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第六十七話 楽浪国の公主

 同じ頃、アワギハラから山門国と名を変えた土地の大宮で、一人の老婆が死の床についていた。呼吸は眠る赤子のように安らかで正確であり、その顔にも苦痛の色は少しも無かったが、彼女の余命が幾ばくも無い事はその老いた姿を見ればよくわかった。皺とたるみで目鼻はほとんど見えず、白い髪も皮膚が見えるほどに薄くなっており、食事もとれず顔も手もいまや骨と皮だけである。生気という生気が全て抜けてしまい、虚空をうつろに見る様は、すでに亡者のようでもあった。

 それでも彼女をよく知る者がいれば、今まで生きていたのが不思議なくらいと思うだろう。彼女の齢はすでに百をゆうに超えているのだから。

 彼女の看病をしていたククリは、今にも崩れさりそうな手を握ったが、彼女は返す力を持ってはいないようだった。

 今夜が峠だろうと、ククリは覚悟を決めていた。もはやサラ婆はどんな霊薬も効きはしない。まさに天寿なのだ。

 すでにハヤヒもミソノも、百年をはるかに超えて生きたこの偉大な女性に、最後の言葉を言ってある。今、この場にいるのは、サラ婆と最期を看取ろうとするククリだけであった。


「お父様・・・お母様・・・サラはもうすぐそちらに参りまする・・・どうか、お許し下さい。この裏切り者をお許し下さいませ」


 サラ婆は急にうなされ、しわがれた故地の言葉でそう呟いた。目尻には熱い涙が伝っている。

 するとなんと不思議な事だろう。老婆は、一瞬にして百年の時を超えた光景の中で立っていた。

 青い空に鳥がさえずり花は咲き乱れ、肥えた大地に兎が駆け回り、港には船が行き交い、漢との交易も盛んで人々は誰もが安楽に暮らしていた在りし日の故国である。

自分が生まれた王城よりも、サラ婆にはなぜかその光景が懐かしかった。全ては、高句麗に攻め滅ぼされる前のものである。

 そして気がつけば、冷たい風の吹く寂れた丘に立っていた。そこは両親、龍と亀の刺繍のされた衣を纏った楽浪国の王と王妃の姿がある。これは幻かと思いながらも、サラ婆は涙を流してその場に跪き、額を地にこすりつけた。


『お父様、お母様、申し訳ありません。私は、お二人と民を裏切り、国を滅ぼしました』


『公主、顔を上げよ』


 紛れもない父の声に顔を上げた時、サラは十七の麗しい娘姿に戻っていた。とうに忘れていたと思われた父の顔を、しっかりと覚えていた事にまた涙が零れる。


『お父様! お会いしとうございました。私は、私は、なんということをしてしまったのでしょう。恋に惑わされ、神宝を壊し、敵を招き入れてしまいました。楽浪国が滅びたのは全て私のせいです』


 再び額を地に着けるサラに、髪と眉の濃い、いかにも優しげな眼差しの王は手を差し伸べる。


『もう済んだ事である。そしてお前も十分に苦しんだであろう』


『いいえ、いいえ、私など。私だけが生き延びてしまいました。男に狂って、慕ってくれた人々を裏切って、罪を犯し、皆が苦しんでる中、自分だけが逃げてしまったのです』


『違うますよ。あなたは誰よりも苦しみました。全ては高句麗の王と、王子の策略だったのです。それに、あなたをそのようにしてしまったのは、私たちが原因でもあるのです。この子は国を滅ぼすという巫覡の予言に惑わされて、人の目を気にして王宮に閉じ込め、お前に愛を注げなかった。お前を孤独にしてしまったのは、私たちの責任だわ』


『お母様』


『お前のその孤独に高句麗王と王子がつけ込んだ。王子を送り込み、お前を惚れさせて国を守る神宝を壊させた。お前は、王子の愛がほしかったのね』


『私が愚かでございました。結局、そんなものは手に入らず、国だけが滅びました。巫覡の予言は当たっていたのです。私は呪われた公主だったのです』


『例えそうでも、私たちはお前に愛を注ぐべきでした。今なら分かります。巫覡の予言がどうあれ、お前を愛し抜く事こそ、楽浪を救うたった一つの方法だったのです。私たちが間違えたのです。国を滅ぼすほどの孤独を、お前に植え付けてしまったのですから』


