「どうして見つかってしまったのじゃろうか」
煮えた鍋をかき混ぜながら、サラ婆はつぶやいた。
昨夜はククリも彼女も、ハヤヒもほとんど眠れていない。
数日前、ノギクが死体で発見され、犯人はイサオの手の者であると確信したククリは、この砦を出る計画をすぐに実行した。
もうこの数年で、砦とその周辺の地理は頭にたたき込んである。兵たちの配置も、どこにいつ、誰が置かれているかも分かっていた。当然、手薄な場所を選んだし、実際 その前日までそこは砦の盲点であり、ククリたちは確実に脱出できるはずだったのだ。
だが、いざ闇夜に紛れて、灯りも持たずハヤトの先導だけでその場所にたどり着くと、そこには三十ほどの兵が待ち構えていた。
「ふむ、ほんに分からん。儂らがあの晩、あの場所から出ることは前日に決めたばかりじゃったのに。他の抜け道や、柵から出ることも直前まで考えていたのだぞ。一体、どうして」
今、ククリの住む家の回りには、昨日の兵たちが取り込んで監視しており、外に出ることは出来ない。だが、別に罰せられる様子も無く、この家の中でなら好きにして良いようだった。食事やその材料は言えば運んできてくれるし、イサオの娘としての一定の敬意も伺える。
「もしかして、巫女の中に密告者がいるんじゃ無いだろうか」
「密告者? そんなバカな。あやつらとは長い付き合いじゃが、今やお前を慕わない者はいないよ。たとえ、イサオと対立することになってもお前につくじゃろう。熊襲の巫女は、独立性が強いからのう」
「けれどあの場所には兵が待っていた。情報が漏れていないのだとすれば、巫女が予知で報告したのかもしれない。ノギクが殺されたのも、そういうことなんじゃないか」
ふむ、と言いながらサラ婆は鍋の中身を器に移すと、ククリに手渡した。先ほどから香っている猪肉の匂いが一際強くなる。
あるいは、とククリはハヤトとハヤヒの寝息を聞きながら思う。例の、熊襲の秘密集団だろうか。倭国に散っているはずの彼らの一部が、自分を監視していたとしてもおかしい話では無い。
「なあ、サラ婆。私に隠していることは無いか」
「隠す・・・・とは、もしや儂を疑っておるのか」
サラ婆の口調には怒りも焦りも無かった。ただ呆れているようだった。
「そんなことはない。ただ・・・太占のことで、私に隠していることは無いか」
ククリは砦脱出を急いだ理由に、ノギクが、自分が殺される未来を視たといった事を告げてはいなかった。だが、ククリの身に起こる危険など、たとえこの老婆に霊力が無くとも自慢の太占で予知していることは十分あり得る。
「・・・無いさ。そんなもの」
言外になにかあるものを感じて、ククリはなおも問いただした。
「私の死を、太占は告げていないのか?」
「・・・・・・そうか、やはり昨日の巫女は、それを告げたか」
サラ婆は観念した様子で天井を見ると、鍋から離れてククリのすぐ側に座った。
「ああ、知っておった。しかしあれだね、やはり巫女たちは未来を狙って知るわけじゃ無いから、予知をするのに随分と時間がかかったものだ。儂なぞもうずっと前から知っておったのに」
「ずっと以前とはいつからだ。どうして黙っていた」
「お前が大けがをして寝込んでおった時から太占で知っておった。でも確かに今まで一度も教えたことは無かったね。でも当たり前だろう。お前はもう、ここを抜け出す計画を立てていたじゃないか。わざわざ言わずとも、さっさとここを出れば解決じゃわい」
事も無げにサラ婆は行ったが、ククリは納得できず拳で地を叩いた。拳は痛く、掌には汗を感じる。サラ婆はその様を見てため息をついた。
「やはりお前も豫国の巫女だねえ。占いや巫女の予言で自分の死を知ったから、そのまま衝撃を受けているのか」
「当たり前だろう!」
「でもね、そんなものは、変えてしまえば良いのさ。そう、それで全て解決だ」
