朝食の後、カモミールは隣の工房へすぐに向かった。眠ることもないテオは、ずっと製品を作ったり、素材を精製したり、そうでもないときには掃除をしたりして立ち働いている。
今は精製水を保存するガラス瓶を熱湯で消毒していた。彼がしていることの大半は本来は弟子などがやる下準備であり、ロクサーヌの元にいたときはそれはカモミールがする仕事だったのだ。
彼がこうして細々としたことをしてくれているので、カモミールはここへきてから「精製水がない」と困ったりしたことがない。
「テオ、いつもありがとう」
「なんだよ、急に」
「テオがいろいろしてくれてるおかげで、凄い助かってるなあって改めて思ったの」
「いや、俺はやりたいことをやってるだけだ。これしかできねえってのもあるけど。
……そうか、実体を持てるようになっても、この工房におまえが来なかったら掃除くらいしかできなかったんだな。ここにはろくな素材も残ってねえし。はあー、カモミールがいてよかったと俺は思うぜ。何もやることがなかったら退屈で仕方ねえ」
「私がいて良かった?」
思わぬ言葉をテオの口から聞き、精製水をボウルに注ぎながらもカモミールは目を瞬かせた。
どうせ工房を離れることがないのだからと、こき使っていたことを恨まれるかと思ったらそうではないらしい。
「あっ!? そういえばこの工房が異様に安くなったのって、ヴァージルが商業ギルドで交渉したからだけど、あの時個室でやってたわね……あり得ない値段ってキャリーさんが言ってたけど、あの時もきっと魔法を使ってたんだわ」
「なるほど、そういう事か。あいつ、カモミールが絡むと本当に軽率に魔法を使うな」
「でも、エノラさんには魔法が効いてなかったんだって。そうそう、エノラさん、テオが精霊だって事に気づいてたそうよ。魔力が強いけど外に出ないらしくて、ヴァージルに魔法を使われたのはわかってたけど騙された振りをしてたって」
「なん……だと? エノラが魔力持ち?」
テオの驚き方はカモミールが見たこともないもので、目を限界まで見開いて頬を引きつらせていた。魔力の塊であるという精霊だけに、彼が人の魔力を感じ取ることに自信を持っていたことがわかる。その自信が揺らいだのはとんでもないことなのだろう。
カモミールの目の前で、テオは鍋の中身を沸騰させたまま工房を走り出ていった。しばらくして、しきりに首をひねりながら戻ってくる。
「本当に俺のことに気づいてたのか……それに、魔力持ち? わからねえ、俺にすらわからねえ。精霊に気づけるのに魔力が外に漏れないとか、どんだけの特異体質だ」
愕然としたテオの呟きにカモミールは思わず息をのんだ。ヴァージルの魔法を退けながらもテオにすら魔力を気取らせることがないとは、本当に理解が及ばない。
精製水で目をよく洗った後、カモミールはそのまま仕事を始めた。キャリーが来るには間があるが、今はとにかく何かをしていたい。
その工房に思わぬ来客があったのは、キャリーが来てからしばらくした時のことだった。
「カモミールさん、ヴァージルのことを何か知らない?」
息を切らせながら工房のドアをノックしたのは、クリスティンの店長であるカリーナだ。片手にはくしゃくしゃになった紙を握りしめていて、彼女がどれだけ慌ててここに来たかが窺える。
「ヴァージルのこと、ですか」
問い掛けられて見るからに狼狽したカモミールは、その態度で「知っている」ことを表してしまっている。カリーナは握った紙を見て慌ててその皺を伸ばし、カモミールに差し出した。
ごく短い文章で今までの礼を述べ、急に故郷に戻ることになったので仕事を辞めることを許して欲しいとだけど書かれた手紙は、間違いなくヴァージルの手で書かれたものだ。急いで書いたらしく、彼にしては珍しく所々綴りを間違えて線で消してあったり、インクが掠れている箇所などがある。
「ヴァージルの故郷ってボルフ村よね? カモミールさんの幼馴染みなんだし。ご両親はもう亡くなったって聞いてたけど、急に故郷に帰るってどういうことなのかしら。こんなに突然辞めるって言われても困ってしまって」
顔を青ざめさせてカモミールは俯いた。自分がヴァージルを責めたことで、彼はここを離れざるを得なかった。そのことでカリーナには迷惑を掛けてしまったのだ。魔法などを使わなくても、彼の技術は優れたものであり、店員として優秀だったのは間違いないのだから。
「私のせいです……」
「違うでしょう!?」
両手をぎゅっと握りしめて苦しげに告げたカモミールに向かって叫んだのは、思いも寄らずにキャリーだった。驚いてカモミールが振り返ると、キャリーが椅子から立ち上がっている。
「昨日の話、なんかおかしいと思ってたんです。カモミールさんがあんなに取り乱してて、嘘をつけるかなんて聞いてくるなんて。ヴァージルさんが突然いなくなったとしたら、何か重大な嘘をついていたことをカモミールさんに知られてしまったからじゃないんですか? だとしたら、悪いのはカモミールさんじゃなくて、嘘をついてたヴァージルさんでしょう!」