 サラは母の言葉にただ慟哭して、顔を伏せた。すると楽浪王である崔理チェリは、娘である崔沙羅チェ・サガを抱き寄せた。


『泣くな。お前はあの娘を見つけたではないか』


 サラは零れる涙を絹の袖で拭き、鼻を啜った。


『はい、確かに私は百年以上待って、ようやくあの娘と出会えました。私と同じく、亡国大禍の星、国を滅ぼす運命にある娘と。あの子に、私と同じ道は決して歩ませません。あの子を救い導き、運命に打ち勝たせる事こそ、私の贖罪なのです』


『その通りです。けれどもあの子は、強い子ね。あなたのもとにたどり着くまでに、豫国滅亡に立ち会う最後の大巫女の運命を、妹を残し倭国に来る事で回避した。あの子はすでに、一度国を救っている。そして自らも死の運命を変えました』


『そうでございます。お母様。ククリは私とは比べものにならないほど、強い女子なのです。私は、そのことが自分のことのように嬉しい。あの子ならば、必ずや、私がこの地に来た真の目的を果たせます。決して滅びる事の無い、いつまでも民が安らかに暮らせる、そんな幻のような、無窮の国をつくってくれるでしょう。私の心は、今、とても安らかでございます』


「サラ婆、大丈夫か。私だ、ククリだ」


 ククリがそう言ってサラ婆の手を握りしめると、一瞬びくっと震え、視線を左右させ、それから再び意識と目の焦点が定まったようにククリの顔を見上げた。


「ククリ・・・・ここは、どこかえ」


「アワギハラだ。山門という新しい名になった私たちの国だ」


 しばしの間の後、サラ婆はああそうかと言って、微笑んだような吐息を漏らした。


「ククリや・・・どうかよくお聞き。これが最後なのは、お互い分かっているのだから」


 ククリは背筋を伸ばし、サラ婆の輪郭だけでもつかめるように、息がかかるほどに顔を近づけた。


「お前、また鳥となって倭国の太子に会おうとしただろう。それは、いけない。駄目だよ」


「違うよ、サラ婆。私はハヤヒのために」


「違わぬよ。お前はまだあの男が忘れられないのだ。人から、愛をもらう事を諦められない。愛を与える幸せを知っているのに。お前の心の空しさと飢えは、ハヤヒが癒やしてくれたと思っていたが、やはり人というのは空しいものだね」


 愛、という言葉に、ククリの胸は熱くなった。


「サラ婆・・・私には、よく分からないよ。もっと別の話をしようよ」


「儂にはよくわかるさ。さあ、ククリ。儂の最後の告白をきいてくれ。儂の身の上はもう話したね」


 ククリは静かに頷いた。サラ婆が実は滅びた国の公主(王女)であった事は、彼女とハヤヒともに半島に渡った時に話してくれていた。

 かつて、百年以上前に半島で漢から独立し、それからわずか七年で高句麗に滅ぼされた夢幻の国楽浪。楽浪公主、雀沙羅チェ・サガが、サラ婆の過去であった。漢よりはるか以前の王朝、殷とも関わりの深いその国の悲劇の物語は、今でも半島で語り継がれているという。とうの昔に滅び、いまでは再び漢の領土となった故地で、サラ婆は冷たい風を受けながら、自分の生い立ちと、故郷が滅ぶ様を語ってくれた。


『国を滅ぼされた民は、誠に惨めじゃ。生きながら、何度も殺されているようなものじゃ。かつて豊かに暮らしていた人々が奴婢とされ、勝者によって男は荒れ地で死ぬまで働かされ、女はなぶられ殺される。土地を奪われ尊厳を踏みにじられ、果てなく流浪する様はこの世の終わりじゃった・・・・若い儂は、公主でありながら、そこから逃げた。虐げられる民をみとうはなかった。つらい事もたくさんあった。じゃが、儂が今日まで生きてきたのは、もう一度、お前はあの光景を見なければならないと、天が言ってるのかもしれない』


