私の人生は秘密ばかりだ。いつもいつも、秘密ばかりが積み重なっていく。大巫女の秘密もミカドの秘密も、巫女団の秘密もこの国の秘密も次から次へと自分のところに転がり込んでくる。そして自分の秘密も増えていく。
女はそんなことを思いながら、綿を詰められた極上の絹の寝床に横たわり、幾重にも重なる紗の天蓋の下、器に山ほど盛られた白玉(真珠)を一つ指でつまみ眺めていた。窓の外には肥えた月があり、その月と白玉を重ねれば自分は月をも手に入れたような気分になった。
ミカドや貴族の鮑玉(鮑の真珠)に対して、白玉(アコヤ貝の真珠)は高位の巫女の証である。巫女団の上級幹部でさえ、やっと数粒身につけられるほど貴重で権威のある物だった。それを今や女はいくらでも身につけることが出来る地位にある。
ミカドの弟の娘。領地の屋敷の奥で宝玉のように大切に育てられ、その優れた巫女としての素質から、王宮内に新たに建てられた神殿の、新たな大巫女に選ばれたというのが女の与えられた経歴だった。
女は器を返して無数の白玉を床にばらまくと、軽く笑ってその後に深く息を吸った。
大巫女。それは巫女の長であり、この国の頂点。その頂に、自分はたどり着いたのだ。姫君が眠るようなこの寝台や寝具も、厚い極上の絹も何百もの侍女や僕もすべて自分の物である。王都に建てられた神殿は自分の城。ひとたび部屋を出れば、どんな大貴族だろうと誰もが自分に頭を垂れる。下々の者は直視することも許されず、自分の一言で命を失う。
女から熱い吐息が漏れる。
これが権力なのだ。
もう五年この地位にいるが、その興奮は未だ冷めない。
女がいつもの様に胸を高鳴らせていると、部屋の中に冷たい鈴の音が鳴り響いた。侍女が入室する際の合図である。女はその音で、夢から引き戻されたかのように頭が冴えてきた。
「お入り」
姿を見せたのは馴染みの侍女長だった。年はそれほどいっていないが、頬骨が高く手足の細い骨張った女である。
「レイ様。深夜に申し訳ございません。ミカドがお呼びでございます」
またか、と大巫女はうんざりした。しかしまさか無視するわけにもいかない。自分が今の地位にあるのは、ひとえにミカドのおかげなのだから。
「すぐ行く。着替えの用意を手伝いなさい」
十数人の侍女たちを従え早足で神殿を出、巨大な石造りの王殿まで辿りつくと、入り口や石の階段を上った王の寝所までには幾つもの炬火と柱、幾人もの屈強な兵が構え立っていた。夜警の兵たちは大巫女の姿を見ると、姿勢を正して頭を垂れる。
これに快感を覚えながらも、レイは彼らのつむじを軽蔑した目で見やった。
高い上背、重い鎧とその隙間から見える筋肉。彼らが肉体を鍛え上げた優れた戦士である事には異論は無い。だが、彼らには誰一人として実戦の経験が無いのである。なにしろ豫国は数百年に渡りこの地で平和に過ごしてきた。内乱も起きず、侵略者もいなかった。そんな国の兵など、有事にどれほど役に立つというのだろうか。
現に、彼らが東のコウゾ邦に侵攻しないのは、周辺諸国を警戒しているだけの話ではあるまい。早い話が、実戦能力に自信が無いから、ミカドもヤクサ将軍も思いきった指示を出せずにいるのだ。だからあのように、ナルをおとしめる噂を広め、信用と権威を落とすという策に出ている。
数百年、鶴亀の里で巫女たちが人生を捧げ、その裏で血を流してきたというのに、なんという腑抜けたちだろう。いっそ、死人が出るほどの演習を行っていれば良かったのだ。
薄暗い廊下の先から独特の香の匂いがすると、王の部屋はすぐそこである。レイは侍女たちを留まらせ、一人だけで入室した。
