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第四十六話 炎上

「誰か! 誰か! 早く来て!」


 外からの叫び声に、ナルたちはついにあれがこの里にまでたどり着いたのかと顔を見合わせた。

 しかし慌ててナルとモモが外に出ていくと、そこには黒い蛇では無く、燃えさかる家や宮の炎があった。

 里中のあちこちの家や宮が火の粉をあげて燃えている。雪はそこかしこで溶け出していたが、家屋の火を消すどころではなかった。けれども雪のおかげで、火の勢いは少しは弱まっている。儀式を終えて戻っていた若い巫女たちは悲鳴を上げて慌てて逃げ出し、泉や小川の方へと走っている。

 誰もがもう気が気でなく、あちこちで足がもつれて転げる者や、腰を抜かして動けない者の姿があった。けれども動ける者たちは誰も助けようとはせず、我先へと逃げ出していた。 

 異様な熱気と火の粉を身に受け、ナルとモモは立ち尽くした。


「これは一体」


 火の粉が舞い散る中、一人ぽつんと立つウメの姿のを見つけたのは、ようやくナルとモモが小道へと踏み出したその時である。ウメは煤で顔と服を汚し、裸足で目的も無いようにとぼとぼと歩いていた。ナルはさっと駆け寄って、火傷をしていないか手足を確認したが、どうやら無事のようである。ひとまずほっと胸をなで下ろしていると、モモは神妙な顔でウメを見つめていることに気がついた。


「ウメ・・・・あなた。あなたが」


 モモが何を思っているのかを悟り、ナルはまさかとウメを見た。

 彼女から油の匂いがした。

 ナルが全てを悟った時、モモはウメの頬を打っていた。


「私を救うためにこんなことをしたのね」


「うん、そうだよ。ここは汚れている。汚れきっている。だから清めなければ。これは浄化の炎よ。あはは」


 うつろな目で呟くウメの瞳は、正気のものでは無かった。それでもモモはウメをきつく抱きしめると、優しく背中と焦げた後ろ髪を撫でた。

 一方ナルは思考だけがめぐり、額や脇の下に汗が流れるばかりである。山頂では穢れた神が猛威を振るい、次第にこの里を飲み込もうとしている。だが里は火事で混乱しており、巫女たちにこの知らせを伝えることも、逃がすことももはや不可能である。では一体どうすれば良いのか。天を仰ぐと、すでに黒雲、あるいはあの黒いものがすべてを覆っている。よく見ると、遙か高い黒雲の低空を、黒い大蛇が低い唸り声を響かせて蠢いている。その波動はここまで届き、燃える里が震えていた。

 黒い巨体は黒雲に同化してよくわからないが、凶星のような巨大で紅い双眸が里を見下ろしていた。

 だがその大蛇は、意外なことにこの炎を恐れているようでもあった。すぐに降りてすべてを覆うことも容易なはずであるのに、里に頭を近寄らせては、炎の熱気が届くあたりで止まって声を上げ、首を後ろに引く。この動作を何度も繰り返していた。


「浄化の炎・・・」


 ウメの背中をさすっていたモモがぽつりとつぶやいた。

 なるほど、滅びの権化であるあの大蛇は、浄化の力ももつ炎の力に弱いのだ。だがこの炎もいつかは消えてしまう。どうにかして、この炎の力で大蛇を滅ぼさなくては。



「間違えてはいけませんよ」


 黒い大蛇の頭を睨んでいたナルに、後ろから威厳のある声が響いた。そこにはナルやモモに遅れて、宮から出てきたイワナの姿がある。

 おそらく、一つの勤めを終えたのだ。本当であれば、疲労困憊であるはずの彼女の身なりは整えられており、その表情は、今までとは比べられないほど威厳がある。それでありながら、今までナルにしか見せなかった包み込むような柔らかさも兼ね備えていた。

 豫国の歴史上最高の大巫女を看取った彼女に、サクヤから受け継がれたのだろうか。


「あれを滅ぼすなどということは考えてはなりません」


 黒い空に火の粉が舞い踊り、大蛇の恐れる浄化の炎までもが、まるで破壊の眷属のような印象を与える。

 何の事情も知らず、ただ小川へと逃げた巫女たちはただ震えるばかりだろう。


「イワナ様、けれど、なにか手を考えなければ。このままでこの里ばかりが豫国までもあの大蛇に滅ぼされてしまいます」


「ええ、そう。なんとかしなければ。でも、相手を滅ぼそうとしてはいけない。あの黒い大蛇は、人の罪と穢れの結晶なのよ」


 イワナは遙か頭上の紅い双眸をはっきりと見据えた。


「憎しみ、妬み、蔑み、怒りそして殺意。それはこの里だけのものでも、ましてサクヤ様だけのものでもない。豫国の民全体どころか、人そのものが抱える本性の暗部なのです。だから、それを滅ぼすなどと言うことは、理に反すること。思い上がりです。ごらんなさい。あの大蛇はまさに荒ぶる神・・・それを鎮めてこそ豫国の巫女です」


「どうやって・・・」


「巫女の本質を忘れてはなりません。全ての命を慈しみ、敬う心。ありのままを受け入れ、包み込む真心。清め循環させる。その力を使うのです」


 そんなことはできないと、ナルは目を強く瞑った。自分はあの黒い蛇を見ていたくない。禍々しく、邪悪で、こうして遠くから見ているだけで、炎の熱気とは別に吐き気すらする。そしてなにより、恥ずかしさで震えてしまいそうだった。

 一方で、ああなぜだろう、と分かっていた。自分が震えているのは、破壊や死に対する恐怖からだけではない。自分はあの蛇の中に、自らの一部を見ているのだ。これは自分だけではあるまい。誰もが持つ、穢れた最悪の部分をあの蛇に見て、恥じている。

 それなのに、なぜだろう。どうしてこんな言葉を自分は口にしてしまうのだろうか。


「はい、イワナ様。あの大蛇を愛で包みましょう」


 愛とは何だろう。どうしてこのような言葉が出たのだろうか。だが、その響きは不思議と暖かである。

 そしてその時分かった。この世界は、その温かいものでできているのだ。この世をかたちどる最も小さい粒子の名前がそれなのでは無いだろうか。

 ナルは皺だらけの小さな手をにぎりしめた。

 それをみて、ウメはモモの肩越しに哄笑した。


「あはは、何言ってるの。あんな怖いもの相手に、武器もないのに立ち向かうなんて! 笑っちゃう。この里にもこの国にも、愛なんてどこにもないのに!」


 その瞬間、今まで揺れていたナルたちの長い影が、一際小さくなった。炎が弱まったのだ。頭上の双眸が喜色を浮かべて、一際紅く光った。

 大蛇は歓喜の叫びを上げ、大きくうねると、先ほどから忌々しい視線を向けている女たち目掛けてすさまじい勢いで頭を突き出してきた。モモとウメは悲鳴を上げたが、ナルとイワナは手をつないだまま、立ちはだかるように体を広げた。

 ナルの胸にあった、勾玉が白く輝きだしたのはその時である。


「ナル、その勾玉は!」


 その神秘の輝きにイワナは目を見開いて驚きの声を上げたが、それでも大蛇の動きは止まらなかった。

 ナルたちと輝きは大蛇に一飲みにされ、里には大蛇の黒い巨体が堰を切ったように流れ込んだ。

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