ククリは目を閉じたまま、灯りの方を見た。
運命を変えるなど、そんな簡単にいくはずが無い。まして人の生き死になど。
「お前は、もう、変えているだろう?」
サラ婆はククリの心を見透かしたように行った。それはいつかサラ婆に話した、自分が筑紫へと来た話でもある。けれど、結局はこの様だ。やはり、人が定められた運命に触れることは禁忌なのでは無いだろうか。豫国で教えられたように。
そう思うと、肩に何かがのしかかり疲れがどっと出てきた。
「・・・サラ婆はもう何歳になる?」
「なんだい、儂に歳を聞くなんて。もう百はとうに生きてると思うんだけどね、忘れてしまったよ」
「自分が、こんなに長く生きると思っていたか?」
ククリがそう問うと、サラ婆にはかなり長い間が出来た。まぶたを閉じ、自分の長い一生を思い出している様子でもあった。お互いの呼吸の音がやけに大きく感じた。
今、熊襲の砦の中で、二人の異国の女が目を閉じている。
「いや・・・思わなんだ。半島に生まれた儂がよもや倭国、熊襲に来て、ここまで生きるとは思わなんだよ。昔、太占で、長命であるとは言われていたが、ここまでとは。それに、儂は自分で死んでしまうつもりだった。そんな事を何度思ったかしれないよ」
ククリがサラ婆の過去を聞いたことほとんど無かった。熊襲でも、知恵者の老婆は半島から流れ着いたと知られていて受け入れられていたが、彼女が半島時代にどういう生活をしていたかを知っている者はいないのではないだろうか。
漢にしろ半島にしろ、わざわざ筑紫まで好き好んでくる者がいるはずが無い。きっと、国を追われての事だろう。そして、サラ婆ほどの知恵者が、ただ者であるはずも無かった。
これほどの知識や占術を身につけているという時点で、霊力など無くても彼女の生まれは大方予想が付く。
「じゃあ、どうして生きることを選んだんだ」
ククリの問いに、サラ婆は「さあ」、とだけ答えた。その一言は、深い井戸をのぞき込んだような気にさせた。
「ククリ、生きろ」
「突然何を。当たり前だろう! 私にはハヤヒもいるのだから!」
そうだ、こんなところで死ぬわけにはいかない。
「もちろん我が子のためもあろうが。例えそうで無くてもお前は生きろ。頼む。生きてくれ」
サラ婆はククリの右手を掌で包み込んだ。からからに乾燥していて、まるで砂のような感触だった。
「どうして・・・サラ婆はそんなことを言うんだ。そうだ、サラ婆はいつもそうだった。どうして私の命を救い、その後も支え続けてくれたんだ。どうして私にそんなに優しく出来るんだ。こんな、家族みたいに。よそ者同士だったからとか、そんなきれい事だけじゃ無いはずだ」
なぜだろう。涙が目からあふれそうになった。
「ククリ・・・・・儂はね、運命に負けた。負けてしまった人間なんだよ。昔ね、儂の国にもそれは優れた覡がいてね。儂が生まれた時に人生を見てくれた。それはあまり良くない・・・いや、恐ろしいものだった。それを両親から聞いて、決してそのような人生を歩んでなるものかと思っておったが、結局はその通りになってしまった。今思えば、あんな悔しく惨めなことは無かったよ。それ以来、後悔ばかりが友になってしまった。けれどね、七年前のあの日、お前を占った時、お前はあの怪我で死ぬと間違いなく出ていたというのに、こうして生き残っているじゃないか。黙っていたが、儂の太占が外れるなど初めてのことだったんじゃよ。それで聞けば、豫国から予知の定めに抗って、妹の代わりに女王となろうと筑紫島に来たというではないか。長い人生の中で、そんな女には初めて会ったよ。儂は、お前と出会うた事に何か特別な意味があるのだと確信した。だからお前が好きになった。だからお前を助けたんじゃ。だから、占いや巫女の予知などそんな下らないものを気にするな。お前は生きよ。生きて、そして女王となれ」