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第五章 誓約 第四十九話 熊襲の王

 白い翼は澄んだ空を切るように飛び続け、雲よりも高く上ると、並び立つ山々とその向こうに煌めく海の姿が見えた。海岸の近くでは魚や貝を捕るための小さな船がいくつも出ている。だが、何より目を引くのが半島へと渡る貿易船である。その背には白玉や青大句珠(翡翠)、色とりどりの織物が積み込まれており、それらは半島に渡って優れた鉄や艶やかな絹となって返ってくる。

 あの海の先にはどのような国があるのか、一瞬そんな事が気になったが、ククリは自分を戒め、すぐに思考を元に戻した。

 改めて意識を集中する。

 眼下にはまだ自分は一度も行ったことのない倭国の王都が見えた。

 奪還された王都は前にも増して栄えている。

 周囲にはたわわに実った稲穂が風に揺れ、時折海と同じような小さな波を作っており、人々が住む区画への入り口に立ついくつもの櫓やぐらでは、日に焼けたいかつい男たちが鉄の武器を持って構えていた。

 あの武器は半島のものだろうか、それとも王都で作ったものだろうか。ククリにはそのことが気にかかる。

 さらに上空を進むと、あちらこちらにぽつぽつとだが、嘶く馬が見えた。馬は出雲の置き土産であろう。だが倭国の男たちはずいぶんと馬になれており、中にはここで生まれただろう子馬の姿もあった。

 ククリはひやりとする。倭国は食料が安定し、半島への交易によって以前にも増して様々な武器を、そして馬という機動力も手にしている。これが全て倭国内で生産が出来るようになっていれば、もはや自分たちには勝ち目はないのではないか。おまけに倭国には今も太師張政がいて、泉のように湧き出る知識と不思議な力でこの国を守っているのだ。

 そこまで考えて、ククリは自分の意識を忠実な鵄から自らの身へと戻した。

 遙か天空にあった眼は、すぐに薄暗い闇へと変わる。視線の先には家の中に点される灯りが揺れているのがどうにか分かるが、それらが照らすものまでは輪郭程度しか分からなかった。

 これが、今のククリの本来の視界だった。

 それでももはやずいぶんとこの身と生活には慣れており、さほど不自由はしていない。いざとなれば先ほどのように、動物や鳥に意識を飛ばしてその眼を借りることが出来たし、なにより熊襲の女たちやサラ婆が細やかに世話をしてくれていた。

 目を閉じるとすぐに敏感になった嗅覚が働き始め、家の中の灯りの獣油や毛皮、くべられて焼ける樹の匂いがし、すぐ横に、年老いた者特有の体臭を感じた。


「ふむ、王都はどうじゃった?」


 しわがれた声に反応し、ククリは傍らにいる老婆に顔を向ける。彼女には老婆の顔格好をはっきりと見ることはできないが、皺で顔が埋もれているほどの高齢であるのは分かっている。


「サラ婆、倭国は日に日に富み栄えている。このままでは、いつの日か熊襲の本拠に攻め込まれたら、まず勝ち目はない」


「お前はどう見る?」


「・・・すぐには危機はないと思う。現実を考えても、倭国と熊襲の休戦協定は以前のままだし、倭国は半島の利権と撤退した出雲へのけん制で、それどころではないのでしょう。けれど、いずれそれらの問題にかたが着いたら、この熊襲は倭国に飲み込まれる」


 サラ婆は、小さな頭をこくんと縦に振った。


「儂の太占もそう告げているよ。だからこそ、今、やつらはアワギハラの譲渡など認めまい」


 ククリの顔を灯りが照らし、端正な輪郭に沿って影を作った。

 かつての臨時王都、アワギハラは今や倭国と熊襲にとっての大問題となっていた。王都の出雲占領時代、双方が多くの資材と人を費やして築いたこの拠点は、果たして誰のものであるかというのがその根本である。

