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第二十三話 倭国王 帥鳴

 倭国王、帥鳴の朝は早い。


 まだ鶏カケが鳴くよりも遙かに早く起き上がり、用意された赤や桃色の花びらを浮かべた水で顔を洗うと、炊きたての粥に花の蜜をかけ少し食べる。腹を満たすと今度は黄色い花を浮かべたお湯に足首だけをつけて深く息を吐き、しばし思案するのが日課となっていた。


 この「儀式」がなければやはり一日は始まらない。そうこれは倭国王の神聖な儀式なのだ。


 そう思いながら、帥鳴は艶やかな絹の衣に袖を通すと、貴重な大鏡の前に座り花の香りをつけた水で肌を入念に整えた。あとは熊の油をほんの少しだけ全体につけて出来上がりである。この美容法は、帥鳴が自分で見つけたものだった。帥鳴には十人の妻がいるが、この方法は誰にも教えておらず、おかげで彼の肌は妻の誰よりも若々しく瑞々しい。 


 実際、倭国王帥鳴は年よりも相当に若く見えた。一番早くに娶った妻はもうとっくに白髪だというのに、彼の髪は以前黒々としており顔には小さな皺一つない。近くで見ても三十ほどにしか見えず、へたをすれば十代に見る者もいることだろう。


 そんな自分の姿に満足しながら、帥鳴は瑪瑙で出来た勾玉の首飾りをつけ、白玉の耳飾りを身につける。あとは蜜を唇につければ完成だが、これは朝議の直前でなければべたつくのでまだする必要は無かった。


 とりあえず、あの者を迎えるのには十分である。

 鏡に布をかけ、改めて毛皮の敷物に腰を下ろすと、帥鳴は入り口の方を見やった。


 すると外からすかさず声がかけられる。中は見えていないはずなのに、この絶妙の間はなんなのだろうといつも不思議だった。だが、あの者を相手にこれくらいでいちいち不思議がっていては身が持たない。


「失礼致しまする」


 まるで風か雨が、空から聞こえてくるように超然とした声で彼はいつも話しかけてくる。 


「よい。太師殿、入られよ」


 帥鳴が許可を出すと、宮の中に銀髪に漆黒の瞳を持った男がぬっと入ってきた。


 美豆良みずらは結っておらず、銀の長い髪は後に一つに束ね、衣も倭国風のものではなく漢風のもので、手には常に自分の背丈よりも長い杖を携えている。遠目で見ればまるで老人のようでもあるが、彼の背筋はしっかりと伸びており、顔には皺もない。彼の年齢が自分よりも実は上だとうすうす気づいている帥鳴は、彼の若々しい容貌にしばしば嫉妬を覚えるほどだった。


 だが太師張政の眼差しは、倭国の長老よりも遙かに重く、物事の深遠を見つめているような千尋である。


 張政は始まりと終わりを知っている。その事に気づいた時、帥鳴はまるで自分の目の前に人では無い何かが、人の姿をして現れたような感覚を覚えわずかな恐怖を覚えた。


 そしてその恐怖は正しかった。この者は見た目の魁偉さもさることながら、その神通力、泉のように湧き出る知識と知恵、どれをとっても決して侮れるものではない。何よりこの異様な雰囲気は一体何なのだろうか。この者と出会って五年、かなりの時間をともに過ごしているが、彼から放たれるこり異様な雰囲気はどうも慣れることがない。


「これは敗者の証。あなたが生涯、決して身につけてはならぬものです」


 銀髪の男は、無表情で帥鳴を見つめたまま呟いた。


「もう、あんたまた私の心を読んだわね。それやめてっていつも言ってるじゃないの」


「申し訳ありません。勝手に頭に聞こえてきてしまいますゆえ」


 全く油断がならない、と帥鳴は思った。だが、張政が自分に忠誠を誓っていることはこの五年ではっきりと分かっている。


「まあ、許すけど。あんたいつも、自分は一度死んでいるとか、終わった人間だとか、こっちまでじめっと暗くなるようなこと言うわよね。一体何なのよ。そろそろあんたが大陸で何をしていたか教えなさいよ」


