あれはもう何年前になるだろうか。
鶴亀山の巫女団の里が、春迎えの準備で慌ただしくなっている頃だった。若い巫女たちは春の気配に色めき合っていたが、幹部であるククリは儀式の段取りでろくに眠れる日もなかった。王都からは次々に供物が届けられ、それを確認し、正しく決まった場所に移すだけでも夜中までかかる。大巫女であるサクヤは儀式に集中するため段取りに関しては一切手伝ってはくれないし、幹部たちも霊力はあってもそういう事には疎い者も多い。
だからククリにとって、その頃一番頼りになるものといえばイワナだった。霊力が無いと言われ、影で敬遠されていた彼女だったが、その指導力は素晴らしく、彼女の頭には巫女の名前とその担当、適正まで全て入っており、随時的確な指示を各部署に出して事態を円滑に進めていた。
人々はイワナと自分の仲が険悪だと言っている者も多いが、そんなことは無い。親友と言わないまでも自分たちは同士なのだ。そしてククリにとっては里へと迎えてくれた恩人でもあった。
そんな慌ただしく過ごしていたある日の朝、目覚めてナルの寝顔を見てから、小川で禊ぎをしていた時である。花冷えの小川の水に身体が震えるのを押さえ、額にかかった滴を払うと、突然脳裏にある光景が浮かんだ。
百や千では無い、今まで見たことも無いほど大勢の人が広大な平野に集まっている。いや、誰かを取り囲んでいるのだ。
その中心に、日の光を受けて手を上げた若い女の姿があった。
人々が彼女を称える様は、尋常では無い。身分の高い者も低い者も、兵も百姓誰もがひれ伏している。
一体ここはどこで、彼女は誰なのだろう。少なくとも豫国や大巫女ではあり得るはずが無い。意識を集中して、もっと女の姿を見ようとすると目尻に赤い化粧をし、見慣れぬ装束と装飾品を身につけているが、それがどこがよく知った顔であることに気がついた。それは、先ほど出かけにみたナルである。
ナル、どうしてあの子が。
よく見るとナルの姿は今よりもずっと大人びている。もしかしたら自分よりも年上かもしれない。
とすれば、これは予知。何年か先の妹の姿が見えているというのだろうか。
それにしても、この状況は一体どういうことなのだろう。頭に頂く金冠は、大巫女のものと同等かそれ以上の輝きであり、見慣れぬ装飾品もミカドすらも超えた煌びやかさではないのか。
ああ、何という眩しさだろう。神々しさだろう。
ククリは意識を戻し、急いで川から上がって身体を拭くと、身なりを整えてサクヤのいる大宮へと急いだ。
大宮は儀式の前の決まりとしてサクヤが籠もっており、立ち入りは禁じられていたのだが、ククリはそれどころではないと思った。豫国の巫女であり、さほど霊力もない妹がどこか異国の土地で崇められる光景を見たのだ。
そんな事態は普通では考えられないことであったが、もしありえるとしたら、この豫国に変事が起こる時に違いなかった。幹部として、すぐに大巫女であるサクヤに報告せねばならない。
走るククリを誰もが珍しがって振り向いたが、気にしている場合では無い。
呼吸を乱れさせながら、大宮の奥に入っていくと、大きな祭壇の前にぽつんと座るサクヤの背中があった。
その小さくも清冽な背中を見た途端、ククリはたじろいだ。一体何から話せば良いのだろうか。巫女の予知はこの里に生きる者なら誰もが共通の感覚だが、自分の見た光景は、前後の経緯がまるで不明であり、ククリですらそれを伝えるのが難しい。もっと頭を整理してから来るべきだったと後悔していると、サクヤは優雅に振り向き、春の泉のような清らかな声で言った。
「ククリ、あの光景を見たのね」
「まさか・・・サクヤ様もご存じなのですか」
「ええ、私はずっと以前からあの光景を見ていました。私も最初は何を表しているのかは分かりませんでした・・・・。あれは、あなたの妹のナルが、倭国女王として即位する光景です」
倭国、女王という言葉にククリは目を見開いた。
「倭国とは・・・確か豫国の西、筑紫島の北部の国でございますね。しかし、女王。それもナルが・・・今の状況からは到底考えられません。一体どのような変事がそんな未来を作り出すというのでしょうか」
サクヤは首を横に振ると、優美な絹の音とともにゆっくりと立ち上がり、手首に巻いてある鈴を鳴らして視線をあげて虚空を見た。
「『ししゃ』が・・・・来るのです。その『ししゃ』が、あの娘を倭国女王へと導くのです」
ククリは信じられなかった。もちろん自分自身が予知を見、仮にも歴代最高の大巫女であるサクヤが言うのだから、間違いは無いのだろう。けれど、それにしても現状を考えれば、そこにたどり着く経緯を想像するのが難しいのだ。倭国と正式に国交を結んでいない今の豫国から、この里から巫女が倭国に行くなんて。それもあの、この里でも落ちこぼれであるナルが。妹が。
