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第146話 彼のあがない

 侯爵邸に入ってから、カモミールはヴァージルとは違う部屋に通された。

 以前練り香水を作って見せた応接間ではなく、それよりも一回り小さい部屋だ。

 緊張で冷たい汗を掻きながらも姿勢良く椅子に掛けていると、思わぬ人物がそこに姿を現した。


「ごきげんよう、妖精の君!」

「ミリー、お久しぶりね! ごきげんよう」

「ジョナス様、アナベル様!」


 脳内のグリエルマに叱られながらも、少し慌てて椅子から立ち上がって礼をする。

 まさか、罪人同様のヴァージルと同行してきたのに、侯爵家のこどもたちに会えるとは思っていなかったのだ。


「お父様が、ミリーとお茶をしてきなさいと仰ったんだ」

「ミリー、どこか具合が悪いの? 顔色がとっても白くってよ? スミス先生をお呼びする?」

「い、いいえ。私は大丈夫です」


 顔色が悪いのは、ヴァージルを心配しているからだ。

 けれども、ジョナスとアナベルがやってきたことで、途端に安心した。

 もちろんこの場には侍女も同席しているが、侯爵家としてはカモミールを「罪人の同行者」としては扱っていない。それならば、決してジョナスとアナベルがここへ来たりはしない。


 一気にそこまで頭を巡らし、ふたりが席に着いたのを確認してから座り直す。


 ――神様、どうか、ヴァージルに御加護をお与えください。


 滅多に祈りを捧げることはない神に、カモミールは真剣に祈っていた。




 カモミールがひとり別の部屋に案内されるのを見て、ヴァージルは内心で嘆息した。

 つまり、彼女は人質なのだ。自分が何か侯爵にとって不利益になる行動を取ったらどうなるかわかっているなという、わかりやすい脅しだった。


 心配は心配だが、ヴァージルには侯爵への害意はない。カモミール本人も、侯爵領の産業にとっては重要な人間だ。むしろ、「何かあった」と侯爵側で判断したときに、彼女が別の場所にいれば自分が目の前で殺さるところを見せず済む。――そんな事を思ってしまう。


 ずっと、断罪を望んでいた。

 罪を罪と思いながら、それを重ねてきた。

 柔らかな心が押しつぶされそうになる度、救ってくれたのはカモミールの明るい笑顔だ。


 世界の中でも希有な力を授かりながらも、ヴァージルの心は凡庸だ。幼い頃は大人に言われるがままではあったが、「潜入」の間に自分で判断することを覚えた彼にとって、自分がしていることは望むことではなかった。


 後ろ向きながらも諜報行為を続けていたのは、カールセンでのゼルストラの活動に対して、自分が不必要だと思われたくなかったからだ。

 大事な友人も愛する人も、かつて愛してくれた人々も、全てがあるこの街に居続けたかった。ただそれだけ。


 一市民として暮らしたから、ただの一市民としての幸せを望んでしまった。それが手の届く場所にあると気づいてしまった。

 一方で、罪人としての自覚は幸せを甘受することをためらい続けてきた。


 ――今日で、ようやく終わる。

 良い方向にしろ、悪い方向にしろ、終わる。

 願わくば、彼女が悲しむことにならないといい。自分が罰されるのは当然だとしても、ただ巻き込んだ彼女にこれ以上不幸になって欲しくない。


 少しの安堵と、同じくらいの躊躇。それを抱きながらヴァージルは執事の後を付いて進む。

 通されたのは小部屋が隣接している大きな応接室だ。この小部屋は訪問者の護衛が待機する場所だろう。小部屋のドアを開けたまま、そこで騎士に武器などを持っていないかを確認された。

 以前は短剣くらいは持ち歩いていたが、今日は全く武器になるようなものを帯びてはいない。むしろ事前に確認してくれたことがありがたいくらいだ。


 応接間に通されると、身なりの良い男性が奥に立っていた。

 デヴィッド・バリー・ジェンキンス侯爵その人だ。何度かヴァージルも顔を見たことはある。

 そして侯爵以外にも3人ほどの騎士と、ヴァージルにとっては見慣れたふたりの女性――クリスティンとタマラが侯爵の側に控えていた。


 侯爵の立ち姿には隙がない。ヴァージルが魔法を使ったら、既にその発動を見たことのあるタマラが気づくだろう。タマラが一声上げれば、途端に騎士が動く。

 その状況に、逆に安堵する。

 ヴァージルが何かしようとしても絶対にひとりでは何もできない状況。つまりは侯爵が安全な状況ができているからだ。


 ヴァージルは侯爵から離れたところで、ひざまずいて礼を取った。頭を下げるのは主君に対する恭順の表れだ。首筋を晒すのは、「いつでもこの首を打ってください」という意味がある。