 倭国王の問いに、張政は答えずただ目をつぶっただけだった。この男は都合が悪くなるとすぐこうするのだ。


「いつもそうやって逃げるんだから。あんたは私の事を何もかもお見通しなくせして、私はあんたのことを何にも知らないってホントに頭に来るわ」


「私にも体面というものがございます。漢土での私の過去は、まさに敗者のそれです。何も成し遂げることもなく、ただ敗れてこの地に参りました。恥以外の何ものでもございません」


「そこなのよね。あんたほどの力を持った人間が、何も出来ずにただ異国に流れてきたって言うのが信じられないのよ。あんたなら漢でだって、なんでも好きなことできたはずよ。それこそ、漢は弱体化していて、あちこちで戦いがあるんだから、あんただって活躍できると思うのよ」


「ええ、今、中原には数多の英雄がおりまする。星が流れるようにして、散っていた男たち、その中に私がおります。かつては、私も自らには天命があると思い上がった事もございます。なれども、我が頭上に英雄の星も、王の星も無かった。ただそれだけでございます」


 あくまで恭しいその言葉を、帥鳴は胡散臭そうな顔で受け止める。これほどの力と知識を持ちながら、何も出来なかったというのが信じられない。その気になれば、皇帝にでもなれたのではないか。それとも、大陸とは張政すら凡庸なほどに凄まじいところなのか。


 すると張政は、帥鳴の王としての警戒心を解きほぐすように言った。 


「ご安心なさいませ。帥鳴様は生涯、敗北というものを経験なさいません。また、大陸においても、帥鳴様ほど英邁な人物はそうはおりませんぞ」


「・・・ふん、お世辞言っちゃって。私は倭国内を不安定にさせて大乱へと導き、その上出雲に王都まで侵略されてしまった愚王よ」


 まるで他人ごとのように帥鳴は言ったが、張政はそれが大きな間違いであることを知っている。


「それはまさに帥鳴様の深いお考えを知らぬ者の意見、じきあなた様の聡明さに誰もが仰天することでしょう」


 そう願いたい、と帥鳴は目を閉じた。


 みんな何も分かっていない。


 みんなは自分が有力部族の後ろ盾だけで倭国王になったと思っている。というか、きっと、先代の王もそう思っているだろう。もし、今の状況を先代が見ていたとしたら、ああ、それ見たことかと嘆くに違いあるまい。だが、みんな何も分かっていないのだ。倭国の長老たちも、鳶が鷹を産んだと言われている優秀な王子達も、結局目先のことしか考えていない。


 そもそもこの倭国は既に先代の王、帥升の晩年から結束が弱くなり傾きかけていたのだ。倭国のあちこちでは再び小競り合いが頻発し、頼りの漢も傾き、王の威信はなくなりつつあった。長老たちは文句を言うばかりのふぬけだし、あの状況では誰が王になったところで変わらなかっただろう。


 確かに自分は自らの出身である有力部族の後ろ盾で王となり、その事が原因で弱小部族の結束を生んだが、それは全て想定内のことである。当初の計画では、それをきっかけに王に抵抗する部族をまとめて排除するか取り込もうと考えていたのだ。


 ただ、その場合、倭国の始祖から受け継がれてきた同胞への『和』を尊ぶという伝統を破ってしまうため、それだけが気がかりだった。


 ところが、そこに『運良く』出雲が侵攻してきた。

 倭国全体にとっての脅威が出現したことで、各部族たちは一時的とはいえ戦いをやめて協力し合った。しかも、長年の仇敵だった熊襲とも今は手を組んでいる。その後何度かいざこざはあったが、今までの戦の規模を考えれば子供の喧嘩のようなものである。


 王子達の中には出雲の侵攻の際、何の抵抗もないままに王都を放棄したことを、なんとも愚かであると嘆くものもいる。お前こそが愚か者なのだと帥鳴は息子たちを罵りたいと思っていた。


