「侯爵家に付いてきたがったのも、王都へ一緒に行くことになったのも、全部全部あなたにとってはそれが好都合だったのね?」
驚くほどに平坦な声が、勝手に自分の口から出た。カモミールの意識はそれを内側からぼんやりと見ている。
自分はこの街にとって、そして侯爵家に対しての害悪であることを告白したヴァージルは、穏やかにも見える表情で頷く。
「ミリーは最初に僕が思ってたよりも、うんと高く羽ばたいたよ。おかげで侯爵家には何度も行けたし、『ヴィアローズの担当のヴァージル』としてあそこでは認識されてる。
でもまあ、成果は出てないけどね。ジェンキンス侯爵の王家への忠誠心は強くて、この土地を守ることへの意識は固い。今のところ寝返りを促せる決定的な事柄は見つからない。
――だからこそ、狙われたんだ。この地を、護国の英雄ジェンキンス伯爵家を寝返らせることができたら、現在のゼルストラとの国境になっているフォールズ辺境伯領は簡単に挟撃することができるからね。決して裏切らないと思っている勢力が寝返ったときこそ、その効果は最大だ」
「私がそれを侯爵様に知らせることは考えてないの?」
衝撃が大きすぎて、心と体が分離している。千々に乱れた心の中で、理性を保った部分が淡々とヴァージルを問い詰めていた。――大部分のカモミールが、「なんで」「どうして」「意味がわからないわ」「ヴァージルがそんなことをするわけない」と叫ぶ中で。
「いっそ、知らせてくれていいと思ってるよ。ゼルストラなんて僕にとっては思い入れも何もない国だし、裏ギルドなんて潰れてしまえと思ってる。少なくとも5歳辺りから僕はずっとここで暮らしているし……それでも、あそこで育てられた間諜である事実は消えないんだ。命じられるままにこの街の防衛や侯爵家の情報を流してきたしね」
――どうして、そんなに当たり前のように言うの。
何もかもを諦めきったように喋り続けるヴァージルに、カモミールの中から怒りが湧き上がってきた。
「もちろん言うわ! 私は侯爵家にたくさんの恩義があるし、侯爵様もマーガレット様も、ジョナス様もアナベル様も大好きだもの! この街にいるタマラやローラや、大事な友達を危険にさらしたくない!
ヴァージルのことは愛してたわ。これは操られた気持ちじゃないって信じてる。……でも、もう無理よ。私も含めてたくさんの人を騙していたあなたを許せない。……私の前から、消えて」
語尾は震えて、最後には涙声になってしまった。叫んだら抑えられていた感情が勢いよくあふれ出して、涙が頬を流れて視界が滲む。
ヴァージルは泣き出したカモミールを見て、当たり前のようにそれを拭おうと手を差し伸べ――カモミールに触れる直前で手を止めた。
「僕はゼルストラに戻る。顔が割れた間諜を同じ仕事に使うことはないだろうから、もう二度とここへは戻らない。さよなら、ミリー。いくら謝っても許されないことはわかってるけど、今までずっと嘘をついていてごめん」
カモミールの涙をすくい取ろうとした手を握りしめて、ヴァージルはカモミールに背を向けた。そのまま工房から出て行こうとする彼の背に、カモミールは咎めるように声を掛ける。
「私の記憶を消していかないの?」
聞いてはいけないはずのことを聞いてしまった。ゼルストラにとってはこれが外に漏れたら大問題のはずだ。カモミールは侯爵に言うと宣言したのだから、放置してはいけないはずなのに。
立ち止まったヴァージルは、振り返って苦しそうにカモミールに告げた。
「もう君に魔法は使わないと決めたんだ。繰り返し僕が魔法を掛けたせいで、君の心と体には余計な負担を掛けてしまった。王都に行くときに船の中で気絶するほどの頭痛が起きてるって聞いてから、これ以上魔法を掛けちゃ駄目だと思ったんだよ」
「私なんかどうなっても良いんじゃないの!? あなたはここからいなくなるんでしょ!?」
「それがどんなに僕の不利益になるとしても、僕は君が『原因不明の頭痛』で苦しむのは嫌なんだ」
