翌日、カモミールは朝早くにボルフ村を通る馬車に乗っていた。この馬車の目的地はボルフ村から更に先の街であり、そこまで行こうとするとカールセンからはほぼ1日かかる。
だが、ボルフ村までは3時間もあれば着いてしまう。歩くのには面倒な距離だが、街道が整備されているおかげで行き来はそれほど大変ではなかった。
なまじ近いので、なかなか帰る気にならないのも事実だが。いつでも帰れると思っていると機会を逃すものである。
侯爵家の馬車と乗合馬車とでは、乗り心地が全く違う。馬車ってこんなに揺れるものだったっけとカモミールが疑問に思い、お尻が痛くなってきた頃にボルフ村に到着した。
夏らしく緑の濃いなだらかな丘が拓けており、その側をルフ川の支流であるメージナ川が流れている。カモミールにとっては見慣れた、のどかな光景であった。
木の柵の中で牛がのんびりと草を食み、その向こうには金色の小麦畑が広がっている。昨年の秋に蒔いた小麦が、ちょうど収穫の時期を迎えているのだ。
馬車に乗って強ばった体を、深呼吸しながら思いっきり伸ばす。
胸に吸い込んだ空気はカールセンのものよりも清々しく感じる。
小麦の収穫をしている家もあった。時々知り合いから声を掛けられるので、手を振ってそれに応える。今日は侯爵夫人に貰った服を着ていていつもよりはずっと華やかだし、髪もアップにして日除け帽子も被っているのに、何故か村人たちは一目でカモミールと気づくようだ。
「お父さーん、お兄ちゃーん、ただいまー!」
小麦畑にいる家族を見つけ、カモミールは大声で呼びかけた。すると麦の中に隠れていたこどもがひょこっと顔を出してこちらに向かってくる。
「ミリーだ! おかえりー!」
カモミールの半分ほどの身長の少年が走ってきて、彼女に飛びついた。カモミールよりも色の薄い赤毛に、よく日焼けした肌がいかにも農家の子供らしい。
「ロルフ? おっきくなったわね!」
「だって、おまえ1年以上帰ってこなかっただろー? そりゃオレもおっきくなるよ!」
胸を張って答えるロルフが、まるで小さいテオのような言い草だ。
ロルフは長兄のイアンの息子で、今年で9歳だ。カモミールの年齢はイアンとロルフの中間なので、甥っ子ではあるが同じ家で暮らしていたし歳の離れた弟のようにも思っている。
「エミールは?」
「エミールとアビーは、ジュリアンたちと一緒に小さい子のお守りしてる」
「そっかー。じゃあ一旦家に行ってそっちを手伝おうかな」
イアンには5人のこどもがいて、エミールとアビーは次男と長女だ。まだ8歳と6歳だが、もっと小さい子のお守りはできるので、村のこどもたちが集まって一緒に遊びながらお互いに目を配っているのだ。
カモミールもロクサーヌの薬で病気が治ってからは、家を出られるようになったので村のこどもたちと一緒に遊んでいた。時には大人が一緒に遊んでくれるときもあり、夏はメージナ川で舟遊びをすることもある。
こどもだけでは絶対に川に近付いてはいけないと言われていたので、川で遊べるのは特別な楽しさであり、その舟遊びの最中に川に落ちたのは忘れられない思い出だ。
「あの時、ヴァージルってばすっごい焦った顔で……あれ?」
川で溺れるカモミールに向かって、短い腕を必死に伸ばしてきた幼馴染みのことははっきりと憶えている。なのに、何故かその顔だけが思い出せない。ヴァージルの幼い頃なら、きっと今のように金髪がふわふわとしていて、女の子と間違えられるような可愛らしい顔をしていただろうに。
それはカモミールの想像する「きっと幼い頃はこんなだっただろう」というヴァージルであって、それ以上のものではなかった。
「ミリー?」
ぶるりと体を震わせたカモミールを、ロルフが不思議そうに覗き込む。そのこどもらしい声にカモミールはハッとした。
「なんでもない。一度うちに行くね」
「おーい、ミリー。そんな綺麗な服で外仕事の手伝いをしようとするなー。家でシェリーの手伝いをしてやってくれ」
「わかった!」
兄が声を掛けてきたので、大きな声でそれに応じる。義姉のシェリーは今年の初めに出産したばかりだ。なかなか体調が回復しなかったらしく、最近まで伏せっていたらしい。
