先ほどまで確かにナルがいた自分の左側が、眩しいほどに輝き、イワナは首を縮め右手で両目を守った。まぶたを閉じ、この輝きの果てにナルが姿を現すのだと思って再び目を開けると、そこには見知らぬ若者が立っていた。
若者は儀式に使うような白い衣服で、優しい笑みを浮かべている。
その容姿は、先ほどナルが語った青年そのものである。そして、なにより、彼はかつて自分が愛した者にうり二つであった。
「ああ・・・あなたは」
声が声にならず、震えて涙だけが零れてくる。この目にこの凜々しい青年の姿と面影をどうして忘れられるだろうか。少しでも長く映したいと思うのに、視界は滲み、体が嗚咽で曲がってしまう。
青年は、真っ直ぐにイワナを見つめていたが、イワナが嗚咽のあまり地に伏しそうになると、そっと前にしなやかな体を出して支えた。なんと、力尽く逞しい腕であろうか。
イワナは青年の熱を持った皮膚に触れると、さらに頬から涙がこぼれ落ちた。
「どうして、どうしてここに?」
怖いくらいの喜びとともに、イワナの脳裏にはあの日の光景が浮かんだ。泣き叫ぶ赤子を葦舟に乗せて、川に流したやけに星が明るいあの夜。川の流れの音と水の冷たさ、鳴いていた死肉を食らう鳥や虫の声。それが父王が自分に下した罰だったのだ。
左右に助けを求めても、罰の滞りない実行を見届けるために自分を囲んでいた兵も侍女たちも、誰も彼もが冷たい目顔をしており、あのとき、自分は世の中の恐ろしさを知った。
「母上にお会いしたくて、ここまでやってきました」
「母と呼んでくれるのですか」
握りしめた手は驚くほど大きく、もうあの泣いていた赤子ではないのだと知ると、それが寂しくも嬉しくもあった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。私はあなたに殺されたって文句は言えません」
「どうか、そんなことを言わないで」
青年は逞しい腕で、母を包み込んだ。彼の体温が、さらにイワナの目頭を熱くする。
「本当に会いたかった」
「ええ、私もよ」
イワナは青年の肩に額を当てて震え泣きながら、彼も涙を流しているのだと分かった。
当たり前のことである。誰にもはばかることはない。一体世界のどこかに母と子の再会の涙を咎められるものがあるだろうか。こんな日が来るとは夢にも思っていいなかった。あの日泣かされた赤子は、もう生きているとは思っていなかった。
だが、どうしてこんな場所にいるのだろうか。
「ナルが、春迎えの日に、私をもてなしてくれたのです」
その言葉でイワナはびくっと震え、流れていた涙が止まった。そして体を引き、近くで青年の顔をもう一度よく見ると、そう、と目を閉じ、朝露のような涙が一粒落ちた。
「母上、この里と国を救ってください」
「ええ、それはもちろん、そうしたい。私も一度はこの世を恨み憎み、滅びを念じた女です。あの大蛇に立ち向かうことは怖くはありません。けれど、どうすれば」
「ナルに、力を貸してやってください」
目映い閃光の後に、ナルの周囲に残ったのはまた暗闇だった。今度はどれだけ大声でイワナを呼んでも返事は来ず、ただ自分の声が闇にむなしく響いている。
周囲からは次第に低く唸るような音が聞こえてきて、ナルを威嚇するように取り巻いている。耳を澄ますと、ナルはその音が、実は無数の人々の唸り声だと気づいた。
目を閉じ、先に耳を澄ます。
ナルは全身に寒気が走った。それは全て怨嗟の言葉だった。あの、年送りの儀式での惨劇そのままに、無数の女たちの呪詛の声が呻きとなって自分を取り囲んでいるのだ。ナルは恐ろしくて、目を閉じ、耳を塞いでその場にうずくまった。
他の誰かのために、自分の意思とは関係なく犠牲にされるというのは、どれほどの無念だろう。
ごめんなさい。ごめんなさい。私はあなたたちを助けられなかった。あなたたちを差し置いて生き延びた。
