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第六十四話 山門国

 倭国王都である奴国の南、副都の一つである投馬国の平野のさらに最南にある砦が、倭国における熊襲との最前線である。もっとも、真の最前線はさらに南のアワギハラだが、彼の地は実質的には中立地帯となっており、倭国熊襲双方ともに武器を持った人員をほとんどおいていない。おかれているとすれば、アワギハラの治安を守るための最低限だけだった。

 だが、投馬国最南端のこの砦は、常に歴戦の勇士である指揮官と最新の鉄武具を持った男たち三百人以上が鍛え上げた馬とともに常駐しており、いつ熊襲がアワギハラに侵攻してもすぐに対処できるだけの砦となっていた。これは熊襲側も同様である。

 その砦に、倭国の大王である帥鳴と太師張政が輿に揺られてやってきたのは、漢土からの黄塵が一際舞う春の事だった。

 それからさらに二日後、二人の貴人と供奉は、砦の中に築かれている宿泊用の宮から出て、ハヤヒと会う予定である会議用の宮へと向かっていた。

 青銅と金細工に縁取られ、薄絹で囲まれた豪奢な二つの輿には大王と張政が乗っている。二つの輿は武器を持つ護衛に守られ、生口(ぬひ・奴隷)の男たちに担がれて進んでおり、そのさらに前後では、一際筋骨逞しい男が日を象った倭国の旗を掲げ、大王の威容を示していた。

 二つの輿は、主の命令で会話が出来るくらいに並んでいた。

 帥鳴は左右にある薄絹を開け、真横にいる張政に話しかけた。


「全く、なんでこの私が、王都からはるばるこんなところまでこなきゃいけないんだか」


 帥鳴は漢語で呟いた。周りに人がいる時の二人の会話は、いつもこうである。大王が不満を漏らすと、張政も美しい発音で故地の言葉を紡いだ。


「やはり、私一人が来れば良かったのでは無いでしょうか。大王がわざわざお出ましになる事は無かったのです」


  張政は漆黒の瞳を細め、輿を担いでいる男たちに、自分の輿をやや大王より遅れるように命じた。やはり大王の輿と並び進むというのは、不敬であると思ったのだ。


「あー、もう話しにくくなるじゃないの。ほらほら戻して。そりゃ、私だって面倒だし、本当なら王都にハヤヒとかいう王子を呼びつけてやりたかったわよ。頭を下げさして、散々勿体つけたあげくにアワギハラを任せてあげるって言いたかったわよ。でも、熊襲王の血を出されたんじゃ仕方ないじゃ無い。あの土地は早くしっかり固めておいてもらいたいし。出雲と半島に人をやっている時に、熊襲に急襲されたんじゃたまらないわ」


「しかし、格というものがございます。帥大殿の血を引こうが熊襲王の血を引こうが、結局はただの王の孫。いえ、正確には熊襲の方は甥という事になりますな。とにかく大王が自らここまで来る必要はなかったのです。むしろ、軽々に出座なされることは、大王の威光に傷をつけることになりますぞ」


「堅苦しい事言わないで。ここの砦はぎりぎり倭国の領域内だもの。形の上では、相手が倭国に呼ばれたという事になる。それに、帥大とクマナ媛の血を引き、ククリ殿が育てた王子というのをこの目で見たかったというのもあるの」


 帥鳴の打って変わった刃物のような声色に、張政は銀色の眉を上げた。


「ご心配ですかな」


「・・・全然。私たちが大陸を見据えて、出雲や半島と向かい合っている間、もはや田舎の熊襲で大きな世界を知る事無く育ってさ、母親の巫女から頭でっかちで潔癖な教育を受けた幼子は、さぞかし粗野で視野の狭い愚かな王子になっているでしょうよ。それが見て笑いたかったの。その子、美豆良(みずら)も知らないんじゃ無いの?」


 帥鳴は軽く笑ったが、その言葉は本心では無いと見透かしたかのように、張政は軽く目を閉じた。


「しかし、それにしても、やはり生きておりましたな」


「ほんとに、しぶとい女だわ」


 蒼天に黄砂の吹く中、眠れる大国より来た彼女の聡明な眼差しを、二人は同時に思い出した。

 一体、この十三年を彼女はどのようにして過ごしたというのであろう。

 豫国という謎の大国から、女王になると筑紫島にきた乙女。そんな大胆不敵な女など、帥鳴も張政も聞いた事が無かった。もはやあの頃とは状況は大きく変わっている。だが、かつて自分たちが抱いていた警戒心を完全には忘れる事は出来なかった。

 会議用の小規模な宮の中に着くと、真ん中に大きな机があり、それを挟むようにして双方が向かい合う形になっていた。段差は無く、華美な装飾も立場の上下を示すものはなにもない。元々ここは最前線の指揮官が会議をする場所であるから当然の事なのだが、その光景に帥鳴は苛立った。

