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第144話 エリクサーの力

 エリクサーは正味25ミリリットルほどだった。錬金術の集大成のひとつと言ってもいいそれを、ガストンは注射器で吸い上げてヴァージルの肘の内側にある血管へ針を刺し、ゆっくりと入れていく。


 長い時間を掛けてエリクサーが全てヴァージルの体内に入ると、10分ほどではっきりと効果が出始めた。見るからに呼吸が安定したのだ。同時にわかりやすい発汗も始まって、ガストンは追加の輸液をするために走って一度家へと帰った。


 エノラとタマラとカモミールは交代しながら睡眠を取り、翌日の昼頃カモミールはぼんやりと彼の枕元で座っていた。

 輸液はまだたっぷりとあり、できることは今はない。昨日エリクサーを投与されてから数時間は激しい発汗が続いたが、今はそれも落ち着いている。

 毒に侵された肌の色は完全に消え失せ、やつれてはいるがただ眠っているだけの彼がそこにはいた。

 いつ目を覚ましてもおかしくはない――逆に言えば、このまま眠り続けてもおかしくはないようにも見える。


「ねえ、ヴァージル。早く目を覚まして。またふたりで一緒に屋台に行ってご飯を食べよう。侯爵様みたいにエスコートしてとか無茶なことを言ったりしないから……もう、酔い潰れて迷惑掛けたりもしないから」


 口に出して言ってみると、それはどんなに楽しい時間だっただろうか。

 公園の噴水の縁に腰掛けて串焼き肉を頬張る彼の姿が、今は遠い昔のことのように思える。


 温かさの戻った手を取り上げて自分の頬に当て、カモミールは穏やかな寝息を立てているヴァージルに語り掛け続けた。


「覚えてる? まだロクサーヌ先生が元気だったとき、ヴァージルがご飯を作ってくれたことがあったよね。潰し切れてないただのマッシュポテトであなたは出来の悪さに焦ってたけど、私はあの舌触りが嫌いじゃなかったよ。屋台の売り物になるマッシュポテトもいいけど、家で食べるのはああいうのでもいいよね」


 ほんの僅かだけれども、ヴァージルの睫毛が揺れた気がした。

 一度切れかけた彼の命の糸をたぐり寄せるために、カモミールは更に語りかける。


「そうだ、美味しいシチューの作り方を教わったの。シードルをもったいないなって思うくらいたっぷり使ってね。スミス先生っていう侯爵家のお医者様がいるんだけど、その方の出身地の味なんだって。今度エノラさんと作るから、三人で一緒に食べよう?」


 思い描くのは、少し前までは当たり前だった幸せな光景だ。ヴァージルの手を握りしめると、彼のまぶたがひくりと動く。


「これは――夢、だね。幸せな……」


 ずっとずっと聞きたいと思っていた声が、弱々しくも言葉を紡ぐ。

 自分で夢と言っておきながら、喉の違和感に気づいたのだろう。カモミールの愛する人は不思議そうな顔でカモミールを見つめている。


「夢じゃないよ」

「僕は……生きてる? どうして」

「どうしてって……」


 無事に意識を取り戻したヴァージルに安堵し、涙を流しながらカモミールは叫んだ。


「死なせるわけないじゃない! どこで倒れたと思ってるの!? 錬金釜の精霊がいる私の工房の前よ!? ヴァージルを治すために、今の錬金術師じゃ作れないエリクサーを作ったんだから!」


 カモミールの荒げた声にヴァージルは驚いた後、カモミールの握っていない方の手を彼女の頬に添えた。

 会っていない間に随分と彼の手が荒れたのを感じながら、カモミールは黙って頬を触らせている。

 ほんの数呼吸ほどの時間、カモミールの涙を手で受けながらヴァージルは黙っていたが、すぐに懐かしいほわりとした笑顔を浮かべた。


「ありがとう、ミリー。ずっと君に会いたかった」

「私もヴァージルに会いたかった。生きててくれて、良かった……」


 ヴァージルの首に抱きついてわあわあと泣きながら、涙と一緒に心の底にわだかまっていた澱が流れていくのをカモミールは感じていた。



 ヴァージルに向かって怒鳴ったせいで、階下にいたエノラとタマラがすっ飛んで来たことは言うまでもないことだった。

 ガストンとテオの診察を受けて、ヴァージルはエリクサーの力で治癒されていることが確認された。起きてすぐに「お腹が空いた」と言ったヴァージルは、キャリーが買い置きしていたパンとチーズをもそもそと食べている。

 やはり、魔力を使うといつもよりお腹が空くらしい。彼が大食いなのはその魔力のせいだった。


「エノラさんは魔法に掛かってなかったんですか」


 自分がいない間に起きていたことを聞かされ、ヴァージルは激しく驚いていた。

 今の彼は命の瀬戸際に立って腹が据わったのか、もう迷う様子は見られない。

 彼は全てを侯爵に話し、罪をあがなうと宣言したのだ。落としたはずの命を救ってくれたカモミールと、共に生きるために。


「ええ、そうよ。生まれた時代の違いもあるかもしれないけど、私の方が魔力が強いのよ。ヴァージルちゃんも、精霊の忠告に気づかないときがあるでしょう?」

「精霊の忠告、ですか」

「ほら、お天気の事よ。せっかく風の精霊が教えてくれてるのに、雨が降ることにきづかないことがあるじゃない」

「エノラおばさんの天気予報が当たるのって、そういうことだったんですか」


 ヴァージルは目を見開いていた。カモミールからすると見える人たちの世界は想像も付かないが、ヴァージルからしてもエノラの感覚は理解出来ないらしい。


「私の願いはね、ここでこれからもヴァージルちゃんとミリーちゃんが一緒に暮らしてくれる事よ。だからヴァージルちゃん、あなたは私の養子になりなさい。私もあなたも嘘をついていたのは同じだし、家族がいなくて寂しい思いをしているのも同じだわ」


 エノラの言葉が余りに予想外だったのだろう。ヴァージルは目を瞬かせて、ぎゅっと掛け布団を握った。


「養子……僕がおばさんの家族に」


 養子と聞いてエドマンド家の事を思い出しているのだろう。ヴァージルはエノラの優しさに揺れてはいるが、すぐに頷くことはできないようだ。


「侯爵様のお許しがでたら、ですね。まずは全てヴァージルの口からお話ししないと」

「その場に複数人居合わせる必要があるね。僕の魔法が侯爵様に危険を及ぼさないと証明するために。タマラさんの持ってるペンダントを一時的に持っていただくのもいいかもしれない」

「そうよ、このペンダント付けてると魔法が効かないのよね。驚いたわ」


 タマラが服の中に入れていたサファイアのペンダントを出してみせる。それは彼女の母から受け継いだ、退魔の力があるとされるものだそうだ。実際にヴァージルの魔法を防いだことがあるらしい。


「侯爵様に連絡をして、できるだけ早くお会いいただけるようにお願いするわ。今から手紙を書いて、持って行くわね」

「前はそういう物を持って行くのは僕の仕事だったけど。ミリー、頼んだよ」

「うん、任せて。今はあなたが生きてて、できることがあるってだけで凄く気が楽よ。……ねえ、ヴァージル。ここに戻ってきてくれたってことは、ゼルストラと手を切って私と生きる覚悟はあるのね?」

「間諜の僕は死んだよ。今生きているのは、君との未来を望んでる僕だ。君が助けてくれた命だから、これからは全てミリーのために生きる」


 蛍石の目の中に揺るがぬ光を見て、カモミールはまた涙を流した。

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