 投入された人手で言えば、王都をそのまま捨ててきた倭国側が勝っていたが、熊襲側も多くの人手を提供し、体制が整うまで相手の食料等を全て賄ってやったという自負があった。自分たちがいなければ、臨時王都は完成せず、王都を奪還することもかなわなかっただろう。倭国側は彼の地は元々倭国の土地だと主張しているが、お互いの勢力圏が常に変動していた時代の話であり、今回の倭国への『貸し』を考えれば、ともに築いたあの土地を譲るというのは、決しておかしな話ではないのだ。

 アワギハラは以前の倭国王都の南にある小さな拠点というだけではなくなっている。いざというときは、そのまま倭国の王都となり得たこの豊かな地は、東には海も近く、中継の港さえ造れば、半島との交易の可能性も秘められている。

 なにより、かの地は将来、倭国と熊襲が対立した時、どちらにとっても最重要拠点となり得るのである。その戦略的価値を考えれば、なんとしてでも手に入れておきたい場所であった。


「私たちには、あの地が必要だ。必ず、倭国にも認めさせてみせる」


 炎の揺れるククリの顔に、サラ婆は膝で歩いて近づいた。


「お前は儂の術が上手うなった。やはり素質があるのだね。獣に意識を移すなど、普通は十年はかかるものなのだけれど。お前はもはや、神の声を聞くことは出来なくなったと言うけれど、こういう技術で十分補っていけるものさ」


 サラ婆はククリを自らの孫のように愛おしげに手を握ると、うんうんと喜んで頷いた。

 しかしすぐにククリに突き刺すような視線を向け、方眉を上げて顔を寄せる。


「王都を見るのはつらくなかったかえ」


「どういう意味か」


 ククリは動揺を悟らせまいと、姿勢を正す風を装って手を引こうとしたが、サラ婆は信じられない強い力で決して彼女の手を離さなかった。


「お前が王都を見るのは二度目だ。最初は阿蘇の神に追われ朦朧とした意識の中で、王都奪還の戦いを見ていただろう。そこに、倭国の王子が映っていたはずだ」


「それがなにか」


 サラ婆はククリの敵意を感じてそれを受け止めると、大きなため息をついた。


「ククリ、人は生きていれば物事を純粋に一つの心で見ることは難しくなってくる。雀の声を聞けば雀の姿、花の香りを嗅げば花の姿を。雀の飛ぶ青い空や食べる稲穂や、その花の咲く季節にある全てを思い出すだろう。愛と憎しみも人の記憶は、おなじなのだよ。王都を見て、あの男を思い出したのだろう」


 ククリはその問いに答えず、立ち上がり土色の衣を翻して外に出た。空には先ほどククリが飛翔していた青空があったが、彼女は眼ではそれはぼんやりとしか分からない。それでも脳裏にはあの青空が描かれていたし、頬を撫でる風は、強さは違えど先ほどと同じ風だった。

 気がつけば、足下に荒いと息があり、ちくちくとした硬い毛が太もものあたりにすり寄せられていた。

 ククリは心をほぐされたような気になり、しゃがみ込んでハヤトの大きな頭を撫でてやった。


「父上に報告しに行く」


 中のサラ婆に向かって言ったつもりだったが、ハヤトは主人の命令だと思ったらしく、長い尾をぴんと立てて真面目な顔になる。ハヤトはクマナ媛の飼っていた狼と犬との混血であった。常にクマナとともにあり、その最期を看取った彼は、まるで遺志を受け継ぐかのように今はククリに従い、生活を助けていた。

 ククリの声が陣営にも響くと、すぐに髭面の男が馬を引いてやってくる。熊襲にとって、アワギハラ経由で手に入れた貴重な馬である。ククリが前方に熱い吐息を感じて手を差し出し、愛馬の頬を撫でれば、それに応えるように嘶いた。

 髭面の男は四つん這いになって台になろうとしたが、ククリは飛び跳ねるとそのまま馬に跨がり、走り出した。後では男が驚きの声を上げて見送っている。このように馬を恐れずに操ることが出来るのは、熊襲では今でも珍しいのだ。まして、ククリは眼が不自由であるというのに。馬は心地の蹄の音を打ち鳴らし、速度を増しつづけてすぐにククリの長い髪が風で背に全く付かなくなっていく。その後ろにはハヤトが駈けてくるのが分かった。