天井が驚くほど高く、部屋は燭台の灯りで昼間のように明るい。床は石だが、赤い織物が敷かれてあり冷たさは感じなかった。
窓の外からは広大な屋上庭園の池の水音や鳥の囀りが聞こえてくる。
「ミカド、私をお呼びでございますか」
黄金が縁取られた豪奢な寝台に目をやると、そこには気味が悪いほどに痩せた男が背を綿詰めの枕に預けて横になっていた。まるで死人のように顔は青白く、指先は震え、目だけが大きくなって爛々と輝いている。明らかに健康な状態ではない。
むせかえるほど香草が強く焚かれているのは、彼の体臭を隠すためでもあるのだろう。
ミカドはレイの姿に気がつくと、指を震わせ、今も飛びかかりそうな勢いで話を始めた。
「おおっ、来たか。それで・・・呪詛はうまく行ったか? 倭国王は? ナルという女は?」
「残念ながらミカド、うまく行っておりません。昨日も申し上げたとおり、他の国々とは違って倭国では王族の真の名を隠すという風習がございます。そのため、呪詛をする際に相手を定めづらく、行った際にも力が半減してしまうのです。そこに倭国の巫女が守りを固めているわけですから、そう簡単にはいきません。名前さえ分かれば、半島の金首露のように簡単に殺すことが出来るのですがね」
このような答えは毎日のように繰り返している。だが、今のミカドにはそんなことは覚えてもいないのだろう。小刻みに身体を震わせながら、そうかそうかと頷いている。その様は、まるで幼子のようでもあった。
まったく、とレイは思う。まだ五年前は普通の会話も出来ていたものなのに。
そもそも本当に、今でも倭国王が倭国の実権を握っているのだろうか。ミカドはそう信じて疑わないが、その情報は随分と昔のものである。いまや漢の皇帝が形ばかりで、実権は有力な臣下が握っているという。豫国とは違い、不安定な国の権力というのは、流動するものなのだ。ならばここ十年で勢力を一気に拡大した倭国もそうでないとどうしていえるのだろうか。
豫国が君臨していた数百年の間に、男たちはもっと各地に諜者を送っておくべきだった。戦うためでは無いにしても、もっと各地の情勢や地形を把握しておくべきだったのだ。それが政を任されている物として当然の戦略では無いのか。
せめて、もし十一年前にククリが倭国に渡った際に諜者を一緒に送り込んでいれば、事は遙かに容易だったのに。大神の力の下に呪詛を行えば、それをまともに食らった者はまず命がない。かつて、先代の大巫女であるサクヤが出雲のスサノオ王をはじめ、各地の王をいともたやすく殺したように。
「で、では、ナルはどうなのだ。あの、大巫女を騙る邪悪な巫女は。あの者の名は分かっているだろうに。お前はどうしてあの女を殺せないのだ」
「私があの者より劣っているとお考えですか。そんなことは決してありません。それは今までの実績を見ていただいてもお分かりのはず。五年前、漢土の長江の大戦で、中原の趨勢は決まるはずでした。ですがそれは豫国の脅威ともなります。私が疫病を流行らせ、風を起こし、戦いを乱した結果、漢土はいまだ戦乱の中にあるのです。東の巫女にそんなことが出来ましょうか。あの落ちこぼれのナルに、出来るはずがないでしょう。とはいえ、旧巫女団の残党は御箱を持っております。それを奉じて霊山である大麻山に籠もられては、私も手出しが出来ません」
「そ、そうだ。御箱だ。あれを、あれを取り戻さなくてはならぬ」
御箱とは遙かな昔、父祖たちが大神と契約した際に賜った聖なる鏡を収めた箱のことである。あれこそが鶴亀山に宿る前の大神が、祖父たちの長い旅の間に宿っていた至宝であった。
