その日、滅多に怒らぬハヤヒの機嫌はすこぶる悪かった。
つい先日、夜中に母とサラ婆に連れ出されて砦に外に出ようとしたら、大勢の男たちが待ち構えていて、結局もといた家に帰らされてしまった。それだけでも眠たいし、身体のあちこちの痛みもまだ残っている。
その上、それからずっとハヤヒは外に出してもらえていない。母のククリに尋ねても、外は危ないからと言ってごまかしているけれど、それが嘘なのは知っている。自分の祖父であるイサオが意地悪をして、出してもらえないのだ。
(でも、今日は確かに天気が悪くて、さっきから空がゴロゴロと鳴っている)
母もサラ婆も大好きだけれど、そんな風に嘘をつくことがあった。ハヤヒはそれがとても嫌だった。
本当は知っているのだ。母とイサオは仲良しそうに見えて、お互いをとても嫌っている。どうしてだか理由は分からないが、ハヤヒには分かった。
だから母が少し深刻そうな顔で言った時、もしかして喧嘩をしに行くのだろうかと思ったのだ。
「ハヤヒはここにいんるだよ。私とサラ婆は、爺様のところへいってくるから」
「嫌だよ母上。僕もうずっと家の中に閉じ込められているじゃ無いか。僕も出たい」
いい加減限界だった。しかも今日はいつも相手をしてくれるハヤトが、朝ご飯を食べてからずっとすうすうと寝ている。触っても尻尾で冷たくあしらわれてしまうので全く面白くない。母とサラ婆のいないこの家に一人で、一体何をしていれば良いというのだろう。
地団駄を踏むハヤヒの頬を、ククリはしゃがみ込んで両手で包み込んだ。火傷の跡で柔らかくは無いけれど、とても温かい。
母は目が良く見えない。それでもこの目はいつも自分を守ってくれているのだとハヤヒはちゃんと分かっている。
「頼むから、今日だけは母の言うことを聞いて。大丈夫。私と宮には行けないけれど、もうすぐ叔父様がやってきて、お前を外に出て別のところに連れて行ってくれるように頼むから」
「え、クマギ叔父さん?叔父さんがどこか連れて行ってくれるの?」
「そうだよ。ここから離れたとても安全な場所に。だから・・・」
その時家の外で何人かの堅い足音がした。ククリはすぐに姿勢を直して、入り口に目を向けると、今話に出ていたクマギが立っていた。恐らく、外には数人が武器を持って待っていることだろう。
クマギは熊襲らしい褐色の肌に、クマナ媛によく似た端整な顔立ちの若者である。まだ少年と言っても良いくらいの幼く見える時もある彼だが、今日は随分と険しい顔をしている。
「姉上、どうなさるおさもりか・・・。父上が砦に帰って来るなり、俺はあなたを宮に連れてくるように言われました。各地の長も集まっています。恐らく父上はあなたを」
ククリはそれ以上は言うなと表情で制すると、右手を差し出しクマギに取らせ、彼の方へと身体をやった。ククリは身体を震わせながら、言う。
「全て分かっている。私が遅かったのだ。・・・もう私はだめだろう」
「弱気なことを言わないで下さい! 姉上は必ず俺が守ります。俺から父上に・・・!」
「いや、前にもお前に教えたとおり、父上のお気持ちは昨日今日のことでは無いのだ。でもどうか、この子は、このハヤヒだけはお前の手で逃がしてやってほしい。私が死ねばこの子がどういう立場になるかわからない。安全か確認できるまで、どうか以前教えたあの場所で匿ってやってくれ。もし危険な状態になったならば、アワギハラへ行ってミソノという巫女に預けれもらえばいい」
ククリの掌の力が強くなり汗がにじむ。クマギは視線をそらして多くを語らなかったが、随分と悩んでいる様子だった。
「では、俺がここに残って、しばらく経ってからハヤヒを連れていきましょう。準備はしていますね」
義弟が決意を決めた時、ククリは朝露のような涙を流して、彼の右を握りしめた。
「ありがとう、クマギ」
「でも・・・どうか、最後まで諦めないで下さい。あなたはずっと熊襲に仕えてきた。その忠誠心や功績に口を出せる者は誰もいません。それに・・・私は二度も姉を亡くすのは嫌です」