 馬を操ることは、それほど難しいことではなかった。かつて、神の声を聞こうとしていたように、馬の言葉を聞こうとすれば良いのだ。そして自分の意思を馬に伝えれば、後は全てうまくいく。その気になれば、馬の意識を乗っ取ることさえ出来るのだ。

 背の高い草むらを駆け抜け、高い丘まで駆け上がれば、見渡す限りの大地の緑と、空の青を背負う一人の男の気配があった。丘に吹く強い風をたった一人で受け止めている。

 やはりここにいたという安堵と、供もつけずに不用心な、とククリは早足でイサオのそばへと寄った。

 この熊襲の拠点は、筑紫島南部に点在する熊襲の重要拠点の一つであったが、いつ倭国の諜者が潜り込み、族長の首を狙っているとも限らないのだ。

 熊のような巨体に鋼のような髪と髭の豊かな男が熊襲の族長、王である渠師者イサオであった。顔の造形は今のククリにはよくわからない。だが、クマナを失ったあの日、自分を養女にすると言ってくれた日、この身体で生き抜くと誓った日、抱きしめてくれた時感じられたのは、彼の太い毛質と巨樹の幹ような体躯だった。おそらくくっきりとした二重の鋭い眼光も、荒々しいといわれる熊襲の男にふさわしく鋭いのだろう。豪胆なのだ。 

 だが、ふとどこか気のいい老爺のような雰囲気を醸し出すようなときもあった。

 イサオはククリの内心を見抜いたかのように、低く丘と空に響く声で弁解した。


「心配するな。今は倭国にとっても、俺に死なれては困るはずだ」


 ククリは頷いて馬を飛び降り、追いついてきた息の荒いハヤトの尻尾をつかんでイサオのすぐ側までたどり着くと、先ほどの見た倭国の状況を事細かに報告した。倭国の領内は戦乱から完全に立ち直り、体制を整えて勢力を増しつつある。以前あった、部族間の小さな戦いも今は全くなく、倭国王は国内の意思統一を完全に成しているようだった。

 熊襲にとって、これは大変な脅威である。しかし。


「はい、いかに力を取り戻した倭国といえど、今、出雲と半島に加えて、南の我らと戦うのは避けたいでしょう。それには父上に、熊襲をまとめておいてもらわなくてはなりませんから」


「うむ」


 ただし、それでも二人は暗黙の内に、倭国が出雲と半島の問題をかたづければ、次は熊襲であるという認識を持っていた。


「今、半島と出雲に向けられている戦人が、全て熊襲に向けられることを思うと今から寒気がする。その時、半島と出雲の鉄や人手を吸収していることを考えれば、未だかつて無い厳しい戦いになることは必定だろう」


 もちろんそれは今すぐにでは無い。だがその備えとして、アワギハラという拠点を確保しておくことは、最低限必要なことである。


「けれども父上、やはり一番恐ろしいのは、太師張政であると私は考えます。あの者の真なる力はいったいどれほどのものなのか」


「お前の、かつて巫女だったものとしての意見はどうだ」


「・・・まったくの未知です。アワギハラで何度か会った際や、人から伝え聞いた話をまとめても、およそ私の知る巫女としての『流派』のようなものとは全く別のところにいるようなのです。例えば、降雨を行う際、巫女ならばそれが豫国の者であろうと筑紫の者であろうと、自分の奉る神、その土地の神、あるいは、自分の一族の神に降雨という願いを訴えてその力によって雨を降らせます。しかし、張政はそこを飛び越えて、自らの意思で雨を降らせることが出来るように感じました。まるで、神が宿っている者のように、あるいは、神そのもののように」


「恐ろしい」


「これは、サラ婆の行う術というものに似ています。神の力を借りるのでは無く、森羅万象の法則から、信じがたい奇跡を起こすのです。こうした技術が大陸や半島で発達しているのだとしたら、やはり、張政が大陸から来たというのは間違いないでしょう。だからこそ、奴の正体、その知識と神秘の力の正体を突き止めることは難しいのです」


