イワナの宮にいる女性がナルという名前なのを、ウメは知っていた。
彼女は本当に不思議な人物である。誰もが恐れるイワナの脇にいつも穏やかな顔でいて、イワナも彼女にだけは気を許しているようだった。ただ彼女がどういう立場にあるのかは、はっきりと分からない。
春に里に来て、新入りが最初に興味を持つことと言えば巫女としてのしきたりや学習内容だが、二番目はなんといっても人間関係である。里の頂点に大巫女のサクヤ、次にイワナがいるのは誰もが知っていることだが、その後の年齢や能力、派閥、そこから導き出される序列など、複雑な人間関係に幼い子どもたちは夢中だった。
若くとも幹部となって複数の組を統括指導する巫女もいれば、年老いていても組も直属の教え子も受け持つことなく、新入りの簡単な指導だけしている者もいる。しかも幹部であれば誰もが傅いているかと言えばそうでもなく、幹部よりも地位の低い者であっても明らかに発言力の大きな巫女もいる。
例えばイワナなどは大幹部であるが、巫女としての能力は低く、指導力はあるが誰からも恐れられているので慕う者がいない。一方で、レイという先輩巫女はまだ若く幹部でもないが、幹部候補といった立ち位置で才能豊か、冴え冴えとした美貌の持ち主ということもあって、後輩には慕う者が多いということをしっかり新入りたちは分析していた。
いったい自分たちは誰に気に入られ、どのように振るまえば良いのかと、その答えを見つけ出すのに必死なのである。
それを見透かしたイワナは、「賢しいことをせず、ただ精進すればよいのです」と新入りたちに釘を刺す。言っている事は至極正論なのだが、サクヤに次ぐ大幹部であり、一方で誰からも慕われていない彼女がいうとなんだかおかしくもあった。
それでもナルという人物がどのような地位にあるのか、把握している新入りは誰もいない。
大幹部イワナの直属なのだから、それなりに高い地位であるとは思うのだが、なにしろ彼女は新入りが立ち会える小さな儀式には顔を出したことがないし、どこかの組を受け持っているわけではないので接する機会がまずない。それでもときおり、里のあちこちで姿だけは見ることが出来て、薬となる草花を集めていたり、夜に星を眺めているということだけは噂で知っていた。だからその誰も情報を持っていないナルと実際に話し、自分の名を覚えてもらっているということは、ウメにとってはなんだか自分だけが特別な秘密を知っているようで気分がよいものだった。
イワナの宮の前まで来ると、ウメの鼻にいつも独特の匂いが漂ってきた。
当然ここで暮らすイワナには匂いが染みついており、これがいまや誰もが世話になる薬によるものだと知っているのだが、それでもやはり臭いものは臭い。イワナが不人気なこともあって、イワナが近づくと大げさに鼻をつまむ仕草をして面白がる新入りもいた。
挨拶をして中に入ると、やはり中にはナルだけがいた。
ウメはほっとした。この時間ならば、イワナはいないはずだとウメは目星をつけていたのだ。
「あら、またあなたなのね、いらっしゃい」
気さくな声で話しかけナルの眼差しは、イワナとは比べものにならないほど優しかった。ウメはほっと一息ついてお辞儀をすると事情を説明した。
「熱の出やすい子なのね。この里の冬は厳しいから、気をつけないと。今用意するから、あなたは紫蘇のお茶でも飲んでいなさい」
ナルはそう言って手慣れた手つきで茶を入れて器を渡すと、奥に行って木綿の袋に黒い粉を入れだした。
この流れをウメはもう何度も経験しているが、あの黒い粉が一体何なのか全く知らない。前に予め用意しているものが足りなくなって、何か黒く細長いもの、恐らく何かを乾燥させたものをかりかりと音を立てながら磨り潰しているのを見たことがあるが、あれがなんなのか全く見当も付かなかった。
恐らく木の根か何かだろうと思いながら、ウメは何とも言えない良い香りの紫蘇茶をすすった。すぐに身体がポカポカしてきて、気持ちが落ち着く。おまけにこれを飲んだ次の日には、冷えも軽くなり、肌が潤っているのだから、まさに神秘の技である。ウメはこのナルという女性がどんどん気になるようになっていた。
