星がいよいよ瞬きだしたその頃、ナルはイワナの宮で黙々と機を織っていた。ものごとを深く考えすぎて疲れそうになると、こうした作業をするのが一番気が紛れる。ククリがいた頃は苦手だった機織りも、今ではすっかり得意と言えるくらいの腕前にはなっていた。この機織り機もかつてはククリが使っていたものだが、今ではナル専用のものである。
『イワナの宮』といっても、そこはもうほとんどナルの家でもあると言って良かった。本来、この宮はイワナ専用であるのだが、ナルの組は解散してしまっていたし、草花や樹液、薬の研究をするのにはこの宮で寝泊まりするのが教える側にしても教えられる側にしても最も都合がよいのだった。
さらに大幹部のイワナには普通なら三人ほどの侍女がいるべきなのだが、誰もやりたがらず、無理に任命しても誰もが怯えてまともに仕事を出来ないのだから、ナルがそれもやるしかなかった。そして、その事がもはやナルは嫌ではなくなってきていた。
あれほど嫌いだったイワナに、親しみを持つようになったのだ。
以前イワナが言ったように、ナルはすでにサクヤから倭国へ行く許可を得ており、いつでもこの里を合法的に出て行ける身である。それでもこの場に残っているのは、生贄をやめさせたいという理由の他に、実は、いまやイワナを実の姉よりも近しく思っているからかも知れないと、最近は自覚しつつあった。
だからそんなイワナに秘密が出来た事は、ナルの心を少なからず落ち着かなくさせていた。既に夜は更けており、イワナの帰りがずいぶん遅いと思うようになった頃だった。
延々と機織りの作業をしていると、外に人の気配を感じた。イワナかと思って立ち上がると、挨拶もせず垂らした布をさっとあげ、盗人のようにこそっと入って来たのは若い女だった。
「レイ、どうしたの」
ナルはまずレイのその姿と目つきに驚いた。幹部に与えられているはずの上等の絹衣や白玉ではなく、この里では誰も着ることのない薄汚れた木綿の服を着ており、本来履くはずの長い裳も履いていない。結い上げてはいるものの乱れた髪とあわせると、ぱっと見は市井の男のようなりである。
レイの中性的な美貌と相まって、まるで少年のようだった。だがその目は凛々しい少年とはほど遠く、怯えきり困りきった者特有のぎらついた目をしている。
その鋭い目の光に、ナルは警戒を覚えた。
「ナル・・・助けて」
「助けてって・・・一体どうしたって言うのよ」
「私は、選ばれたのよ」
「ええ、幹部になったのでしょう。それがどうしてこんな」
ナルの言葉に、レイは苛ついて違うと大声をあげた。言ってから、自身の声の大きさに気がつき、左右を見渡してすぐに縮こまった。ナルもこれはただ事ではないと悟った。
「良かった。イワナ様はまだ帰ってきてはいないのね。・・・ここに来るのは賭けだったのだけれど」
呼吸の荒い旧友に、ナルは紫蘇の茶を勧めたが、レイはすぐに断った。それどころではないといった様子である。
「ナル、私は、生贄に選ばれてしまったのよ」
「生贄って・・・あなたが」
唇をかみしめ、認めるのが悔しそうな表情でレイは頷いた。
そしてナルはレイが初めて参加した幹部会議で何があったのかを知った。
「全て、全てイワナ様の・・・あの婆のせいよ」
激しく深い恨みを込めて、レイは呟いた。握った拳は、爪の先が掌に食い込んで血が滲むくらいになっている。
その血の色を見ながら、ナルはどうしてイワナがそのようなことを言い出したのか冷静に考えていた。恐らく、イワナは一か八かの勝負に出たのである。幹部を生贄という危険にさらせば、とにかく状況は動く。上手く行けば、幹部達は保身のために生贄反対を唱え出し、生贄の廃止にむけて大きく動き出すだろう。
それでもどうなるかわからない危険な賭けであることは間違いない。孤立しているイワナがそれを言い出せば、その他の幹部達の反感を買って、結束して逆にイワナが粛正されるかも知れないのだから。
そんな危険な賭けに出たきっかけは間違いなくあの袋の中身である。あの中身、あるいはそこから導き出された答えが、イワナをそうさせたのだと思うと、ナルは袋の中身がますます気になった。