「謎の敵と戦うほど、難しいことはないな」


 イサオがうなり声を上げると、重い沈黙が流れた。


「父上、私を大陸に行かせて下さい」


 その言葉に、さすがの熊襲の王も思わず声が荒くなる。


「何を言うのだ、お前を大陸に行かせるなどととんでもない。良いかククリ、もし倭国太師の過去と秘密を探ろうとしているのならば、なにも大陸まで行く必要は無いのだ。確かに現地に行けば、もっともわかりやすい答えが得られるかもしれない。しかし、今、半島、大陸に行くことがどれほど危険かと言うことも考えなければならない。そもそも太師の秘密を探る方法は、それだけではあるまい」


「といいますと」


「自分の知りたい事柄、真実というのは、いつも自分の目で確かめられるわけでは無い。戦がそうだ。我らは今、倭国が熊襲に攻めてくる事について、それがいつ頃かという問題を抱えている。その時期を考える時、お前の術で倭国の様子を見るだけでは不十分だろう。半島と出雲の情勢、兵たちの動き、食料の備蓄の具合、季節、天候、部族間の連携、それらを総合して導き出す。太師張政に関しても、同じ事をすれば良いのだ」


 イサオはククリの掌を優しく握りしめた。


「しかし、大陸へ行く目的は、それだけではないのです」


 ククリは日に焼けた顔を、父の双眸に向けた。


「アワギハラを押さえ、太師張政の秘密を探るとともに、熊襲が今しなければならないことがあります。それは、いずこかの国と同盟を結ぶことです。倭国が半島へと乗り出したことについて、大陸はまだしも、半島の国々は警戒をしていることでしょう。もし半島の馬韓、辰韓、弁韓、高句麗、あるいは大漢(後漢)、それらの国々と同盟を結ぶことが出来れば、倭国に対するけん制になりましょう」


 イサオはおおっと感心するように頷き、豊かな髭を撫でた。


「見事だ。さすがは、我が娘ククリだ。よく大局を見ている。だが、実はその手はすでに打ってある」


 イサオが、実はすでに二十年ほど前から半島と大陸に向けて多くの諜者を放っているのだと説明すると、ククリは言葉を無くし身震いをした。

 かつて、臨時王都時代に熊襲が多くの場所に諜者を放っていたことは、クマナが自分と帥大のことを知っていた時点で察しはついていた。さらに今でもククリが鵄の目を使って倭国の情報を伝えても、イサオはすでに知っていたということが多々あったこともあり、熊襲には情報を集める秘密の集団があるのだと考えてはいた。

 だが、今自分が進言したことを遙か昔から実行していたとは、この王はなんという頭脳の持ち主なのだろうか。

 さすが、筑紫南部のいくつもの部族を束ねるイサオである。

 倭国王にしてもイサオにしても、指導者という者はこうも偉大なものなのか。


「そんなことは初めて聞きました。会議でもだれもそんなことは、口にしたことは」


「もちろん、これはほとんどの者が知らない。隠しているのだ。お前だから話した。だからここであえてお前が行く必要は無い。お前は諜者に向かない」


 イサオが一際きっぱりとした口調で言った。


「しかし、私は熊襲のために何か恩返しがしたいのです」


「それならば、お前とサラ婆の術というには、助けられているさ。クマナから聞いているかもしれんが、昔は熊襲にも巫女を束ねる大婆様がいたが、先代が亡くなってからはずいぶんと力の弱い女たちばかりになってしまっているからなあ」


「・・・私は、もう巫女としての力はありません」


「いや、その知識はとても重要だ」


 イサオはククリの綺麗な形の掌を握りしめた。全身に、イサオの熱い血が巡るようにあたたかい。


「私を、一度豫国に使節として送っては下さいませんか。豫国から、私の時と同じように、優れた巫女を連れて帰れば」


「やめておけ」


 その声色には明らかな怒りが含まれていた。目の前で、イサオが眉をつり上げ、顔をしかめているのが目に見えるようだった。


「今、豫国には近づかない方が良い」


「なぜですか」


「これは勘だが、あの国は今、危険な気がするのだ。どうも騒ぎがあったという噂も耳にしているしな。それに、あそこは元々他国やほかの地域との正式な交流をしないだろう。同盟はおろか、巫女の派遣などお前の時が特例中の特例だったはずだ。それに」