 その様子を見て、張政は急いで護衛の一人であるカラオをやって、自分の荷物の中から一枚の毛皮をもってこさせる。それは見た事も無い黒と黄色の縞柄の毛皮で、濡れたような艶の美しさと言い、その迫力といい熊や猪の比では無い。


「これを大王の椅子にお敷き下さい。漢土に住む虎という猛獣のものです」


 帥鳴は太師の如才のなさに感心すると、腕を組んで大きく頷いた。


「へえ、虎って言うの。気に入ったわ、カラオ、そこに」


 倭国の言葉に戻し帥鳴は白い手を指して命じた。カラオが畏まって強ばりながら毛皮をしく。


 そんなカラオの肩に、帥鳴はそっと手をやった。


「王都で寝込んでいるワカタに代わり、お前は良くやっている。ワカタめ、本来近衛を指揮する立場にありながら、全くだらしのない。太子を帥大にしたから、落ち込んでいるのだろうか。まあ、もともとあいつは身体が余り丈夫では無くて、太師の世話にもなっていた。・・・ああ、よく考えたら、ワカタとハヤヒは従兄弟という事になるのか。一度会っておけば良かったものを」


 その時、来訪者を告げる竹法螺と太鼓の音が鳴り響いた。音の拍子はその相手が王族であることを告げている。

 入り口に人影を確認すると、張政は長い袖の中で両手を組んで礼をし、カラオはその場に跪いて礼儀である柏手を打った。

 当然、帥鳴は大王の威信に賭けて微動だにせず、視線を向けただけである。だが、逆光の中現れたその少年の姿を見て、思わず声が出そうになった。

 春の日射しを背負いながら、尋常では無い波動を持つ少年がそこにいた。

 結われた下げ美豆良は艶やかで、肌は旬の果実のように瑞々しく、輝く白い歯は紛れもない本物の若さ。なんという美しさと凜々しさであろうか。帥鳴はわずかに唇をかみしめた。

 歳は確か十一だと言っていたが、そのわりには随分と背も高く体格も良い。何より、この場にあって浮かべている自信に満ちた眼差しは、まるで貝に包まれた白玉のような眩しさと気品である。それだけではない。ちょっとした所作から、その奥に隠されている炎のように猛々しい気質も伝わってくる。

 それが、辺境で生まれ育った王子だというのか。


「初めまして。お爺様。ハヤヒと申します」


 少年は恭しい口調で言ったものの、決して頭は下げずに挨拶すると、そのまま自分の用意された席の方へ進んだ。すると彼の護衛であろう、目から下を白布で隠した女が二人先に出て、彼の椅子に手早く敷物を敷いた。その敷物に、誰もがぎょっとする。

 その縞模様は、まさに帥鳴の敷物と同じであった。しかも、帥鳴のものが黄と黒なのに対し、ハヤヒのものは白と黒である。


「まさか・・・白虎」


 張政が驚きのあまり呟くと、ハヤヒは椅子に腰を下ろし、彼と同じ美しい発音の漢語ではきはきと答えた。


「対。その通りです。私が漢土に渡った時、人からもらいました。漢では伝説の霊獣とも言われていますが、実際にもいるようですよ。それでもやはり、とても珍しいものといっていました。お爺様、ご存じですか?」


 澄んだ泉のような眼差しを向けられて、大王ですら思わず言葉を失った。


「・・・もちろんだとも。それよりハヤヒ、お前、漢語が話せるのか? いや、今、漢土に渡ったと言ったか?」


「はい、このように話せます。私は七つの時に熊襲の地を出て、しばらく母と各地を放浪したのです。目的地は半島だったのですが、漢土にも行きました。私が着いた場所は、山東半島の青州というところです」


「山東半島・・・しかし、あの辺りには今、海賊が」


 思わず口を出した張政に向かい、ハヤヒはやや大仰に驚いた。


「さすが、大陸出身の太師張政殿でいらっしゃる。その通り、あの辺りは二年前までは海賊が跋扈(ばっこ)していましたし、治安も大変悪いところだったのです。ですが、ある将軍があの地を平定したのです。私たちが山東半島に渡ろうと思ったのも、それがあってのことでした」


「その、将軍のお名前は?」


「確か、冀州牧の曹将軍と言いました。この毛皮もその方から頂きました」


 漢土の将軍の名を聞いた時、張政の瞳と肩が揺れたのは、気のせいだろうか。


「そうか・・・。漢は、どうであったか?」


 帥鳴は張政の動揺は気にせず、尋ねた。


「争乱の続く漢土は、思っていたよりも荒廃しておりました。私はあそこで、民にとってそもそも国とは何か、国が滅ぶとはどういうことか間近に感じたように思います。それから、倭国の水軍についても売り込んできました」