ロルフが畑に戻り、カモミールは家へと向かう。ブドウ畑を通り抜け、ちょうど見頃のラベンダーの花畑を越えれば、赤い屋根の大きな家に辿り着いた。
故郷を離れて気づいたのだが、カモミールの実家はとんでもなく大きかった。カールセンの基準で言うと、家6軒分くらいの広さがあるだろうか。
カールセンでは土地が限られているので家の敷地は小さく、上に建物が伸びるのが当然だった。
タルボット家は農家といっても豪農であり、近隣で土地を手放してしまった人などを従業員として雇っていて、場合によっては家に住まわせている。家が大きいのはそのせいだった。
ドアについたノッカーでゴンゴンと音を鳴らし、カモミールは家へ踏み込んだ。明るい場所から急に入った暗い家の中では、視界が緑色に染まってよく見えない。
「ただいまー! お母さん、シェリーお姉ちゃん、ミリーだよ」
「ミリー? あんた帰ってくるときには連絡くらいしなさいよ! 帰ってくるって言ってた時から半月も経ってるじゃない!」
ほあほあと泣いている赤子をおぶった母が奥から出てきたかと思ったら、いきなり叱られる。カモミールが行き当たりばったりの帰省をするのはいつものことだが、思わず首をすくめてしまう。
「ごめんなさい! いろいろあったの」
「そのいろいろはこっちで聞くわ。今回はどのくらいいるの?」
「明日には帰る。お兄ちゃんに馬車で送って欲しいんだけど」
「だから前もって手紙をよこしなさいって、何度も口を酸っぱくして言ってるでしょう! 見てきたと思うけど、今小麦の刈り入れの真っ最中よ。ハーブも収穫しないといけないじゃない」
「ハーブは自分で収穫するから! あ、これお母さんとお姉ちゃんたちにお土産。私の新しいブランド『ヴィアローズ』の化粧水と石けん。化粧水にはポーションが入ってるからすっごい効くわよ」
「シェリーに直接持って行ってあげて。ナンシーを産んでからなかなか体調が戻らなくて、肌荒れも酷いのよ。きっと喜ぶわ」
母は背中におぶった赤ん坊をカモミールに示した。濃い金髪がくるくると巻き毛になっている赤ん坊は、泣いてはいるがふくふくとしていてとても元気そうだ。ほっぺたをつつくとあまりにもちもちなので、いつまでも触っていたくなる。
「やーん、この子がナンシー? 可愛いねえ。エミールと同じ髪の色だ。この顔はお姉ちゃん似かな」
「イアンとシェリーのいいとこ取りよ。生まれたときはイアンの顔だったけど、ちょっと経ったらシェリーっぽさが出てきたわ。大きくなったら美人になるわよ」
「お姉ちゃんはどこ?」
「マーサと一緒に昼ご飯の準備中よ」
マーサはタルボット家で働く従業員のひとりだ。夫と3人のこどもがいるが、それぞれ畑に行ったりこども同士で過ごしたりしているのだろう。
今この家には、大人だけでも8人、こどもも含めると20人近い人数が暮らしている。その人数分の昼食を用意するのは一仕事なのだ。
「私の部屋空いてる?」
「空いてるわけないでしょ。今年から女の子部屋にしたわよ。一緒に寝るか、居間で寝るかどっちかにしなさい」
「や、やっぱり……」
元は姉のプリシラとカモミールが一緒に使っていた部屋だ。カモミールが成人してカールセンに出た頃と、プリシラが嫁に行った時期が重なったので、他の人に使わせるから部屋を空にしろと散々言われていた。
カモミールの帰省が比較的頻繁だったことと、片付けが全くできなかったことで今まで放置されていたが、従業員一家のこどもの中でもある程度大きくなった女の子たちのためにとうとう使われてしまったらしい。おそらくカモミールの荷物は物置の中だろう。
一度義姉の顔を見てから荷物置いてこようと、カモミールは台所に向かった。広い台所では濃い金髪をまとめた長身の女性と、全体的にまるっとした印象の女性がふたり、忙しく立ち働いている。
「シェリーお姉ちゃん、マーサさん、ただいま」
「ミリー! ちょっと、なんであんた事前に知らせるって事をしないのよ」
