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第145話 最後の下準備

「ミリー、これも一緒に持って行って。大事な物なんだ」


 カモミールが自室で手紙を書き終えたところに、ヴァージルが一通の手紙を持ってやってきた。


「これは?」


 侯爵に話すことはヴァージルが直接言うべきではと思ってカモミールが目で問いかけると、厳しい顔をしたヴァージルが頷く。


「僕は死んだって思われてる間に、この街にあるゼルストラの拠点を潰さないといけない。魔法毒は現在では解毒の方法がないから、あちらは僕を殺したと思ってる。でも僕が出歩いたりしていると、生存が知られてしまう。だから」

「侯爵様にお会いする前に、こちらを片付けて貰わないといけないのね」

「今しかないんだ」


 手紙の中身は拠点を記した物と、ヴァージルの事情を説明した物であるだろう。カモミールはその封筒を、書き終えた手紙と一緒にバッグに入れた。


「あと、ちょっとだけいい?」


 ベッドに腰掛けたヴァージルが隣をぽんぽんと叩く。カモミールがそこに座ると、以前よりも荒れた手がカモミールの頬を包み込んだ。


「辛い思いをさせたね、ごめん」

「あなたが戻ってきて、私と一緒に生きることを選んでくれたからいいの。それに、私もあの時は酷いことを言ったわ」


 小柄だったカモミールが更に痩せ細ってしまったことで、ヴァージルは彼女の苦悩を察してくれた。


「ヴァージルも辛かったんでしょう? 好きな人たちがいるのに、その人たちを貶めたりするような計画に加担させられて」

「うん……僕は自分の出自に縛られすぎてた。ゼルストラで生まれたから、ゼルストラの裏ギルドで育てられたからって、彼らの言葉に従ってきた。

 でも、僕は彼らにとってただの道具でしかなかったよ」


 彼の悲しそうな顔を見たくなくて、カモミールはヴァージルに抱きついた。胸に耳を当てて確かな心音を感じていると、彼が生きてここにいることが実感できてじんわりと涙がにじむ。


「僕の能力が希有な物だから、生かしたままで他のことに利用しようという人たち。それと、顔の割れている間諜は危険すぎるから処分するべきと言う人たち……笑っちゃうね。彼らにとっては僕の意思なんてどうでもいいんだよ。使える駒かどうかだけで僕を見てた」


 いつも穏やかな彼の声に棘が含まれている。それに気づいてカモミールはヴァージルの体に回した腕に力を込めた。

 けれど彼は「大丈夫」というようにカモミールよりも大きな手で背中を撫でてくる。


「いい加減に腹が立って、ジェンキンス侯爵の寝返りはあり得ないって言っちゃったんだ。

 それで、僕の心がこの国にあると気づかれたんだろうね。僕から漏れたらまずい情報もたくさんあるから、毒使いの魔法使いに殺され掛けた。――いや、実際あのままだったら死んでたよね。フォールズ辺境伯領までは尾行も付いてたし」


 喉の奥から悲鳴がせり上がりそうになって、カモミールは慌ててヴァージルの顔を見上げた。

 彼らはヴァージルが死ぬのを確認したかったのだろう。何も情報を漏らさずに、というところも重要だ。


「たったふたりの尾行だったからね。体もかなりまずいことになってたけど、そいつらを油断させて『僕が死んだのを確認した』っていう偽の記憶を刷り込んだ」

「じゃあ、カールセンまでは付いてきてないのね」

「うん、でもこの街にはこの街で活動してる組織の人間がいるから、それもなんとかしなきゃいけない。僕は顔が割れてるから、僕自身が向かうのは危険すぎる。――だから、侯爵様にお願いをする。ついでに、僕を信用して貰うための材料としてね」

「ヴァージルって、ふわふわしててお人好しに見えてたけど、いろいろ企んでたのね……そういえば、工房を買うときにも魔法を使って値引きさせたでしょう」

「気づいちゃった? だって、あの時はそれが一番いいと思えたしね。

 僕はみんなに思われてるような、ふわふわした人間でいたいよ。それが本当の僕だと思うしね。――だから、そうしていられるように、できることをする。こういう僕は、嫌?」

「そんなことない」


 ヴァージルの語尾に被せるように、カモミールは勢い込んで彼の言葉を否定した。

 彼に関わる人間の中で、一番ヴァージルのことを知っているのは自分だという自信がある。優しさも寂しさも過保護さも、そして一種の狡猾さも。全てが彼自身だと思うから、カモミールは彼の人間性を信じている。


 一緒に過ごしてきた4年の歳月とふたりの距離は、冷静になってみればそれを信じさせるに足る物だった。

 ヴァージルがカモミールの元を去ってから、悔やむごとに彼の行動を振り返ってきたのだ。その度に思い知ったのは、彼が自分へ向けてくれた想いの深さだった。



 その日、手紙を持参したカモミールは侯爵には会わなかった。渡すべきものを渡せばいいのだし、逆に接触するのは危険に思われたのだ。

 カモミールへの返事も、直接侯爵家からもたらされたのではなかった。お抱えの仕立屋であるドレイク夫人を介してタマラが受け取り、タマラからカモミールへと手渡された。


 手紙には、やや乱れ気味の筆跡が踊っていた。最後の署名はデヴィッド・バリー・ジェンキンス。この地を治める侯爵に他ならない。

 彼の指示は一言、「今は待つように」ということだけだった。カモミールは表面上いつも通りに仕事をし、ヴァージルはエノラの家で体を休めることにする。


 そして2日が経って、いつもの路地に侯爵邸の馬車がやってきた。



 急ぎなので化粧をすることもなく、深緑色のワンピースにお下げのままでカモミールはヴァージルと並んで馬車に乗った。

 侯爵の遣いとしてやってきたのは、工房見学の際にも侯爵に同行していた執事だ。

 最初は緊張していたふたりだが、執事が近頃の天候や見頃の花の話などをしてくれたせいで、ピリリとした緊張感を感じることなく、馬車での道中を過ごすことができた。


「カモミール様はフロランタンがお好きと奥様から伺っております。本日のお茶菓子に用意いたしましたので、どうぞお楽しみください」

「ご配慮、ありがたく存じます」


 老執事がこちらに向けてくる視線が、温かい物であることにカモミールは安堵した。ヴァージルはゼルストラの間諜だ。処刑されてもおかしくはない。この馬車に乗り込むとき、ふたりで繋いだ手は共に震えていた。

 馬車の中でも最悪の展開を想像し、カモミールは色の失せた唇を引き結んでいた。

 それを見かねるように、彼は世間話をしてくれたのだ。


「……旦那様はこの地を治める責任を重く受け止めていらっしゃいますが、冷たい方ではございません。アンドリュース家の退魔のペンダントも借り受けておりますし、御自身の安全には万全を期していらっしゃいますよ。

 ですから、忌憚なく全てお話しください。悪いようにはならないでしょう」

「はい――ありがとうございます」


 落ち着いた声で答えて、ヴァージルは頭を下げる。侯爵がタマラの退魔のペンダントを借りていると聞いて、明らかにヴァージルはほっとした様子だった。

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