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第七十二話 受け継がれるもの

 空はまさに雲一つ無い晴天であった。


夏の清らかな朝日は、日天を祀る倭国の大王とその軍兵を照らすのにこの上なく相応しい。

 平野の東西にはそれぞれ帥大と帥響の兵たちが、半島と出雲、各々の地で作り出した鉄の武具を纏い布陣している。両軍の鉄武具は形こそ微妙な差異があるとはいえ、黒く光るそれらは紛れもなく最新鋭の武器であった。

 鉄の兜のその先に、鷹の羽を飾っているのが帥大、雉の羽を飾っているのが帥響の軍兵だった。いくつもの戦を勝ち抜いてきた彼らは、やや冷たい風を直立不動で受け、頭の羽根飾りと軍旗だけが芒のようになびいていた。

 両軍が布陣する中央に、金色に輝く青銅器の武具を纏った一団が、倭国大王の部隊である。青銅器の武具と言えば、もはや祭器としての用途がほとんどであるが、それをこの戦場で纏っているというのは大きな意味があるのだろう。左右の黒い大軍に挟まれ、中央で旭の輝きをまるで自らに取り込み、光輝を増幅させて射光している様は、まさに地上の大日だった。  

 その様に鉄武具を纏った半島や出雲の兵も、畏怖し戦かずにはいられなかった。輿に座する大王からは、剣や矛といった武器とはまた別の、従わずにはいられない御稜威を感じるのだ。

 そんな中、大王の部隊の前方に布陣している女たちの部隊があった。彼女たちは皆白い衣を着ており、額を中心にいくつもの目を模した刺青がされている。武器も防具も持っておらず、軍兵の最前線並んで、ひたすら山門国の方を狂ったように睨んでいた。


「あれは」


 楼観(物見の高殿)で迫り来る軍兵を見ていたハヤヒは、目を細めると呟くように言った。


「あまり見てはいけません。倭国式の戦の作法ですよ。ああやって、巫女の邪視で敵に呪いをかけてから戦いをはじめるのだそうですわ。もっとも、ククリ様をはじめ、私たちのいるこの地にとっては、さほどの影響を与える事も出来ますまいが。いわば、警告のようなものでしょう。誰か、邪視避けの鏡をいくつか吊しておきなさい!」


 ミソノの言葉を聞きながら、ハヤヒは彼女たちの今後の事を考えた。巫女の素質のある女たちは、倭国では卑しく扱われ、このように戦の最前線にもかり出される。そしていざ戦が始まれば、彼女たちは最初に命を奪われる事になる。恐らく、ミソノが拳を握りしめた理由もそれだろう。同じ巫女として、そのように扱われる彼女たちに、自分を重ねているに違いなかった。

 稀代の巫女を母に持ち、巫女の国で育ったハヤヒも同じような胸の痛みを感じていると、激しく楼観を駆け上がる武具の音が聞こえた。

 現れた髭面の男はマルタで、本来は倭国からアワギハラの監視を命じられていた部隊長だった。そして、現在は山門の国の将軍であり、ミソノの良人でもある。


「申し上げます。すでに配置してあった部隊は全滅しております。ハヤヒ様のおかれましても、速やかにここから撤退下さい」


「民の退去はどうなっている?」


 ハヤヒが返事をせずに問うと、片膝をついていたマルタは面を上げた。


「それが、あまり進んでおりません。南の熊襲の土地に逃げれば、ひとまずは安全だと言い聞かせているのですが・・・。皆、ここに残って戦うという者が多いのです」


「無理もありませんわ。皆、この地で捨てられ、この地を育ててきた者たちですもの。それに熊襲とて完全に信用できるわけではありません。熊襲王は受け入れの約束はしたものの、この軍勢を見てどう判断するか。」


 良人の横に立ち、ミソノは遠くに靡いている無数の羽根飾りと軍旗を見やった。

 知らせで軍兵の数を聞いてはいたものの、いざ目の前に迫る軍兵の迫力は鋼の意志をも砕くようである。熊襲王のクマギはククリの義弟であり、ハヤヒの叔父でもあったが、統率者の立場を考えれば、自分たちを見捨てるという事は十分にあり得た。