 その言葉をきっかけに、ククリたちは朝鮮半島から山東半島に渡ったのだった。

 漢土の荒廃は凄まじかった。街は建物一つとっても、倭国や熊襲よりも比較にならないほど高度な技術で造られており、規模は豫国のそれとほぼ同じである。だが、それらは朽ちており、かつての栄華を偲ばせるだけだった。

 ひとたび田畑に目をやれば、痩せ衰えた農夫が青草さえ無い荒れた地に座り込み、口を開けただ空を見上げていた。略奪と飢えに絶望した農夫たちは、そのまま死んでいくのだという。たいてい側には乳飲み子を抱えた女と泣き叫ぶ女がいて、静かなのはしなびた目顔で我が子を埋葬する女だった。そして彼らもまたその場所で朽ちていく。そんな光景を、ハヤヒがククリの目となって語ってくれた。

サラ婆は息を整えると、意を決したように口を開いた。


「お前についぞ言えなかった事がある。儂はな、国を滅ぼした。自らの国を高句麗に売ったのだ」


「なんだって」


「当時、貧しい北国だった、高句麗の王は豊かな楽浪の地を狙っておった。高句麗の兵は精鋭で名高かったが、楽浪には外敵の侵入を許さぬ神宝の不思議な太鼓があってな、それが楽浪を守っていた。その太鼓があるかぎり、楽浪は安泰じゃった。それを儂が・・・破り壊した」


「どうして・・そんな事を」


「儂は、高句麗の王子と婚約していたのさ。心から愛していた。いや、王子からの愛を求めていた。いつか国を滅ぼすと言われ、疎まれながら育った儂は、それほど愛というものに飢えていた。あの孤独を埋めるもの、そのためなら何だってしようと思った。それが愛だと思っていた。全ては高句麗王の罠であり、騙されている事に気づいても、儂はそう思った。今でも覚えているよ、儂が太鼓を壊した途端、攻め込んでくる高句麗の兵たち、捕らわれ殺される両親と楽浪の民・・・。儂は、男に狂って愛を求めて国を滅ぼした。わしが愛の先にあると信じていたもの、それはなんじゃったのだろう」


 幻か、とサラ婆の震える声を聞きながら、ククリはどうして今そんな事を話すのだろうという気になった。


「実はな、儂はお前の太占に、儂と同じ未来を感じていた。そう、お前は儂と同じく、国を滅ぼす亡国大禍の星を背負っておる」


「嘘だ・・・嘘だろうそんな事」


「いや、真実じゃ。じゃから、お前が帥大を忘れられないと知るたびに恐ろしかった。お前も、ここまで聞けば思い描く事が出来よう。腐敗した豫国の大巫女となるはずだった女、あるいは帥大の愛ほしさに、全てを滅ぼしてしまう愚かな女の未来を。それはかつての儂じゃ。百年以上生きて、また自分のような女に出会うとは、これほど恐ろしい事があろうか・・・。じゃが」


 サラ婆は力を振り絞り、ククリの手を掴んだ。


「いつかお前に言った事も本当だった。お前はあの時、死ぬ運命だった。その運命を、お前は変えた。ならば亡国大禍の運命も、変えられぬという道理がなぜあろう。そもそも、お前は豫国最後の大巫女として、豫国の滅亡に立ちあう運命を、妹の代わりに倭国に来る事で回避した。つまりお前は亡国大禍の定めにありながら、一度国を救うたのじゃ。そして死からも脱した。儂が百五十年以上もあの世にいけなんだは、お前と出会うためじゃったと確信していたよ。ククリ、儂の葬儀には決して出るな。今すぐこの場を立って、阿蘇へと上れ。お前はこの地で女王となり、国を導くのじゃ。そして、儂に出来なかった事。亡国では無い、決して滅びる事の無い無窮の国を作るのじゃ!」


 その時ククリの視界には、蛍が一匹、外へと飛んでいくのが見えた。その儚くも美しい光は、かつて見る事が出来た、御魂の光によく似ていた。

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