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第六十一話 移り変わる倭国

 四年後。


 副都の一つである伊都国の前族長であり、現在は長老であるイヌギは、もはや自分の命がそう長くは無い事を自覚していた。朝、床から起き上がる度に瞼と身体が重くなり、痩せ衰えた足を鼓舞してなんとか立ち上がっても、歩く事も難しくなっている。呼吸さえ苦しい。

 だが、これは病の類いでは無く歳のせいである。先々代と、先代の倭国王帥升が崩御した時、すでに自分は一族の後継者として彼の葬儀に参列したのだから、齢は七十を超えている。髪は白く少なくなって美豆良も結えはしないし、勾玉を首にするのも重くて無理である。せめてとの倭文布の帯をしっかり結ぶ。腹と腰に圧迫を感じると、イヌギは軽く息を吐いた。

 今や帥升を直接知る者もほとんどがこの世を去ってしまっていた。明日の朝自分にお迎えが来ても、遅すぎるくらいだろう。

しかしイヌギは、だからこそと自らを鼓舞した。


「長老、どうかお休みになっていて下さい!」


 杖をついて立ち上がり、宮の外に出ると世話を任されているヌギ族の若者がおろおろとして叫んだ。どうせすでに朝議に向かった息子たちから、伊都国からのこのこやってきた老いぼれを寝かせておけ、上手い事をいって伊都国に帰らせろ、と命じられているのだろう。   

 イヌギはふんと、鼻から息を強く出した。


「儂は朝参する。行かねばならぬのだ。お前、儂を支えて王宮に向かえ」


 毛皮を羽織り、イヌギは狼狽える若者の尻を木の杖で叩いた。


「ほれ、ぐずくずするな。朝議が終わってしまうぞ。とっとと連れて行け」


 若者の肩を借りて宮から出ると、朝日が眩しく思わず目を細めた。どこかで鶏の声がしている。大陸からの黄塵(黄砂)が朝靄のように視界を曇らせており、まるで山上か雲中にいるような気分にさせる。そんな幻のような光景は、それは今の倭国王と大師張政が作り出しているこの地の現状そのものに違いない。

 ふと辺りを見回せば、このあたりに作られた立派な宮の中からは、続々と一族を背負う各地の族長たちが、供を従えて王宮へと向かっていた。いや、『族長』という言葉ももはや廃れつつあった。部族長たちが自分の国に留まり、必要な時だけ王都に集まる昔とは違い、『朝議』を取り入れ、族長たちが毎朝必ず倭国王の宮に集まるようになると、彼らは王都に常在するようになって新たな『諸侯』という身分で呼ばれるようになった。

 例えば、伊都国ヌギ族族長であれば、ヌギ侯と呼ばれる。

今までは大漢に朝貢する時などは皆、一族の要人であれば古来より自らの身分を『大夫』と称していたが、それはあくまで対外的なものであった。それを倭国内でも常用し、新たな身分まで作り出してしまった。

 これらは全て太師張政の進言によるものである。

 イヌギは張政の顔を思い出し、頭に血が上ってくると自分を支える若者をもう一度杖で叩いて八つ当たりした。

 イヌギがもう一度杖を振るおうとすると、朝靄の向こうに投馬国ウマメ族の長老ミウマ、不弥国ヤシノ族の長老ヤシタキの姿があった。彼らはイヌギの同輩で、皆同じような歳だった。彼らはお互いの姿を見つけると、視線で何かを感じ合い、朝議に向かいながら自然と身を寄せ合った。


「お前らまだ生きとったか。残っているのは儂ぐらいだと思っておったのに」


「ふん、まだまだ死んでたまるか。まあ、息子に任せてからはずっと自分とこでおとなしくしていたがな」


「イヌギ、ミウマ、それでお互い珍しく自分ところから這い出てきたという訳か」


しばらく三人は軽く笑い合った後、火が消えたように無言のまま王宮への道を歩いた。

 このような、墓に片足どころか首から下がまで浸かっている年寄りが集まったのは、他でもなく倭国王帥鳴に諫言するためであった。

いまや倭国は急速な変貌を遂げている。大陸の儀礼を次々と取り入れ、父祖からの定まっている身分を乱し、出雲、半島へと兵を送った。おまけに埋葬のあり方まで変えてしまった。これを前時代を知る老人たちが黙っていられるはずは無かった。

 長老たちが新しく造られた王の宮につき、入り口へと続く高い階段を這々の体で登ると、中ではすでに朝議は行われていた。倭国王帥鳴は最奥の一段高いところで椅子に座り、並ぶ卿たちに向かっていた。壇の回りには天井から糸に通した無数の鮑玉や白玉、水晶を連ねて垂らしており、王の姿がやや見えなくなるような装飾だった。どうやら今日は、太師はいないらしい。


 長老たちはこれはしめたと無言で頷き合った。


「倭国王よ、我らの話を聞いてほしい!」


厳粛な空気を引き裂くしわがれた声に、並んでいた諸侯たちが一斉に振り向いた。長老たちの姿を確認すると、皆最初は驚きの表情をし、次第に迷惑そうな目顔になった。いまさら老人たちが何のようだという考えが、ありあり伝わってくる。その中にはイヌギの息子の姿もあった。