ナルは博識で、この紫蘇の茶にしても、イヌエという名前もある植物だということ、漢の優れた薬師がこの植物から紫色の薬を作って死者を蘇らせた逸話があり、その為「紫蘇」という文字を使って表すと言うことを教えてくれた。
「はい、どうぞ。モモもだけれど、あなたも季節の変わり目には体調を崩しやすいから気をつけなさいよ」
そういって袋を渡してくれた時、触れた手は驚くほど温かった。おまけに彼女が近づくと、薬とは別の花のような不思議な香りがするのだ。
ウメは一瞬あまりの心地よい香りでぽうっとなったが、そうはなるまいと堪えてむしろ気を引き締めた。そして、勢いに任せて質問した。
「ナル様は一体何者なのですか」
その時のウメの表情がよっぽど張り詰め、緊張していたのか、ナルは一瞬きょとんとしたあと大きく笑い出した。するとむしろ今度はウメの方が呆然となり、突然笑い出したナルを不思議そうに見るしかなかった。
「あはははっ、・・・はあ、ごめんさない。だけど、あなたがいきなり変なことをいうものだから。それにナル様だなんて、私、今まで誰からも言われたこと無かったわ」
笑い涙を拭いながら、ナルは弁明した。そして目の前の少女の瞳から、この者は本当に自分を謎に思い、また敬意を持ってくれているのだと理解すると、いくらか真面目な顔をしてウメに語り出した。
「私は、イワナ様のもとで指導を受けているだけの者よ。巫女としての才能もなくて、地位なんてこの里であってないようなものだわ。才能がないから、儀式やみんなの指導にも顔を出せないのよ」
「けれどイワナ様はサクヤ様に次ぐ大幹部です。その方を指導役に持っているというだけでも、普通ではありません。何か大変優れた能力があって、見込まれているのではないですか」
ウメは思った。やはりこの女性はなにか特別な密命を司っているのではないか。例えは時期大巫女にと目されている人物であり、ここで秘密の特訓をしているのではないか。自分はその重大な秘密に触れようとしているのではないか。そう思うと、興奮して自然と鼻息が荒くなった。
「ないない。残念ながら。才能がないから、イワナ様に薬の作り方や星の動きに関する事を教えてもらって、この里に置いてもらっているだけなの。そうでなければ、きっとすぐに追い出されているわ」
「星の動きですか」
「あ、そこに興味を持ったのね」
ナルはなんだか嬉しそうだった。
「豫国のミカドの一族、中でもこういう巫女の仕事を任されていた者たちはね、大昔には霊力もそうだけど、天空の星々の動きで吉凶を判断したらしいの。時代が下るにつれて、自分たちの感覚、神々と交流する力の方に比重を置くようになったから、段々と廃れていったみたいなのだけれど。でも私はイワナ様からご指導頂いて、この星の動きを学んでいるの。これを完璧に修めれば、霊力のない私でも世の中の動きを予知することも出来るかも知れないのよ」
ウメはやはり興奮した。ということは、この女性はこの里でイワナとたった二人の古代の叡智の継承者というわけなのではないだろうか。巫女の価値観や考え方に染まっている他の者とは違い、今年入ったばかりのウメには、今現在のナルの立場がそう好意的に解釈されてその目に映っていた。
「す、すごい!」
興奮して顔を真っ赤にするウメをよそに、まるで凍える山が動いてきたかのような勢いと冷気でイワナが宮に入って来たのはその時である。
ウメは皺があり艶の無いイワナの顔を見上げてのけぞると、思わず身が固まり、赤くなった顔が一気に蒼白になる。
イワナはすぐに自分の宮に以前見たことのある幼い顔があることに気がつくと、キッと睨んだ。
「なんですか。薬を貰いに来たのですか。あら、もうもらってるではないの。ならさっさと帰りなさい!」
ウメはびくっと跳ね上がって姿勢を正すと、返事もせずに宮を出て行こうとした。が、すぐにイワナに呼び止められた。
「今年の冬はとても寒くなりそうだから、あなたもモモも気をつけなさい。ウメ」
ウメはイワナがすでに自分の名前を覚えていることを知ると、なんだか急に怖くなり、「はい」と驚くほどの大きな声で返事をしてすぐに宮を駆けだした。