母と同じ反応をする長身の義姉に思わず苦笑する。時々、血が繋がってるのはイアンではなくてシェリーではと思うほど、彼女は母と似ていた。
「もっと早く帰ってくるつもりだったんだけどね、いろいろ立て込んでて帰れる状態じゃなかったの。お姉ちゃん、体調どう? 前に手紙で酷かったって書いてあったから心配したんだけど」
「貧血は治まらないし、髪はめちゃくちゃ抜けるし、参ったわ。歳って怖いわよー。ミリー、あんたもそろそろ結婚しないとこども産んだときに大変よ? 体力が追いつかなくなるんだから」
「結婚……」
農村は都市部に比べて結婚が早い。カールセンでは20歳でも結婚していない人間が多いが、ボルフ村ではカモミールは行き遅れ扱いをされるのだ。
今までは「あー、はいはい」と聞き流してきた言葉だが、恋人ができたことで今のカモミールには少し違って聞こえる。
ガストンのプロポーズを目の前で見たこともあり、ヴァージルに対してささやかな不安を感じてはいるものの、結婚という言葉がカモミールの中で現実味を帯びてきたのだ。
ヴァージルに関して引っかかることは、「彼に関して、不自然に忘れていたけれど思い出したことがある」という一点だけだ。必ずしも彼が直接的に関わっているとは断定できない。
それさえなければ、このままそう遠くない時期に彼と結ばれるのだろうなとなんとなく思っているし、そうでありたいと思っていた。
「ミリーちゃん、もしかしていい人ができたの?」
カモミールのいつもと違う態度に気がついたのだろう。マーサが興味津々の顔で尋ねてくる。
「う、うん。まあね。あ、お姉ちゃん、これお土産の新しい化粧水。それと、内緒で渡したいものがあるんだけど、ちょっといい?」
「わあ、ありがとう! ミラヴィアの化粧水って凄くいいのよね。マーサ、ごめん、ちょっとだけお願い」
「新しい私だけのブランドだから、ヴィアローズっていうの。とにかく、前のとは比べられないくらい凄いんだから」
カモミールはシェリーを廊下に連れ出し、荷物から小瓶を取り出した。茶色い遮光瓶の中身は、このためにテオに作って貰ったポーションだ。
「はい、ぐっと飲んで」
「えっ、やだ怖い。何これ? 怪しい薬じゃないでしょうね?」
「効果が強すぎて、一般に流通させられないポーション。だからうちで作れることは秘密なの。体の内側の傷とかにも効くっていうから飲んでみて」
「ミリー……それを世間一般では怪しい薬って言うのよ」
さりげなく釘を刺しつつ、シェリーは瓶を開けて匂いを嗅いでいる。ポーションの香りは独特の爽やかさがあり、決して薬っぽかったり酷い匂いではないのだが、その安全確認の方法には思わず笑ってしまう。
「何?」
「いや、いい香りでも毒の場合は毒なんだけどね、と思ってさ」
薬と毒は表裏一体だ。薬効は強すぎれば体に悪影響を及ぼすし、毒も少量ならば血行を良くしたりという効果がある。カモミールが笑って見ていると、義姉は思い切りよくポーションを一気に飲み干した。
「効果が出たら教えてね」
「あんた、また人を実験に使ったわね……まあ、心配してくれてありがと」
女性にしては大きな手がカモミールの頭を撫でる。ふとシェリーに黒髪の友人の面影が重なって、ああそうか、と理解する。
シェリーはイアンより背が高いくらいで、カモミールが幼い頃は村の男の子がその事でシェリーをからかっていたのを見たことがある。
目鼻立ちがはっきりとした美人で、カモミールとは真逆のタイプだ。同じ村の出身であるから、彼女がイアンと結婚する前からの付き合いではあるのだが。
シェリーとタマラは似ているのだ。女性にしては背が高くて揶揄されていたシェリーは、表面上はそれを気にすることなく凜として前を向いていた。だから、自分を貫こうとしているタマラを、初めて会ったときから受け入れられたのだろう。
「これ、どのくらいで効いてくるの?」
「うーん、とりあえず明日の朝起きたとき、体が軽くなってるといいなーって感じ? じゃあ、私着替えて台所手伝うね」
「頼むわ。荷物は居間に置いておいたらいいわよ」
シェリーの言葉に頷き、カモミールは居間へと向かった。