 結果を見るが良い。王都を放棄したことによって、確かに倭国の勢力図は南下したが、犠牲者をほとんど出さずに放棄したため、国としての力はそれほど落ちてはいない。


 元々倭国の勢力内だったこの地は、既に拠点としての基礎や環濠は出来ていたし、海も近く武器を生産する鍛冶場も飢える者を出さないだけの水田もあった。しかも、熊襲と手を組んだことによって、倭国は今までで最大勢力の主導権を握っている。


 その気になれば、出雲などすぐにでも追い払えるのだ。

 さらに愚息たちは出雲の動向や目的についても考えていない。どうして出雲は筑紫に侵攻してきたか。倭国ほどの造船技術を持っていない出雲は、筑紫の北部を確保し安全に半島や大陸と交易がしたいのである。そもそも出雲の王の始祖は、半島にある国の王族の出身だと聞く。


 ならば故国との繋がりや交易を重視して、半島の入り口である筑紫北部を手に入れたいのは当たり前のことだろう。


 だからこそ連中は目的である筑紫北部を制圧し、半島との交易と交流を開始すると、無用な争いは避けてこの臨時王都である檍原には一切手出ししてこないのだ。


 この重要な事を、どうして誰も指摘しないのかが帥鳴には理解出来ない。この思惑を看破したのは、目の前のこの怪しい男だけである。


「そろそろ、頃合いなのよ。この十年で出雲は半島と活発な交易をして、多くの利益を得たわ。しかもその利益が一番多く落ちているのは、我らが王都なのよ。私たちが交易をしやすいように、無傷で貸してやったあの土地に、奴らは多くの富を蓄え、交易の経路まで作ってくれてる。後で私たちに奪われるとは知らずにね。自分たちが奪ったつもりが奪われるのだから、出雲王のスサノオはさぞや悔しがることでしょうよ。私たちは富肥えた王都をまるまる返してもらうの。これ以上はダメ、そろそろ筑紫の出雲は、倭国と熊襲を合わせても勝てないほど強くなってしまう。だから、今こそが好機なのよ。それにもうすぐ夏の長雨がやってくる。奴らの一番の武器なんといっても、馬を使った戦術。でも、王都の周辺には広大な水田があるし、そこを戦場にすれば雨で足下がぬかるんでその動きはたちまち役に立たなくなる。私は馬の対策なんて最初っから考えていたわ」



 ただ一つ、痛恨であったのは倭国の神宝と言われ、代々受け継がれてきたあの剣を奪われてしまったことである。


 太古、天空より大岩が地に落ちた時に出来た素材で作られたと言われるあの剣は、倭国の祭祀において最重要のものだった。あの剣はなんとしても取り戻さねばならないが、あれがあのまま王都に保管されているとは考えにくい。恐らく、出雲のスサノオの下に送られていることだろう。


「はい。帥鳴様の遠大なご計画、この張政、感服つかまつります。この張政の力も、おかしいたしましょうか?」


 力というのは、つまり張政の神通力のことである。彼の力は、巫女のように天候を知るだけでなく、天候を操る事も出来ることを帥鳴は知っている。もし、雷を自在に相手の兵に落とせたらどれほどの戦力となるのか計り知れない。


「私を試すんじゃないわよ。あんたの力は最小限で良いわ」


 帥鳴が鋭い目顔で睨むと、張政は僅かに微笑した。


「私はね、あんたの力にはなんの疑いも持ってはいないけど、その力は反則だとも思ってるの。その絶大な力に依存してはいけない。今はあんたが私の側にいて太師をやってくれてるけど、あんたに頼りすぎていたら、もしあんたがいなくなったとたんに倭国は弱体化してしまうわ。それが分かっているのだから、王としてあまりあんたの力は使いたくはないの。あんたや私が死んでも、問題無く続いていけるだけの体制を残しておかないと」