だが女たちの声は、ナルの耳を塞ぐ手を振り抜けるかのようにどんどんはっきりと聞こえてきた。能力、容姿、若さ、身分、優れた者への嫉妬。近しい者への悪意。孤独。劣等感。
決して触れたくないそれらは全て、ナルが長年封じ込めてきたものでもあった。
この里に来てしばらくの、同輩たちからのいじめ。それから逃れるために、巫女としての力をつけようと努力し挫折し、今度は人の顔色を伺い、おどけて無欲を演じることで保ってきた人間関係。
思えばキョウは、見抜いていたのかもしれない。
他者から他者へ。妹から姉へ。あるいは他者から自分へと向かうそれらの感情よりも、自分の中に同種の叫びを認める事の方が怖かった。
(姉様、ごめんなさい・・・。私は、まるで姉様のように振る舞ってしまった。姉様、私はあなたに嫉妬していたのかもしれません。今まで気づかなかったけれど、きっと、そうだったのです。あなたの美しさや、才能、優しさ、全てが太陽のように眩しすぎました。あなたはこの里に残るべきだったのです。倭国などという知らない、滅んでも良い国など気にせずに、ここに残れば良かった。あなたがいれば、こんな事にはならなかったはずなのに。私ではだめです。サクヤ様はああいっていたけれど、私ではダメなのです)
『お立ちなさい』
渦巻く声の中、清冽な声が響く。
ナルが顔を上げると、そこにはその身の輪郭を静かに輝かせる、サクヤの姿があった。サクヤはナルの正面に立っていた。ごく平凡な巫女の白衣を纏い、儀式用の金冠や白玉も身につけてはいなかったが、いつ見た彼女よりも若く見え、怨嗟にまみれた闇の中でただ一人、光の眷属のようだった。
『顔を上げなさい。そのように無様な姿は、大巫女にふさわしくありません』
「大巫女」
相手の戸惑いなど無視し、サクヤは声も表情も厳しく、微塵の優しさも感じさせはしなかった。
『あなたが新しい時代を継ぐ者であることは、私は初めて会った時から知っていました。だから、怖かった』
ナルは自然と立ち上がり、サクヤの視線を受け止めた。
『私の時代が終わることも、この国の時代が変わることも、怖かった。大神は遠くなり、この国が傾く・・・私は時代の継承者として、それに立ち向かいました。諸国の王を呪い、大神を留めるためにあんなものまで用いました』
「あの袋の中身・・・」
サクヤは少し目を伏せた。
『あれは、女が腹に持ち、赤子が育つ子宮というものです。巫女団でも教えていたでしょう。女が男よりも、大神に仕えることについて優位にあるのは、子宮があるからです。本来子を宿し、育てるこの子宮を依り代として、神を降せるからこそ、巫女団は作られました。私は大神を私たちに近いところに留めるため、子宮という依り代を使ったのです。それは一つではありません。・・・人の体内にある子宮を、調達する方法が清らかなものでないことは分かるでしょう』
「どうして、あなたがそんな恐ろしいことを」
『大巫女だから』
サクヤはその言葉だけ、嬉しくなさそうに微かに笑った。
『だから私はどんなことでもやりましたし、出来ました。でもこれからはあなたがそれをするのです。光も闇も、澄みも濁りも飲み込み、それをありのまま制御なさい』
サクヤから放たれる言葉に、ナルは押しつぶされそうになった。
「無理です。そんなこと、私には出来ません。許せません。それに、私にはそんな力はないのです。だって私には」
『子宮がない』
瞬間、冬の氷雪に、素肌をなでられたように、ナルはすくんだ。
『知っていたわ。それは子を産んだことのある、イワナも同じようなもの。だから、あなたたちには、巫女の力がなかった。イワナも人の体に詳しいから、きっとあなたの成長の過程で気づいていたのでしょう』
「それならば、お分かりでしょう。私には、巫女としてこの里に留まることだけで精一杯で、サクヤ様の後を継いで、大巫女になんて・・・」
『私の予知では、ククリが大巫女を継ぎ、あなたは倭国女王となる運命でした。それは間違いなかった。でも、ククリは巫女でありながら自分で運命を選択し、そしてあの日、あの春迎えの日に、運命は動いた』