 床に落とした視界の端で、見覚えのある黒いスカートと赤いスカートが揺れた。この場にいるタマラもクリスティンも、ヴァージルの側に立ちたいのを堪えているのだとそれでわかる。


「お召しにて参上いたしました。……ヴァージル・オルニーでございます。侯爵様の拝謁を賜りましたこと、光栄に存じます」


 名乗りに一瞬間が開いたのは、「ヴァージル・オルニー」が本当の名前ではないからだ。この場で偽りを言うことは、死に繋がってもおかしくない。もうひとつの嘘もつきたくないという気持ちが、ヴァージルに顔を上げさせた。


「申し訳ございません、ヴァージル・オルニーとは偽りの名。わたくしは……」

「トニー・エドマンド、と名乗っていたこともあったな」


 それはヴァージルが手紙に書き記してない話だった。真に名乗るべき名を持たないと言おうとしたが、ヴァージルは侯爵の先制に言葉を失った。


「デヴィッド・バリー・ジェンキンスだ。カモミール嬢よりの手紙、そなたからの手紙、そしてタマラ・アンドリュースとクリスティン・ダーネルよりの報告によりこの場を設けた。

 まずは、ゼルストラの間諜について、カールセンでの拠点の報告に偽りがなかったことを褒めてつかわす。既に当家の騎士団により制圧に成功し、捕らえた者たちの取り調べも進んでいる」

「ありがとうございます!」


 つい声に力が入ったのは、最初にカモミールの元を去る前から、それがヴァージルの望みだったからだ。


「だが、間諜として働いていたことは見過ごせることではない。そなたへの今後の処遇をこの場で決めることとするが、偽りなく全てを明らかにすることを誓えるか?」

「誓います。我が愛する女性、カモミール・タルボットにかけて」


 油断なく目を光らせている侯爵に向かってまっすぐにヴァージルが言うと、侯爵は虚を突かれたように瞬いた。それから、急に態度を柔らかくして笑いかけてくる。


「ははっ、ならば信じよう。神を欺く者はいるが、愛する女性にかけてと言われたら信じるしかない」

「この命は、愛するカモミールのものです。わたくしが共にいることを彼女が望んでくれたから、そのためにならなんでもいたします。元から彼女がいなければ拾えなかった命です。ゼルストラの干渉を断ち切るために、この身をお預けいたします。どうぞ侯爵様の望むようにお使いください」

「それでいいのか? 祖国を捨てると言うことは大きなことではないのか?」


 侯爵の語気は荒くないが、その問いかけは真摯だった。彼にとっては「祖国を捨てる」のはあり得ないことなのだろう。侯爵としてそれは当然のことと思えた。

 けれど、ヴァージルにとってはそうではない。


「あの国に私が守りたい物はありません。守りたい人たちは、カモミールも、エドマンド男爵家の方たちも、全てこの国の中――このカールセンにいるのですから。今までゼルストラを祖国と思ったこともございません。生まれ落ちたのがゼルストラだったのだから、祖国というのは間違いないでしょう。ですが、何ひとつ与えてくれはせずに私を利用し続けてきたゼルストラより、長く過ごしたこの国こそを祖国と思うのは誤りでしょうか」


 痛みに満ちた表情で訴えるヴァージルに、タマラがそっと目を伏せる。その隣のクリスティンは、じっとヴァージルを見つめて揺るがなかった。


「……そなたがエドマンド男爵家にいた頃、一度会ったことがあったな。あの頃は私もまだ子供だったから、その後のエドマンド男爵がトニーの名を一切出さないことを、病か何かで養子を失ったショックのためと思っていたが。

 私の記憶を消さなかったのは、後々こういう状況になったときのためを思っての敢えてのことか?」

「とんでもございません。単純に、当時侯爵令息であられたデヴィッド様に近づけなかったからです。たかだか7歳のこどもに、そこまでの知恵が回るわけはありません。――ですが、トニーという存在があそこにいたことを覚えてくださっていたことを、わたくしは嬉しく思います」


 それは心の底からの想いだった。当時ゼルストラに対してできた「トニーとして」のささやかな抵抗は、エドマンド男爵家の外の人の記憶に残る事だけだったのだ。


 侯爵はヴァージルの内面を見透かすように、じっと彼を見つめていた。

 そしてひとつため息をつくと、ソファーセットを示して「掛けなさい」と促し、自らもそこに腰掛けたのだった。

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