「お願いよ、ナル。私を助けて頂戴」
手を合わせて懇願するレイは、もはや幹部の貫禄は微塵もなかった。
「助けるって・・・私に何が出来るというのよ」
そこまで言って、ナルはレイがどうしてこんな格好をしているのか気がついた。
「逃げるつもりなのね」
レイは涙を滲ませながら頷いた。
「もう、この里で私が生きていく事は出来ないわ。指導役だったキョウ様の宮にも行ったけれど取り合ってくれないし、私を慕ってくれていた子達も上からの命令で誰も会おうとしてくれないの。だから・・・だから」
「逃げるなんて見苦しい。いっそ潔く、生贄になればいいのよ」
ナルが冷たくはなった言葉に、レイは目を見開き硬直した。レイの中では、ナルがどのように答えるかは予め計算しており、それが大きく外れたようだった。ナルの性格からして、まさかこんなことを言うはずがない、あわよくば手助けしてもらえるはずと思っていたに違いなかった。
「そんな・・・そんな、ひどい。私たち友だちじゃないの。姉妹のように育ったじゃないの」
「今更なんなの。生贄の話をした時、断ったくせに。あなたはサキが生贄になった事を、劣った者の当然の義務だと言ったのよ。今度は優れた者の義務なんでしょう」
ナルは言いながら、自分がこのように辛辣な事を言っていることが怖かった。だが、それでも言葉は止まらない。
「自分は安全だと思っていても、生贄に選ばれる条件なんて、考え方一つでどうにでも変わるのよ。生贄自体、自分がなっていやなものだったら、反対すれば良かったのに。どう、レイ、今ならサキの気持ちが少しは分かるのではない」
ナルが威勢良く言うと、レイも本来の矜持の高さを少し思い出したようで、震えながらも負けじと言い返した。
「私だって、私だって本当はサキの事は悲しかった。でも、でもしょうがないじゃない。私に何が出来たっていうのよ」
ナルの頭に、サキが選ばれたあの時、自分に協力してくれていればという言葉が浮かんだが、それでもあの時仮に二人で抗ったとしても、結果は何も変わらないと言うことは分かっていた。
「・・・せめて幹部になったあの夜に、協力するといって欲しかった。あなたにとっては念願の日だったのでしょうけれど、死んでいったサキや他の娘達の事を思えば、あんな事は言えなかったはずよ」
「そ、それでも何も知らずに死んでいったサキの方が、私よりよっぽど幸せよ」
「なんですって」
「サキは最後まで自分は故郷に帰れるのだと信じていたけれど、幹部の私は、年の終わりに自分が灼かれることを知っている。月の終わりまでの数日、私にどう過ごせと言うの」
ぎらつく眼差しの女は、ナルの知っているレイではなかった。だが、それでもこのまま哀れな彼女を見捨てることなどでできはしないと思った。
もはや彼女の美貌に面影はなく、これから果たす演技のためか粗野で目だけがぎらついた亡者のようである。その彼女はかつてともに暮らした仲間であり、今自分に助けを求めているのだ。
「計画は立ててあるの?」
その言葉に、レイは歓喜して飛びついた。
「ええ、ええ、考えてあるの」
レイの計画は、極めて単純なものだった。ナルが囮となっている隙に、この里から出るというものである。
巫女団の里は幾重もの垣で囲まれているが、そこからの出入り自体はそれほど厳しい規制があるわけではない。険しい山道自体が出入りを戒めているし、幼くして里に来た巫女たちはほとんど記憶になかったが、麓のあちこちに砦があり、そこで厳粛に出入りが制限されているためである。そもそも『逃げ出す』という発想自体浮かばないのだ。
「麓の砦は自分で何とかするわ。だから、この里の垣を抜けるのを手伝って欲しいの」
「垣と言っても、一番外の垣はずいぶん遠いし、そこにもきっと見張りがいるはずよ」
「そう、だからそこだけあなたに囮になってもらいたいの。数がどれほどかは分からないけれど、どうせ彼らは本来私たちの護衛のためにいるから中からの脱走者なんて考えてもいないだろうし、麓に砦があるから少しは気も緩んでいるはずよ」
握られたレイの手は、恐ろしいほど力が籠もっていた。