カモミールは常々キャリーを賢いと認めていたが、その洞察力は驚くべきものだった。カモミールの態度とカリーナの話だけでほとんど正解を導き出しているのだから。
彼女は自分を庇ってくれているのだろうが、カモミールの自責の念は軽くはならない。
「あのヴァージルが突然いなくならなきゃいけないような嘘って、一体どういうこと?」
困惑しきったカリーナに、カモミールはしばらく悩んでからようやく口を開いた。
「ヴァージルは私の幼馴染みじゃありません。ボルフ村の出身でもありません」
「待って、全然意味がわからないわ。幼馴染みって聞いてたけどそうじゃないの? でも、そうならカモミールさんも嘘をついていたことになるんじゃ?」
確かに、ヴァージルを幼馴染みだと言ってロクサーヌやカリーナに紹介したのはカモミールだ。結果的にはカモミールも嘘をついていたことになる。
やはり誤魔化しきれることではないと、カモミールはやっと心を決めることができた。
「ヴァージルは魔法使いだったんです。私に魔法を掛けて、幼馴染みだと思い込ませていました。それで、私は彼をロクサーヌ先生やクリスティンの皆さんに紹介して……だから、確かに私も嘘をついたと言われればそうなります」
「魔法使い? 記憶を誤魔化していたってことですか? 現代にそんな魔法使いがいるなんて」
「そんな……魔法を使ってまでカモミールさんの幼馴染みになりすまして、彼は一体何が目的だったの?」
魔法使いという存在にキャリーは驚き、カリーナの困惑は更に深くなってしまったようだ。
彼がしたことはとても重い。それでも、心のどこかで「このまま私だけの秘密にして置けたら」と思うことをやめられなかった。真実をさらけ出したら、彼と過ごした時間が全て汚されるような気もしていた。
「ああ……」
息が詰まるように胸が苦しく、カモミールは呻いて顔を覆った。それでも、嘘をつきたくなかった。ヴァージルの嘘を責めた自分が嘘をつくことは許されない――そう心に決めた。
また泣き出してしまったが、途切れ途切れにカモミールは昨夜のことをふたりに説明した。唇を引き結んで怒りを抑えているようなキャリーと、顔面を蒼白にしたカリーナは対照的だ。
「とんでもないわ……嘘だったらいいのに」
ヴァージルが間諜であり、侯爵家に近付くためにクリスティンに潜入したこと、その繋がりを保ち続けるためにカモミールの幼馴染みを騙っていた事を知り、カリーナはくたくたと床に座り込んでしまった。
カリーナの気持ちはカモミールにも理解出来た。知らぬ間に自分が思いも寄らない大きな計画の歯車として組み込まれていて、意図することなく悪事の片棒を担がされていたのはカモミールも同じだからだ。
「ヴァージルさんが姿を消したのが、嘘じゃないという何よりの証拠ですよ。それに、こんな嘘をついてもカモミールさんには何の得もない。――早急に侯爵様に報告するべきです。時間を置けば置くほどカモミールさんの立場が悪くなります」
いっそ冷たいとも思える声でキャリーが言い切る。カモミールはそれにすぐに頷くことはできなかった。
「でも……ジェンキンス侯爵家にはヴァージルが付け入る隙はなかったのよ。だから、彼のことを……」
「ヴァージルさんがどう思われようと、そんなことはどうだっていい! こんなにカモミールさんを泣かせて傷つけて、あんな人大嫌いっ!」
見たことのないキャリーの激昂に、カモミールは言葉を失った。そのカモミールの目の前で、今度はキャリーが泣きじゃくり始める。
「私……カモミールさんのこと好きですよ……こんなに凄いものを作ってるのに、自分は凄いって自覚が全然なくて、お人好しで、頑張り屋で、化粧品作るのが本当に好きなんだって思えて……私なんか誰にでもできることしかできないです。私が凄いっていつも言ってくれるけど、私は人よりちょっと作業の効率がいいだけです。あなたにしかできないことがたくさんあって、たくさんの人に必要とされてる姿が眩しくて。
そんなカモミールさんを利用して、駄目にしてるヴァージルさんのことを許せない。恋は人を駄目にするって知ってたけど、こんなの酷すぎる」
キャリーが自分のことをそんな風に思ってくれているとは、カモミールは全く知らなかった。キャリーは確かにミラヴィアのファンであり、ヴィアローズの割引目当てに働いていると公言するほどだった。
当たり前に聞いていたその言葉は、カモミールの発想と技術への深い信頼が込められていたのだ。
カモミールは自分を過小評価しているとキャリーは言いたいだろうが、カモミールもキャリーの自己評価が低いと感じた。彼女の処理能力は並の人間が持つものではなく、「人よりちょっと作業の効率がいいだけ」というのは謙遜に過ぎる。
けれども、もっと大きくカモミールの心を占めていたのは、ヴァージルを嫌わないでという気持ちだった。
彼がどれだけの嘘をついていても、その優しさは真実のものだった。自分たちの恋は偽りではなかった。
そう思ってしまう自分に気づき、カモミールは絶望に近い気持ちで真実を認めるしかなかった。
――自分は、まだヴァージルを愛しているのだと。