「ち、父上。一体何をしに来たのですか。もう私が族長なのですから、朝議の事も私に任せて下さい。ああっ、私に恥をかかせないで下さいよ」


ミウマとヤシタキの息子たちも寄ってきて、同じような事を言った。他の族長、卿たちからは苦笑が漏れる。


「やかましいわ!」


 長老たちは寄ってきた我が子を一喝して杖で叩き、一同が騒然とするのもかまわずに帥鳴の前へと進み出てよろよろと跪いた。


「倭国王よ。倭国の宗主、奴国の帥鳴殿。伊都国のイヌギでございます」


突然の闖入者にも帥鳴は特に動じることなく、煌めく簾の奥で顎に人差し指を置いて、微笑むような仕草をした。


「これは長老方、久しいな。今日は一体何用だろうか。もう族長は退かれたと聞いていたのだが」


「その通り、もはや我々は耄碌した老いぼれです。ですが本日は、どうしても訴えたい事がありこうして恥を忍んで参りました」


「恥だなどととんでもない。お三方は私の祖父の代からの功労者。あなたたちの話ならば、私はいつでも聞こうぞ」


 イヌギは軽く咳をすると、目つきを厳しくして、帥鳴だけではなくここにいる者全員に聞こえるように声を張り上げた。


「もう、これ以上、争いを広げますな! 我らの形を変えますな。仇敵出雲を下したのはまだよろしい。ですが、半島にまで兵を送っているとか。その上熊襲と戦うなどと」


「おおっ、今その事を話し合っていたところだ。熊襲と戦うのではない。あの、かつて臨時王都だったアワギハラを攻めようという事なのだ。どうやらあの地にククリという巫女が戻って・・・」


「倭国が滅びますぞ!」


 長老のその言葉に場は騒然とする。鷹揚に構えていた帥鳴も、一瞬動きが止まった。


「その言葉、いくらヌギ族のイヌギ長老とはいえ、聞き流す言葉出来ないな。倭国が滅ぶだと? 今や倭国は、かつて無いほど栄えているではないか」


「帥鳴殿は、倭国の伝統をお忘れかっ?」


 イヌギが長く伸びた眉をつり上げて問うと、帥鳴は椅子を経ち、宝玉たちをかき分けて皆の前へと進み出た。露わになった帥鳴のしみ一つ無い白い肌、黒い髪、膨らんだ唇、それらは長老たちが最後に彼に会った時と少しも変わっていない。髭は伸ばしておらず、鮮やかな日を模した刺繍の入った帯をしており、美豆良を結っていなければ長い袖を揺らす妙齢の美女と見まがうばかりである。


「和を以て貴しとなす」


 帥鳴の尊大で明瞭な声に、長老たちは鼻息が荒くなった。


「その通り。倭国には、和を第一に考えなければならないという、父祖代々の掟があったはずです。和とは己、和とは輪でございます。かつて奴国を宗主とする連合が誕生した時、その言霊によってこの地域は『ワ』と名付けられました。数多の邑々をまとめるのには、和合こそ至上であると考えたからです。ですが今日こんにちの有様は何でしょう。話し合いを尊び、本来まとめ役であったはずの倭国王とその他の族長との関係は、まるで漢の皇帝と臣下のようになっております。和を尊ぶどころか、出雲を攻め、半島を攻め、そして渤海黄海の覇権を手に入れようとしておられます」


「それのどこが悪い。和を以て貴しとなす、確かに尊い言葉ではあろう。だが、それを至尊の言葉として崇めていた間、我らは互いに争い合い、出雲につけいられ倭国大乱も起きた。長老方、まさにあなた方の時代は、それほど平和な時代であったか? 部族同士の小競り合いを続けていたのは、あなた方ではないか。私はそこから学び、新たな体制を築こうとしているのだ」


 帥鳴の言葉に賛同するように、卿という身分になった他の若い族長たちが頷きながら厳しい目を向ける。それが堪えたのか、イヌギは深いため息をつくと、ミウマとヤシタキが後ろでそっと細くなった彼の肩を支えた。


「倭国王よ。あなたは偉大で聡明な王であられる。だが、この地の真心を理解しておられぬ。今日我らは、この地に住み、倭人と呼ばれている者たちです。ですが元々我らの父祖が半島からやってきたのは、ご存じでしょう。では、なぜ大陸、半島を通り、海を渡ってこの地に根付いたかでしょうか。それは我らの父祖は、争いに負けたからです。国を滅ぼされた流浪の民が、行き着いた先がこの豊かな地なのです。我らは敗者の惨めさと苦しみを、一番分かっている一族なのですぞ。それ故、諸国が和合し、この倭国が誕生したのです。あなたも、先王がお隠れになる前に、聞いたはずでございますぞ。帥鳴殿と太師殿の方針は、父祖の教えを冒涜しておられます!」


「イヌギ長老、そのような仰りようは、倭国と大王に対し、不敬でありましょう!」


 颯爽と立ち上がったこの場ではまだ若い者たちが、口々にイヌギたちを非難し始めた。彼らは各部族独特の装束ではなく、みな同じ濃紺の衣に黄色い倭文の帯を締めている。


「大王・・・大王だと」


「そうです、イヌギ長老。倭国を束ね、出雲、半島を支配下に置きつつある帥鳴様は、もはや王という呼び名では釣り合いがとれませぬ。これからは、倭国王を大王と呼ぶ事になったのですぞ」


 その若者はイヌギに嘲笑するように語り、長老たちは顔を真っ赤にした。飛びかかろうとするイヌギを他の二人が制し、帥鳴も右手で諸侯を制す


「お三方。もう何も語られぬな。時代とともに、伝統というものも変わる。大陸でも数多の国が興りそして滅びた。大漢でさえ、滅びつつある。まして、自分たちが敗者の子孫だといって、一体誰が己を誇れようか。見ているがいい。私は決して負けぬ。倭国を、このまほろばを、中つ国にしてみせようぞ!」


 大王の言葉に、諸卿は一斉に前に手を組みひれ伏して彼を称えだし、その有様を見て長老たちは、もはやなにも言えずにとぼとぼと宮を出るしか無かった。

 帰り際、「この老いぼれどもが」といったのは、彼らの息子たちの声ではなかっただろうか。

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