ、あなたは豫国において二番目に高い地位にあるのですよ。その上聡明であられます。ならばこの時局で、ミカドを廃して国を立て直すというのは、緊急時において当然の役目ではありませんか」


「うるさい! うるさい! うるさい! そんなこと知るものか。王族貴族が頼りにならないというのなら、お前は一体、具体的には何をしろというの。ミカドに呼びつけられた時に、殺してくれ。後先も考えずに。それこそ国が滅ぶ」


「いいえ、あなたにやってもらいたいことは二つ。一つはミカドを斃すこと。そしてもう一つは、大巫女として新たなミカドの摂政になってもらいたいのです」


 摂政という言葉に、レイは閃くように反応した。


「摂政? この私が? つまりミカドに代わって、本当に国を治めよというのか。血筋を差し置いて、そんな事が許されると思っているのか。それではまるで・・・」


「はい」


 ナミは高貴な者が持つ眼差しで、またもやレイを絶句させた。


「漢土では幾度となく繰り返されたことです。あなたが英邁であられれば、不満を言う者はいないでしょう。むしろ私はあなたに権力を振るってもらい、王都の腐敗を一掃していただきたいのです」


 秋風が部屋の中にまで入ってきて、二人の女の髪を揺らした。庭からは木々の葉が揺れる音が聞こえ、鳥が飛び立つ気配がする。一雨来そうな風だった。


 レイが沈黙していると、ナミはいささか気持ちの高ぶりが冷めたように、肩を落とした。


「もちろん、私は自分がとんでもない事を言っているのは分かっています。本当であれば、私や兄が成すべき事。けれど、もはや捨てられた私と兄に何が出来ましょうか。ああっ、そもそもどうしてミカドはあんな風になってしまったのか。私が生まれる前のミカドは、とても聡明で立派な方だったと誰もが言うのに」


 大きな瞳からは涙が零れ、雨に濡れた子猫のようになった。


 本当に何も知らないような表情に、レイは呆気にとられた。


「・・・お前は何も知らないのか。どうしてミカドがあんな風になっているのか。王族であれば誰もが知っているとばかり思っていたが」


「どういうことですか」


 レイは視線を床にやり、かつて尊敬していた大巫女の事を思い出した。


「昔・・・先代の大巫女が教えてくれた。なぜだか私だけに。私は、秘密を引き寄せる質らしい。ナミ、お前も王族だったのなら、歴代のミカドが皆、異様に長寿なのは知っているだろう。大抵はゆうに百を超えるまで生きているはずだ。だがいくら上等の物を食べ、最高の医者が付いていようと、それはおかしい。お前も不思議に思ったことはないか? 第一、ミカドの兄弟姉妹、そこから分かれる王族でも、同じような長生きの者はいないはずだ」


「それは、大神の加護のおかげだと聞いていました」


「ミカドの長寿の秘密は、辰砂しんしゃさ。あれに特殊な秘法を使うと、銀色の液体になり、それにさらに秘法を施せば不老長寿の秘薬ができあがる。ただし、これは普通の者にとってはただの毒だ。ミカドの一族はこの毒に耐性を持っていて、これが逆に長寿の効果をもたらす。私はそうサクヤ様に聞いた」


「先代の大巫女である、ミカドの姉君ですね」


 レイは赤い織物を敷いた椅子に腰を下ろし、肘を置いて足を組んだ。


「そうだ。だが今のミカドのあれは、どう考えてもその薬にやられているな。若い頃から飲んでいるだろうから、それなりには保っているということだろうが」


「何故、歴代のミカドは平気だったのに、今のミカドだけが」


「恐らく、血が薄くなってしまったのではないだろうか。私は王族のことあまり詳しくないが、きっと元々はミカドの妃は、近しい者から選ばれていたのではないかな。王族というよりも、もっと狭い範囲の」


 ナミは何か思い当たる節があるのか、顔が蒼くなった。


「それが今では貴族からも妃を迎える事もあるのだろう? そういう事を繰り返す内に、ミカドが本来備えているはずであった資質に変化が起こったのかもしれない」


 思えば、それを正すために、かつてのサクヤの恋があったのかもしれない。それはミカドの一族としての本能だったのだろうか。


 レイは遙か昔、サクヤが語ってくれた彼女の生涯の恋について思い出した。


 外では雨が降ってきた。それを受けた庭の土や池の水から、芳しい天地の恵みの香りが流れてくる。だが雨はすぐにやみ、不思議なことにすぐにまた日射しが庭を照らしていた。もう、見上げれば青く高い空が広がっているだろう。


 二人は雨が降っている間沈黙していたが、不意に外からはシンハ(獅子)の吠える声が聞こえてきた。


 その声でレイは何かを思いついたようにさっと立ち上がると、ナミに付いてくるように言って神殿の廊下に出て階段を下りていった。

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