 ハヤヒは大きく朝の空気を吸い込むと、なにかを決意したように無言で阿蘇の方を見た。


「残念だけれど、母上は間に合わなかったね。こうなっては仕方が無い。私が大王に首を差し出せば、最悪でも山門に暮らす民の命は守れるだろう」


「それはなりません!」


夫婦は揃って叫んだ。


「もしやそんな事をお考えではと案じていましたけれど、あなたがそんな事をすれば、私はククリ様に合わす顔がありません」


「いやミソノ、本当はこれが一番良いのだと思う。この地の民たちが私や母上を慕ってくれるのは、知識や技術のある私たちが彼らを助け、導いていたからだろう? 彼らが必要としてくれたから、私はこの地で王子でいられたんだ。倭国王と熊襲王の血を引き 熊襲で生まれ、豫国の母に育てられ、熊襲と半島と漢土で育った本当に何者かも分からないこの私を。だが今は、逆に私の存在が彼らの身を危険にしている。倭国大王が目障りなのは私だ。私さえいなくなれば、この地の人々は安泰なんだ。王のために民があるんじゃない。民のため王があるんだ」


 そういうハヤヒの眼差しは、この空のように澄んでいた。


「そ、そんな事はございません。この地は元々倭国と熊襲の最前線なのです。例えハヤヒ様が大王に下られたとしても、またここは不安定な火薬庫となりましょう。この地に平穏をもたらす事が出来るのは、倭国大王と熊襲王に認められたあなただけなのです」


「しかし、大王は約束を反故にして、私を認めまい」


 平野に竹法螺と太鼓の音が鳴り響いたのは、ハヤヒが彼方の倭国大王の輿を睨んだその時だった。

 青銅の鎧兜を身につけた男が、土埃を上げながら単騎で楼観前の門前へと迫ってきた。男は一度竹法螺を吹くと、楼観が揺れるような大声で大王からの用件を伝えた。それは、この平野に集結した軍兵の大義であった。


『自らを倭国太子帥大の御子と偽り、熊襲と結び、神聖なる倭国の地であるアワギハラを占領しているハヤヒとその母ククリ。お前たちは天下の大罪人である。即刻、我に下りその罪を命を持って償うが良い』


 十分想像していたことではあった。あの砦で倭国大王と会った瞬間、油断がならない人物だと悟った。倭国の兵が集められていると知ってから、こうなることは自分もククリも分かっていたのだ。だからこそ、ククリは神の加護を求めて阿蘇へと行き、熊襲の叔父の援助も取り付けた。数年前に熊襲王として実権を握ったクマギは、ククリとハヤヒを同族として扱ってくれる。倭国の軍兵と全面戦争をするつもりは無いとしても、領域内に逃げ込めば保護してくれることは間違いの無いことだった。

 だが、もしこのまま、倭国の軍兵が勢いに乗じて、自分の首を求めて熊襲の領内へなだれ込んでくるとすればどうだろうか。熊襲も数は多いが、倭国から見れば今や彼らの武具のほとんどは旧式である。ぶつかり合えばまず勝てはしない。叔父のクマギも、熊襲王として一族は滅ぼすことは出来ないだろう。

 ハヤヒは目を閉じ、雲無き蒼穹を仰いだ。一体自分の人生とは何だったのだろうか。この身には仇敵同士の血が流れ、母は異国の巫女であり乳母は亡国の公主、半島と漢土で育ちながら、この地で倭国の王子を名乗る自分は一体何者だったのだろう。

 せめて、その答えを知りたかったが、もうその時間は無いようである。

 眼前の将である父にはいささかの興味も無い。だがもう一度、母に会いたかった。どうか母は、半島か漢土、あるいは故郷の豫国へ逃げて欲しい。


「マルタ、今から言うことを、使者に伝えよ。私が・・・・」


 そこまで言いかけて、ハヤヒは頭の中で何かが伝わってきたのに気がついた。それは具体的な情報では無い。だが、自分が一体何をすべきなのかは、その一瞬で全てが分かってしまった。

 ハヤヒはその事に驚きつつも、心は凪いだ海のように安らかだった。

 その様子を見て、ミソノはかつての古里を思い出し、今何が起こったのかに気づいて、信じられないという顔になった。


「もしや、ハヤヒ様・・・あなたも」


 老いた巫女は、やはりこの王子はククリの息子なのだと熱い涙を流した。

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