「売り込んだ?」


 大王と太師は眉を顰めた。


「はい、先ほど言った将軍は、海賊を簡単に討ったすぐ後というのもあったのか、水軍というものをとても軽視していたのです。彼が興味あったのは、占術。彼は母の優れた占術に興味を持ったのです。ですが、その占術の結果でも出たように、彼はいずれ水軍を軽視したせいで大敗北をするでしょう。その時、彼は倭国の水軍に興味を持たないはずはありません。つまり、差し出がましい事ですが、同盟の種を蒔いておいたのです。いずれ、公孫氏と対立するだろう倭国には、そうしたものが必要でしょう?」


 そういって顔をほころばせる少年の顔は、そこらにいる同じ年頃の者と同じくらい無邪気そのものだった。その事に帥鳴はそら恐ろしさを覚えた。


「これは、なんと聡明な男の子だろうか。さすが太子の子である」


「お爺様、私を太子の子だと、ご自分の孫だと認めて下さるのですか」


 まるで花が咲いたように、ハヤヒも微笑んだ。


「もちろんだとも。お前の顔を一目見て確信した。まさに幼き日の帥大の面影がある。そうじゃ、ならば倭国のならいとして、お前に名を授けねばならぬな。ハヤヒは真名、太子の子ならば真名は使わぬ。そうだ、帥正という名ではどうだろうか。それから私の事は大王と呼ぶように」


「帥正・・・気に入りました。謹んで、頂きます。大王」


 ハヤヒは満面の笑みを浮かべたが、それでも頭を下げる事はしなかった。その事に不満を持つ張政とカラオの視線に気づいたのだろうか、ハヤヒは途端に申し訳なさそうに顔を曇らせた。


「あ・・・申し訳ありません。私は熊襲の王子でもありますゆえ、倭国王に頭を決して下げてはいけないと、母に厳命されているのです。もちろん、熊襲の王にも決して頭を下げません」


「いや、良い良い。私としても、熊襲を怒らせたくは無いからな。ところで帥正、今日は母君、ククリ殿は来てはいないのか?」


「はい、母はアワギハラにおります。本日の事は、私一人に任せてくれました」


「そうか・・・それにしても、あのアワギハラをどうやって掌握したのだ。あそこは中立地帯で兵の数は少なかったとはいえ、民の心を得るのはまた別の話だ。聞けば彼の地の民は心からお前とククリ殿を慕っているとか。どうやって彼らの心を掴んだ?」


 帥鳴はできる限り顔の力を抜き、人の良さそうな笑顔を浮かべた。


「それは・・・」


「おや、この私には話せぬか?」


「いえ、もしかしたら、失礼に当たるかもしれないと思ったのです」


「どういうことかな?」


「大王は、出雲と半島ばかりを見る余り、あの地をないがしろにしすぎたのです」


 それまで子犬だと思っていた獣が、狼に変わったようにハヤヒの目が光った。


「王都を奪還した後、彼の地に取り残されたのは身分の低い生口や下戸、病人ばかりでした。彼らは自分たちの身の上に加えて、倭国と熊襲に挟まれた不安定な暮らしの場に、もともと不安を抱えていました。それを解消するように努めました。あの地に残った倭国と豫国の巫女たちは、母や私の命令が無くとも、ミソノを中心に長い時間をかけて彼らを導いていました。中でも、土地を鎮め、祈祷や薬草で病を癒すという行為は、彼らの心を掴むものだったのです。そこから彼らに小さな目標を示し、一つずつそれを達成させていきました。そしてより大きな目標を掲げたところで、母と私が合流し、彼の地はさらに安定したというわけです」


 淀みなくしゃべる王子を前に、帥鳴は思わず唇を噛んで張政の方に視線をやった。つまり、ククリたちが彼の地を掌握したやり方は、この張政が倭国で地位を築いた方法と同じなのである。

 だが、彼の地でのそのような報告は、一切聞いていない。つまり、倭国が送っていた兵も早々に取り込まれていたという事である。


「・・・よし分かった。改めて、お前の祖父である私が宣言しよう。帥正とククリ殿に、アワギハラを任す。そうなると、彼の地には対外的にも通用する正式な名が必要になってくるな。ふむ、もはや臨時王都ではないし、アワギハラ国というのも、どうにも語呂が悪い。何か良い案はあるか?」


 帥鳴は張政の方を向いて言ったが、帥正という名をもらったハヤヒは即座に答えた。


「それならばすでに。阿蘇の山を仰ぐあの地は、山門(やまと)。山門国(やまとこく)と名付けたいと思います」

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