「その通りです。いくらこちらにはミカドの証たる聖杖があろうとも、大巫女の証はあの御箱です。ミカドが真の頂点に立つためには、あれを、奪還せねばなりません。もし、ナルが御箱の権威の下に、サルタ将軍をミカドに立てれば事態はさらに混迷を極めましょう。早急にコウゾ邦を討ち、御箱を奪還するのです」
「し、しかし。今、兵が大きく動けば、一時的に国は弱体化し、倭国に攻められる恐れがあるのだ。大臣たちもそれを心配しておる」
「そんなことは有り得ません。倭国は今、大陸の方に目が向いています。それに倭国の大巫女と言われているククリは、この豫国の出身ですよ。理由も無しに、わざわざ自分の故国を攻めようなどとは思わないはず」
レイは目を細め、拳を握りしめた。この五年、一体何度このようなやりとりを繰り返してきたことか。まさかミカドはそれすらも忘れてしまっているというのだろうか。レイは灯りに照らされたミカドの横顔を見る。頬はこけ、皺がまた増えている。
だれかこの機に乗じてミカドの後を襲おうとする野心を持った王族はいないのか。
「分かった・・・考えておこう。だから、今夜ももう一度大神に祈るが良い。準備はしてある」
「しかし、今夜はもうすでに」
「もう一度するのだ! いいか、お前の今の立場があるのは儂のおかげだと言うことを忘れるな。里から逃げてきたお前を拾い、過去を隠し、王族の養女にして大巫女にまでしてやったのは、この儂だ。決して逆らうな。お前の変わりなどいくらでもいるのだ」
ミカドが老いた蛇のような目で命じると、レイは断ることが出来なかった。
王宮内に新築された神殿は、王殿と同じく石造りの壮大な建物だった。鶴亀山の巫女の里のものとは造りも全く違う趣のもので、これは父祖たちの故地のものらしい。高い天井とそれを支える太い何本もの石柱、入り口へと続く長い石階段。巫女の里の建物が木の神殿ならばまさにここは石の神殿。敷地や高台のあちこち作られた花々咲き乱れる小庭園は、まるで別世界のようである。
松明の明かりの中、花の香りが流れてくる。ひサラらと待っている影は美しい揚羽たちだった。
「他の巫女たちも起こしましょうか?」
侍女長が耳元でささやくと、気持ちの昂ぶっていたレイは即座に断った。
「いや、私一人でやる。お前と夜警の者以外は休んで良い。祈りの間へは、誰も通すな」
神殿の最奥、祈りの間には聖杖が静かに安置されている。遙かな昔、大神から与えられ、数々の奇跡を起こしたとされる聖なる杖であった。本来ミカドの証である神器だったが、御箱に代わって大神の依り代とするために、神殿で祀られることになっている。
レイは祭壇に捧げられたいくつもの子宮を後にして、聖杖の祀られた石階段をあがり、その至尊の杖を握りしめた。
「偉大なる大神よ。我らが敵に神罰を。倭国王に死を! 東の巫女ナルに死を!」
(もうミカドはだめだ。じきあの男は死ぬだろう。大臣たちも屑ばかりで何の役にも立たない。もはや豫国の没落は避けられない。だから私が国を救うのだ。倭国も出雲も吉備も纏向も、半島や大陸の国々も全てを呪って滅ぼしてやる。後に豫国さえ残れば良い。呪詛の反動でどれだけ天災が起きようとも、天からの黒い稲妻で村や町が消えようとも、川が血に染まろうと、蝗が作物を食らおうとも、国が滅びなければそれで良いのだ。全てが滅びた後に私たちだけが生き残る。この豫国が。東の巫女よ、伊国と呼ばれる土地の巫女ナルよ。感じているか? 私はこうして生きている。私はお前には決して負けない。例えお前が御箱におさまる鏡のもと大神と繋がろうとも、私もまたこの聖杖で繋がっている。大神は応えてくれる。この闇も全て大神の一部なのだ)