二人が一体何を言っているのか、ハヤヒにはほとんど聞こえなかったけれど二人が悲しんでいることも、お互いを思いやっていることも伝わってくる。
そうだ、二人はとても仲が良いのだ。母と爺様も同じくらい仲が良くなれば良いと思うのに、いつも表面だけなのだから困ったものだ。
しばらくすると、母はククリはハヤヒを思いっきり抱きしめた後、額に口づけをしてサラ婆や外の兵たちとともに宮と向かってしまった。後に残されたのは、クマギ叔父さんと自分とハヤトだけである。
サラ婆は出て行く前に薬草茶を用意してくれて行っていた。これから少し遠くに行くので、二人とも体力をつけるためらしい。すでにクマギ叔父さんは少しずつ飲んでいた。
でもあの深刻な顔はどうしたことだろう。いつも口数は少ないけれどとても優しくて、とても大声で笑って、とても朗らかなのに。
今日はまるで怒っているみたいだ。
「叔父様、お茶を飲み終わったら、僕をどこに連れて行ってくれるの」
お茶を飲みながらそう尋ねると、クマギ叔父さんはこちらを安心させるようにぎこちない笑顔になった。
「そ、そうだな。この砦を出て、アワギハラというところの近くだ。そこに誰も知らない洞窟がある」
この砦を出るという言葉だけでなく、誰も知らない洞窟という言葉にハヤヒはワクワクした。それにアワギハラと言えば、母が昔暮らしていたと言っていたところだ。ただ、今度は成功すると良いなと思った。この前はすぐに見つかって、ここに連れ戻されてしまったのだから。そうか、きっと母上はその事で爺様に叱られるのだろうか。
「ねえ、クマギ叔父様。叔父様は母上のことが好きなんでしょ」
ハヤヒが尋ねると、クマナギは茶を浮き出し、厚さに慌てて器をこぼした。その顔は夕日のように真っ赤になっている。
「な、な、何を言うのだ」
「僕、なんとなく分かるんだ。叔父様は母上のことが好きなんだ」
「た、確かに、姉としてお慕いしている。甥のお前も愛しているぞ」
「違うよ。そういうのじゃなくて、叔父様は母上を妻にしたいって思っているんだ」
クマギ叔父さんが固まって、顔がまた一際赤くなる。
「お、俺たちは姉弟だぞ!」
「でも僕知っているよ。僕と叔父様は血が繋がっているけれど、僕と母上は血が繋がっていないんだ。昔死んじゃったもう一人の母上とは血が繋がっているけどって、みんなが言ってた。えっとだから・・・なんだかよく分からなくなっちゃったけど、叔父様と母上は血が繋がっていなくて、だから妻にも夫にも出来るんだよ」
クマギ叔父さんが口を開けて唖然としているのをよそに、ハヤヒは胸を反らせて得意げにした。
「全く、お前はいつもそんなことを考えていたのか」
渋い匂いと味のする薬草茶を再び注ぎ直して、叔父さんはまた啜った。顔は赤いし、少し慌てているけれど、ちっとも怒っている様子では無い。こういうのをまんざらでもないというのだ。
「・・・だから、叔父様、こんなところでお茶を飲んでいないで、母上を助けて」
叔父さんは一気に顔が青くなり、目を見開いて立ち上がった。
「なんとなく分かるんだ。違う。今分かったんだ。母上は今危険だ。だから、早く二人で行って母上を助けよう!」
叔父さんは眉を上げ、信じられないものを見るような顔つきでハヤヒを見つめていたが、何か腑に落ちたようににやりと笑った。そしていつものように豪快に笑った。
「そうだ。その通りだ。行こう。二人で母上を助けよう! 付いてこい!」
叔父さんが鞘を持って勢いよく立ち上がり、今にも飛び立ちそうな勢いできびすを返す。
「待って、ハヤトも連れて行かないと。ほら、ハヤト、起きて。起きてってば」
おかしい。どれだけ揺らしても、こんどは尻尾すら動かさない。おまけに冷たい。これがどういうことかに気づいた瞬間、自分の身体も一気に冷たくなったような気がした。
「叔父様どうしよう。ハヤトが死んでるよ」