サクヤの瞳は、一際鋭くなる。
『あの日、この山に、母を一目見たいと迷い込んできた哀れな御魂に、あなたは最高の春迎えをしたのよ。それは、ただ少年の姿をしたその日限りの神を、普通にもてなしただけかもしれない。けれどもそれは、神聖な儀式だったの。あなたはその神に愛され、魂の一部とし、子宮に変わるだけの依り代まで与えられました』
ナルは、汗ばんだ手で胸の勾玉を握りしめた。
『それは彼の地の王家のもの。遙か昔、豫国の王家と祖を同じくする一族の由緒ある祭器です。その秘宝を依り代に用いれば、あなたは大巫女としての力を得ることが出来る』
それでもナルの震えは止まらなかった。今、自分が運命に導かれるままに、生まれ持つことのなかった強大な力を手に入れたというのは、不思議と理解できていた。もはや、大巫女になるのは自分以外ないのだろう。
だが、大巫女という、サクヤがどんな事でもしなければならないというその地位の重さに、震えたのである。
なぜなら、大巫女とは豫国の最も過酷な生贄だということにもはや気づいてしまったからだった。
「それでも、私はあなたのように決断が出来ない」
その言葉にだけ、サクヤは優しく答えた。
『イワナが助けてくれます。あなたなりのやり方で良いのよ。私は私の時代を逃げずに全うした。あなたも、ただ進みなさい』
サクヤはナルに歩み寄り、勾玉を握りしめる彼女の右手をそっと両手で包み込んだ。
その手のひらはかつて知らないほど温かく、顔さえ覚えていない母を感じた。
その瞬間、ナルは椿の花が零れる光景が浮び、我に返って正面を見るとサクヤの声も姿も二度と見つけることは出来なかった。
サクヤの薄い輝きが消え去ると、あたりはまた怨嗟と呪詛の闇となる。だが、ナルはもはやそれを恐れてはいなかった。
この勾玉、あるいはこの身に宿った力が、自分が何をすれば良いのか教えてくれている。全てはそれに委ねれば良い。だが、決して自分を失い、制御を失ってはならない。その事は死を意味するというのも、ナルにはなんとなく分かっていた。
ナルはもう一度両掌で勾玉を握りしめ、目を閉じて愛しい者たちの顔を思い浮かべると、頭上に掲げた。
瞬間、勾玉は再び虹色の輝きを放ち始めた。だが、決して日のように闇を滅する無情で冷酷な光のものではない。
この闇さえも、包み込むような温かさがあった。
輝きに周囲の闇は声を止め、慌てるようにナルの周りを渦のように蠢いた。まるで恐怖しながらも、この輝きに興味があるかのようであった。
(まるで、涙のような温かさだ)
ナルがそれに気づくと、輝きはまた少し強くなった。勾玉の穴に通していた首紐はちぎれて消え去り、ナルの頭上に浮遊した。
すると闇は、勾玉の穴へと目掛けて凄まじい勢いで動き出した。見ようによっては、勾玉が闇の竜巻を吸い込んでいるようにも見えたが、これは闇の意思によるものなのだとナルは分かった。
轟々と音を立てて、闇は穴へと入っていく。
それは、大河の流れが暴れるようでもあり、栓の抜けた器の水が流れ出るようであった。しかし、それらも全て、巡っているものだ。
ナルは目を閉じると、不思議と自分もその流れに巻き込まれ、漂うような錯覚を覚えた。その流れの前には自分は小舟よりも遙かに頼りなく、儚く脆いものだ。だがこの流れの中でなければ人は生きていけないのだ。
自然と涙が零れ、それを吹き飛ばすほどの一陣の風が突然吹いて、再び目を開けると、そこには夜が明け、雲一つない青空の下、日の光に照らされる里と巫女団の姿があった。
家も宮も木々も焼け、雪は溶け、見慣れた景色は黒々としていたが、無事を確かめ合った巫女たちは抱き合い涙を流して喜び合っている。
右に振り向くとイワナがおり、目で何かを確かめ合うと、ナルを抱きしめ優しく頭をなでた。
年送りの儀式を終え、里は新しい年を迎えたのだ。