珍しく狼狽え目を泳がせるククリに、サクヤはすっと寄って顔を近づけてきた。
「ねえ、ククリ。このままで良いのですか?」
「それは・・・確かに妹を一人あんな遠い土地に行かせるのは」
ククリが言い終わらないうちに、サクヤは鈴をシャンと鳴らし、微笑んだ。
「そういうことではありません。ククリ、教えて上げましょう。今、あなたの胸が早鐘を打っている理由。それはね、嫉妬よ。あなたは、あの光景を見て自分こそ倭国女王になりたいと思っているの」
「何をおっしゃいますか! 私は豫国の巫女です。大神とあなた様に仕える身です。倭国などと言う異国の地に行くことも、女王となることなどと興味ありません」
「それは嘘よ」
サクヤは大きな瞳で、優しくククリをのぞき込んだ。
「あなたは元々、そういうところがある子だったじゃない。ここを出たがっていた。私はちゃんと『分かって』いたのです。でも、あなたはあなたで、運命が決まっている。あなたはここで私の後を継ぐの。大巫女として、豫国の巫女を束ねるのよ。大巫女になれば、あなたとイワナが廃止したがっている生贄だって、やめさせることが出来る。・・・でも、本当にそれで良いの?」
「サクヤ様」
「もし、ナルがいなくなれば、運命は変わる。あなたはここを出て、倭国に行くことも出来るのよ」
サクヤが何を言っているのかを察して、ククリは一気に身を引いて顔を青くした。
「正気とは思えません」
「良く聞いて、ククリ。巫女の人生、それも大巫女の人生は孤独で、果てしなく長いわ。いくら豫国最高の地位にあるとはいえ、この閉じられた山の中で一生を過ごさなくてはならない。あなたという性格の娘が、女が、それに堪えられる? 私はあなたの求めているものが分かるの。それはかつて、私が掴めなかったもの。イワナがつかんでいたものよ。あなたには、それを手にする機会があるのよ」
ああ、この偉大なる大巫女は、自分の心の内と性格を、全て知っていたのだ。だが、まさか自分の妹を犠牲にすることなど出来るはずが無い。
ククリが深い思考で肩を振るわしていると、サクヤは再びそっと近づいて手を握ってきた。そこには黒い小さな革の小袋がある。
「味も匂いも無いの。無理を言ってイワナに作らせたものなのだけれど、あなたにあげるわ」
その後どうしたのだろう。
次に記憶があるのは、厳しいイワナの顔だった。
サクヤとは違い皺があり、老いた者独特の威厳があるイワナ。
そうだ、あれはイワナの宮での話だった。思い出した途端に、あの宮独特の不思議な匂いが蘇ってきた。無数の草花、木の実や根っこ、虫。あらゆるものがあの場所にはあって、他にはないような香りが充満していた。
「ククリ殿。その袋の中は、私が知るものでしょうか」
すり鉢を脇に置き、背筋とまなざしを真っ直ぐに問いかけてきた。
それになんと答えたのだろうか。きっと、うまく答えられなかったに違いない。
「どうか、そんなものをお使いになりませぬように」
イワナはどこまで知っているのだろう。この袋の中身を知ってはいたとしても、何に使うのかまでは分からないはずだ。イワナには、ナルが倭国女王になることも、自分の心の内も知るはずも無いのだから。
しかし、イワナはまるでサクヤとのやりとりをすべて知っている様子だった。
「・・・・どうか、ナルのことは、わたくしに預けてはもらえませんか。その薬を使わずとも、あなたの願いを叶えることは出来るのです」
そうして渡されたのは、白い小袋だった。
「眠りを誘い、起きた時には記憶を混乱させている薬です。この薬を使っても、あなたはこの里を出ることが出来ましょう」
「イワナ様、私はそんなことは・・・それに、ともに生贄を廃止させようと誓い合ったではありませんか」
イワナは総白髪の髪を少しも乱さず、ゆっくりと首を振った。その所作はサクヤとはまた違った品がある。
「わたくしも、かつては熱情に身を任せた女です。あなたのその思いが、もはやこの里に収まるはずの無いことは、分かっています。ですから、代わりに私にナルを下さい。私が、あの子を大巫女にして見せます。ククリ殿は、この里をでて、倭国へ渡ればよろしい」
ナルの運命に関して、サクヤと自分の見解は一致していた。今は素質が無いと言われているナルには、今年の春迎え日までに何かが起きるということだった。
それは巫女としての力の覚醒だろう。
そして春迎えの日、まるで示し合わせたかのように倭国の使者が訪れナルを女王として求めるのだ。
だが、ならば、覚醒させなければ良い。春迎えの日まで、あらゆる接触を避け、宮か家に籠もらせていればそんなきっかけは訪れないだろう。そして春迎えの日に使者が訪れた時、自分が名乗り出れば良いのだ。
そうすれば、自分は自由になれる。自分こそが倭国へ渡って女王となるのだ。国を治めるのだ。
その時、記憶はさらに遡り、気がつけば幼い日のことを思い出していた。