「いっそのこと、あなたとの思い出を全部消してよ! イヴォンヌ様にしたように!」
「できないよ。そんなことをしたら、今までどころの話じゃなく君に負担を掛けてしまう。いくら恨んでくれても構わない、僕は君に魔法を使わない。ミリーのことを愛してるから」
自棄を起こして最後は絶叫したカモミールの懇願は、ヴァージルの意思を覆すことはできなかった。
愛しているから苦しめたくない。それは別の意味でカモミールが苦しむということだ。ヴァージルはそれをわかっているはずなのに、自分との記憶を残していこうとしている。
カモミールが泣き崩れるのを見て顔を歪め、ヴァージルは全てを振り切るように工房を出て行った。
テオは号泣するカモミールを見ても何ができるわけでもないと思っているのか、ため息をついたきり無言でいる。
泣いて泣いて泣き疲れて、自分がどうして泣いているのかがわからなくなるほどになってから、カモミールは床に倒れ込んだ。もう、どうなっても構わないという気持ちが胸を占めている。
「おい、カモミール!」
さすがに慌ててテオが助け起こしてきた。やり場のない気持ちが今度はテオへと向かっていく。
「テオは、私が傷つくのは嫌だったんじゃないの? どうしてヴァージルを止めなかったの?」
「俺があいつに言ったのは、脳の機能についてのことだ。負荷を掛けすぎれば反動が出るに決まってるだろうが。……心のことはわかんねえよ。特におまえらの持ってる恋愛感情は俺には理解出来ねえ」
体が傷つくことはわかりやすい。テオも生体へのダメージという点で魔法を咎めたのだろう。けれど、人間がどういうことで傷つくかまでは理解し切れていないのだ。
カモミールはそれ以上テオに反論することはできなかった。嫉妬したり傷ついたり、自分でも何が引き金になるのかなんてわからない。自分でわからないものをテオにわかれというのはおかしいと、やっといくらか筋道の立ったことが考えられるようになっていた。
「侯爵様に……お話ししないと」
「本当に言うつもりか? その情報はどこから出て来たのか詮索されるぞ。ヴァージルに関係した全員が、疑いの目を向けられる」
「それは……どうしたら」
テオの指摘が正論だったのでカモミールはうなだれた。クリスティンや店長のカリーナもまた、ヴァージルに操られていたのだ。彼女らはなんの責もないのに調べを受けることになる。場合によってはジェンキンス領で仕事をすることもできなくなるだろう。
「思い出せ、あいつが言ってたことを。成果は出てないって言っただろ? ヴァージルは侯爵家の中にまだつけいる隙を見つけられてなかったんだ。300年前にこの街を守り抜いた砦は、未だに蟻の穴も空いちゃいねえんだよ。だからこそゼルストラにとっては今時貴重な魔法使いを使ってまで、そんな計画を立てたんだ。
ヴァージルがこの期に及んで嘘をついたとは思えねえから、侵攻計画については猶予があるだろうよ。――今は、カモミールはとにかく寝ろ。その疲弊した心と頭で何ができる?」
侯爵家の庭に植えられたタイムは、かつての戦いを忘れないためのものだった。侯爵は幼い頃より先祖から伝わる想いを繰り返し聞かされてきたのだろうし、ジョナスにも同じように教育している。
きっとそれが、つけいる隙のない「砦」なのだろう。どんなに強固な砦でも、内側から崩されてしまえば使い物にならないのだから。
「そうね、今の私はこれ以上のことが考えられない。ごめんね、テオ、八つ当たりして」
「……何の力にもなれなくて、悪い」
テオの声も苦しげだった。精霊である彼に、人間の感情を全て理解しろというのは難しいことなのに、それでもテオはカモミールが傷ついたことを気に掛け、悔やんでいた。
無力感を抱えたままカモミールはエノラの家の自室に戻り、着替えることもなくベッドに潜り込む。
とにかく今は、何も考えずに眠ってしまいたかった。