 その言葉に、張政は満足そうである。


「その通りです。さすが私が見込んだ王。私は私に許された範囲で力をお貸し致します」


 ふんと、言いながらも帥鳴は深く頷いた。やはりこの太師は頭が良い。自分を試したことは不敬だが、それでもここまでものごとを分かっていると、自分も相手を心から信頼できるというものだ。


 ああ、どうして我が息子たちはここまで分からないのか。本当は全てを話して叱咤したいが、口にすれば思惑というものはあっという間広がり出雲に警戒されてしまう。


 ただ、帥大だけは良い線をついていたと思う。豫国のしくみについてはさほど知らないが、それでも大巫女というしくみについてだけは大体把握している。もっとも、その本質は倭国の風習の禁忌にも触れてしまうが。


 問題の本質を見極め、国の仕組みを根本から変えようとする大胆さ。恐らく息子達の中で帥大が一番聡明であるのは間違いないだろう。ただやはり大巫女を最高の地位に置くというのは、問題である。


 女を、まして豫国人を最高位に置くなど、まるで国を乗っ取られるようなものではないか。先祖の教えに則り、大昔に巫女は生口の地位に落としているし、鬼神を崇める連中は大陸に追放したり、漢に献上したりていたのだ。


 いくら神託を受ける力を持っているとしても、元々倭国にいる巫女たちと同じように、王の下で管理できるようでなければ。


「ただねえ、帥大には悪いことをしたと思っているのよ」


「と、言いますと」


「あの子はね、本当に一途で家族思いの子なの。妻も一人しかいなかったし。子どもをとても可愛がっていたわ。だから、本当は帥響と王の座を争い合うような野心もなかったのよ。でも、私が王都を放棄すると決めた時、その混乱の最中神宝である剣を守る役目だった妻と子どもを出雲の奴らに捕らえられてしまったの。それからあの子は変わったわ。王都を奪還し、妻子を取り戻そうと必死になったのよ。それで知恵を巡らせ危険を顧みず、わざわざ豫国まで巫女を迎えにいった。けれど私は、それを評価しながらもあの子の案を却下して、あんたを太師に取り立てた」


 帥鳴は目を閉じ、こめかみを軽く揉んだ。やはり自分の子どもの心を痛めるというのは、なによりも耐え難い苦しみである。まして、これからする事を考えれば、なおさらだった。


「もし、私が勝算があったのにわざと王都を放棄したと知ったら、あの子は私を恨むかしら」


 いいながら、帥鳴は自らに弁明した。もしあの時出雲と戦っていたら、勝てていただろう。だが、王都と副都八つの防衛に成功していたとしても、出雲を撃退した後に疲弊した倭国を熊襲が見逃すはずがない。出雲が撤退したと同時に北上して攻めてくるだろう。


 その時こそ倭国は滅亡してしまっていたはずである。共通の脅威を理由に倭国をまとめ上げ、熊襲と手を結ぶという現在の状態こそ、長期的にはより良いものなのだ。


 倭国王のやや不安げな表情と問いに、張政は悠然と答えた。


「帥大様は聡明な御子にございます。きっと帥鳴様の御心を知ったならば、得心なさるでしょう。いえ、あの方も王を目指すならばこそ、理解せねばなりません」


 ありがとう、と帥鳴は苦笑した。しかしふと思ったのである。あの子の優しすぎる感性を、そのように立場故のこうあるべきと言う考え方で蓋をしてしまって良いものなのだろうか。その歪みはどこかで問題を生じさせないだろうか。


 だが今の帥鳴は、それよりも優先して太師と話さなければならないことがあった。


「さあ、今日の最終確認をしましょ」


 途端に鋭くなった帥鳴の薄茶の瞳に呼応するように、張政の黒い瞳が光った。


 この日、倭国王帥鳴は朝議において、ついに王都奪還を発表し、出雲と内通していたとして第一王子、第二王子、第四王子とその側近を斬り殺した。そして、この戦において自らとともに戦場に赴く指揮官として、第三王子帥響と第十三王子である帥大を指名した。

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