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第八十一話 棺の中の彼女

 イワナとサルタは部下たちを下がらせると、改めて二人で向き合った。部下たちの目がなくなり、大宮内の空気はやや柔らかなものになる。


 イワナは何か思い詰めたように紫蘇茶の器の中を見つめていたが、何かを決意したように乾いた白い顔をサルタに向けた。


「サルタ様。今日は奥宮へお連れ致しましょう」


「良いのですか。ナル様のいる奥宮へは、ここへ来て以来一度も」


 つまり、サルタ将軍は鶴亀山から大麻山へ巫女団を連れてきて以来、およそ五年の間、ナルに会うことが許されなかったのだ。 


 イワナが頷き立ち上がろうすると、サルタは手を取って支え、寄り添った。毛皮を巻いて大宮を出れば、冷気がイワナの老いた身体をたちまち包む。


 深閑とした里の向こう、朝靄の中、遠くには海が輝いている。鶴亀山では到底見られなかったその景色を、イワナはしばし色素の薄くなった目を細めて眺めていた。


 なんという眩しい海だろうか。


 自分は、あの海の向こうから流れて来たのである。


 あれから数十年が経ち、もはや鶴亀山で生を全うするとばかり思っていたものなのに、何故かこの海に帰ってきてしまった。ならぱその纏向は、今は一体どのようになっているのだろうか。


 イワナはナルのいる奥宮に向かう途中、過去を思い出しながら、坂道で痩せた手を引いてくれるサルタに語りかけた。


「サルタ様、今回は五名、引き取っていただく娘が出ました」


「五名も・・・」


 サルタは小さな声で唸った。


「はい、お恥ずかしいことです。この山は私が薬草園にさせていた時代に作らせていた『暢草ちょうそう』が予想以上にあちこちで繁殖していて、今は管理が出来ないほどなのです。何度かサルタ様にも人手をお借りしましたが、次から次に生えてきて。隠れて森に入れば、簡単に手に入ってしまう有様です」


「・・・不思議ですな。身体に害を及ぼすものを、あれほど自制心の強い巫女たちが禁を破って服するとは」


「彼女たちの気持ちも分からないではないのですよ。鶴亀山でのあの事件以来、何が原因なのか、巫女たちの霊力は大きく下がりました。明日の天気でさえ、確実に当てられる者も里にはもう多くありません。暢草は用いれば不安が消えるだけでは無く、一時的に霊力を増幅する力がありますから、巫女たちも必死なのです。そもそも暢草は大神を祀るのには欠かせないものですからね。鶴亀山の里でも、私や決められた者だけは身近な薬草でした。けれどもあまり頻繁に用いれば、もう暢草無しでは生きていけなくなり、魂が人の形を保てなくなる・・・。私は誰よりその危険性を知っていたのに。私がもっと厳しく目を光らせていれば良かった。あの子たちには悪いことをしました」


 イワナは五人の娘たちの顔を思い浮かべながら、右手で顔を覆った。


「若さ、力、富、霊力。人は当たり前のように持っていた何かを失う時、特別臆病になってしまうものなのですな」


「そうかもしれません。サルタ様、今回も娘たちのその後の世話をよろしくお願い致します」


 サルタ将軍は立ち止まり、おませか下さいと言って頭を下げた。


「しかし、そうなると巫女の数がますます減ってしまいますな」


「ええ、あの事件で多くの巫女が命を失い、今や巫女団は百名おりません。以前のように、豫国中から集めることが出来ないのですから仕方ないとはいえ、これは由々しき事態です」


 イワナはコウゾ邦でも素質ある者を集めるように命じていたが、今まで見つかった数はわずかである。コウゾ邦の人の数から考えれば、異常に少なすぎた。


 もしや、今、コウゾ邦のみならず、豫国全体で巫女の力を持つ娘が生まれなくなっているのではないだろうか。巫女団の巫女たちがあの事件を境に霊力を失ったように、今、この豫国にそのような呪いがかけられているのではないか。イワナは自分の思いつきに寒気がして、両手を固く結んだ。 


 潮を含んだ強い風が流れ、イワナがよろめきそうになると、サルタ将軍は老いた母をかばうように自らが盾になって風を受け、守ってくれた。


 イワナは改めて将軍の貫禄のある背中を見上げた。心優しくも強い男だと思った。


 どうしてこの男は、さっさと新たなミカドとして立たないのであろうか。もはや王都のミカドが乱心していることは疑う余地が無く、その理由もよく分かっている。このまま放っておけば、呪いの反動で土地は荒れ、民は苦しみ、そうこうしているうちに外の侵略を受けて国は滅ぶだろう。この窮地を救えるのは、サルタ将軍をおいて他にはいないというのに。


 これほど王族の特権を慎み、慕われ、大巫女と巫女団を救うためミカドに反旗を翻すほどの胆力のある男はそうはいない。そんな男が、何をためらっているというのだろうか。


 思えば、ナルもサルタ将軍をミカドへと薦めてはいたが、サルタが断るとそれ以上は強くは言わなかった。もしやナルにも、何か思うところがあったのだろうか。


 それはサルタ将軍がこの年になっても妻の一人も持っていないと言うことと関係があるのかもしれない。


 大麻山の奥宮は、大宮からさらに山頂に近い岩場に作られていた。さほど大きくも無く、鶴亀山で幹部が使っていたほどの宮である。


 大巫女であるナルは、ここに籠もっておよそ五年も、イワナのような大幹部以外と会うことは無かった。表に立ってサルタと連絡を取り合い、巫女団の一切を差配するのはすべてイワナであった。