と、イサオはククリの肩に手をやった。


「お前もつらかろう」


 心を掴まれたように身が震え、ククリは俯いた。

 一際強い風が髪を揺らし、一瞬自分が川の流れの中にいるような錯覚を覚える。


「全く、ここ数年はまことにいろいろなことがあったものだ」


 イサオがしみじみと言った。

 ククリがふとハヤトに意識を移して、目を借りる。今、二人が立っている丘の上には、クマナ媛の墓がある。集団墓地の倭国と違い、熊襲の貴人の墓はこうして下々の者とは別のところに造られるのだ。クマナの遺体は、石の棺に入れられてこの丘の土の中に埋められているのだった。

 盛り上がったところに、深紫の菫の花がいくつも供えられ、花びらが揺れている。

 ククリは風で乱れる髪を押さえながら、今の自分の立場を改めて考えた。

 かつて、自分は豫国の巫女であり、次期大巫女と目されていた才気あふれる女だった。それが倭国王子帥大の招きで倭国へと渡ったのが、もう七年も昔のことである。

 当時の倭国と言えば王都を出雲に奪われており、その拠点はアワギハラに移されていた。大神のお告げによれば、自分はそこで巫女として、女王になるはずであった。だが、倭国王や帥大の兄弟、そしてなにより大陸より渡ってきた謎の男、張政の妨害で豫国でのような巫女の役目は果たせなかった。王都奪還戦が迫る中、阿蘇へと登りこの筑紫島の神を味方につけようとしたが、それも失敗し、自分は多くのものを失った。

 それは自分の巫女としての主たる力の喪失もあったが、今にして思えば、それは最大のものでは無い。

 恐らく、唯一友であり、最も愛を与えてくれていたクマナは自分を守るために死んでいったのだ。

 豫国で次期大巫女といわれ、慢心し、この地に心を開かなかった自分に近づいて来てくれた友である。倭国では何の役にも立たなかった自分を、どうして彼女は慕い、自らの命を賭してまで守ってくれたのだろうか。彼女が抱いていた愛とはなんだろう。

 それは今でもククリには分からなかった。

 そして、もう一人、失ってしまった者がいる。

 ククリはまぶたの裏で、帥大の面影を描いた。日に焼けた肌、初夏の日差しのような笑顔と低い声、太い眉毛、自分を抱いた太い腕、そしてかさついた唇。

 それは全て遠い昔である。

 全てを失った自分を、熊襲の長は自分を娘として迎えると申し出た時には、ククリは信じられなかった。熊襲の王から見れば、自分は愛娘を死なせた女であり、もはや巫女としての利用価値も無きに等しいのである。殺されるのならまだしも、自分の娘に迎えたいというのは正気の沙汰では無い。

 なぜと尋ねるククリに、熊襲の長はこう言った。


「娘が守って死んだ者には、娘の魂が宿る。お前は儂の娘だ」


 後で知ったが、それは、この熊襲独特の考え方だった。

 その言葉に、自然と涙が出たのはなぜだろう。


「ハヤヒは、元気に育っておるか」


 イサオは声色を明るく変えて、孫のハヤヒのことを尋ねてきた。だが、二人の間に流れる空気は先ほどと何一つ変わっていない。


「はい、この前連れてきた時と同じように、元気に走り回っておりますよ」


 息子の顔を思い浮かべながら、ククリはサラ婆の言葉がよみがえってきた。人はどうしても、一つのものを見る時、それと関連したものも連想してしまうものなのだ。

 例えば、子どもの顔に両親の面影を探し、思い浮かべてしまうように。


「あの子は、熊襲の切り札となるだろう」


 イサオはそれほど嬉しくないような声だった。

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