 それ故、一部の巫女やサルタの部下などは、もしや大巫女はすでにお隠れになっており、新しい大巫女が見つからないためにそれを隠しているのではという噂さえ立っていたほどである。


 顔には出さないものの、サルタ将軍であっても不安を覚えていないはずが無かった。


「イワナ様、ここにナル様が」


 奥宮を見上げるサルタにイワナは応えず、風にすぐ消える白い息を吐きながら、そのまま宮へと続く檜の階段を上った。


 宮の中に入ると、尋常ならざる霊気が二人を迎え鳥肌を立たせた。まるで得体の知れない巨大な何かが、宮の奥で息をしながらこちらを見ているような尋常ではない威圧感である。


 イワナはそれを超克しようとするように、大きく息を吸い込む。


「おおっ」


 初めて奥宮に足を踏み入れたサルタは、思わず声を上げ巨体を震わせた。


 宮の奥、本来ならば大巫女が座っているだろう薄絹が垂らされたその場所に、木の棺がある。


 蓋はされていない。しかし。


 サルタはイワナの存在も忘れて駆け寄り、太い指を震わせながら恐る恐る棺の中を覗いた。


 すると中には色とりどりの椿の中に埋もれ、眠るように瞼を閉じているナルの姿があった。輝く白い顔は皮膚の色では無く、まるで内から薄く発光しているようである。白玉のようなこの虹の輝きは一体。


「一体これはどういうことか! イワナ様、ナル様はすでに!!」


「落ち着きなさい。将軍、ナル様はまだご存命です」


 水をかけるようにぴしゃりと言うと、イワナも衣の裾を擦って静かに棺の側へと進みでた。 


 棺の縁に愛おしむようにそっと手を置き、鋭い横目をサルタに向けた。


「サルタ将軍。ナル様は今、その御身に大神を降ろしておられます」


「お、大神を・・・・。一体どういうことですか」


「六年前、私たちは鶴亀山を追われ、あなたの助けを受けてこの山に来ました。しかし、この山に、大神を宿らすことは出来なかったのです。鶴亀山からここまでは、御箱の中の鏡に大神を宿らせていましたが、それも長くは持ちませんでした。御箱の鏡は次第にその輝きを失い、大神はまた遙かなる高みへ戻られようとしました」


「しかしイワナ様。大神というのは、鶴亀山においても、常に鏡に宿っているという存在では無いはず。私は御箱の鏡は本来「契約の証」であったと教えられました。依り代の役目はむしろ・・・」


「ええ、そうです。本来であれば、大神は天に在しますもの。常に地上には在るものではありません。しかしそれでも巫女は大神と通じることが出来ますし、儀式の際などに、依り代を用意してお迎えするのが本当です。そういう時に、御箱の鏡を使いました。先代のサクヤ様であっても、その身に大神を降ろすという大業をしたことは生涯において、私の知る限り三度だけでした。しかもそれは儀式の際のわずかな時間だけ。それ以上大神をその身に降ろす、宿すというのは畏れ多く、また大変な危険と苦しみを伴うものだからです。とうてい常人では堪えられるものではありません。それはナル様とて同じ。しかし、今、大神を返せぬ理由があります」 


「それは一体」


「王都の巫女は、神殿で聖杖を使い、大神に接触しています。その力で呪詛を行っていることはサルタ様もご存じですね。その反動で、各地で災厄が降り注いでいることも。あれが、天にわずかに残っている大神のほんの一部の力だとしたら?」


「な、なんと」


「もしナル様が今、大神の核を天へと返せば、王都の巫女が接触できる大神の力が強く、いえ広くなります。その力で呪詛を行えば、まさに国を滅ぼすほどのものになるでしょう。ええ、そうです。認めたくないことですが、王都の巫女の力も、聖杖の呪詛の力もそれほど強いのです。ですからナル様は、我が身と勾玉を依り代に、大神を地上に留めているのです。それも五年の間ずっと」


 目を開いて震え、今にも膝をついて慟哭しそうなサルタを前に、イワナもまた震えた。 


 なんという信じられない荒技だろうか。五年前から頭では分かっていても、ひとたび口に出すと途端に信じられないという気持ちが大波のようにやってくる。神として迎えられたナムチの宿る纏向至宝の勾玉、それがあったとしてもこのような事はサクヤにすら到底出来なかった業である。




 なんという才能。


 なんとういう精神力。


 なんという孤独なのだろうか。


 それを考えるたびに、イワナは途方もない大海に放り込まれたような気分になる。




「つ、つまり、これは綱引きのようなものですな。ナル様は綱が向こうに渡らないように、この五年御身を犠牲にしていると」


「その通りです。聖杖を使う王都の巫女も、薄々この事に気づいているかもしれません。大神の核を天へと帰し、より広く深く接触し、力を引き出すために『引き戻す』方法を考え出すかもしれない」


「ああ・・・そのようなことになれば・・・」


 サルタはいよいよその場に膝をつき、真っ青になった顔を両手で包んだ。しかしイワナは衣を翻し、将軍を見下ろして、容赦なく吠えた。


「サルタ将軍も、あの日の鶴亀山の有様を覚えているでしょう。一瞬でこの地をあのように変えてしまうほどの存在を、ナルはその身に留めているのです。大神の御稜威だけでは無く、罪も穢れも一身に受けて。それが大巫女の役目だと信じて。今それを知ってもまだ、あなたはお心が決まりませんか。サルタ様。ミカドの王子として、あなたもその役目を果たすべきでしょう。例え親殺しをしても、この国を、豫国の民と土地を救いなさい!」


 それは巫女団の大幹部では無く、まるで我が子を救ってくれと怒る母の顔だ。サルタ将軍は滂沱しながらそう思った。

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