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第123話 冬の太陽と春の若草

 土曜日の夕方、約束通りマリアが工房にやってきた。

 服はカモミールが侯爵夫人から貰っているのでマリアに着られそうな物を貸すということになっている。


 けれど、その服はガストンがマリアのために選んだプレゼントであり、しかもガストンも一緒に食事に行くとはマリアは知らない。

 マリアは、カモミールとヴァージルとタマラと一緒に食事に行くつもりでいる。


 カモミールはタマラがデザインしたバラ色のワンピースを着ていた。今日は胸元にブローチを付けていないが、目立つ宝石を避けたのはマリアに気後れさせないためである。

 マリアが来たときにはちょうど化粧の仕上げの段階だった。既に髪は結い上げてあって、ブローチを付けない代わりにヴァージルから贈られた真珠の髪飾りを付けている。

 どうせならばおしゃれをしたいし、髪飾りならマシューに貰ったものもあるのでそれをマリアに貸すこともできる。


 マリアはカモミールを見て、目を見開いてかなり驚いていた。それもしかたないだろう。今日のカモミールは、目が切れ長に見えるように化粧をして、いつもよりも遥かに大人っぽく見せているのだ。


「お化粧って、本当に凄いのね」

「ヴァージルは凄く腕が良いんですよ。どういう目の形だったらどこにラインを入れたら良いかとか、とても詳しくて」

「お褒め頂きありがとう。クリスティンで働いて4年だからね、たくさん勉強してきたんだ」


 ヴァージルの言葉がカモミールの記憶に引っかかる。何か、違和感があった。


「4年だっけ? 私がカールセンに来たときにはクリスティンで働いてた気がしたけど」

「ううん、ミリーからロクサーヌさんに紹介して貰って、ロクサーヌさんの紹介で働き始めたんだよ。忘れちゃった?」


 何故だろう。そう言われてみるとそういう気にもなるが、そうするとクリスティンの前にヴァージルがどこで働いていたかが思い出せない。

 ヴァージルに関する記憶が所々抜けている気がして、カモミールは背筋を冷たい手で撫でられたように震えた。


「どうしたの?」


 ぶるりと震えたカモミールに対して、ヴァージルは心配そうに緑色の目を向けてくる。

 彼の目には、カモミールに対する心配以外の感情は見られない。カモミールが見慣れた、過保護な幼馴染みでもある恋人の眼差しだ。


「ううん、なんでもない」


 これも、何者かに魔法を掛けられているせいなのだろうか。自分が失っている記憶があることが怖かった。



 カモミールの化粧が終わったら、次はマリアの支度の番だ。カモミールはテオとヴァージルを工房の外に出して、ガストンに託された服をマリアに見せる。


「この色、この前見て気になっていた服とよく似てますね。きっと私じゃ、選べない色」


 小さな花が綻ぶようにマリアは微笑んだ。彼女はその事を踏まえてカモミールがこの服を貸してくれたのだと思っているようだ。


「マリアさんは選ばないかもしれないけど、きっと似合う服ですよ。先に着替えてから髪を結い直してお化粧をしましょう」


 レースの付け襟を出して見せると、マリアの顔がパッと輝く。彼女が店でうっとりと見ていたものとは違うが、手編みのレースは繊細な意匠でなかなか手に取りづらい値段だ。


「素敵……こんなものまでお借りしてしまっていいの? 汚してしまったら大変だわ」

「隣の家に間借りしてるんですけど、大家さんは熟練のレース職人なんですよ。見せて貰ったこともあるけど、びっくりするくらいの速度で複雑な模様を編むの。私は今日付け襟のいらない服だから、マリアさんが付けてください。この前レースを見ていたでしょう?」


 自分の持ち物だとは言わずに、エノラの話を出してカモミールは誤魔化した。マリアはレースを見ていたことをカモミールに指摘されて、少し困ったように眉を下げる。


「ええ、改めて見ると、機械編みよりもやっぱり綺麗って思って。……でも、私には」

「待って! その先は言っちゃ駄目です。今日マリアさんは綺麗にお化粧するんです。そのマリアさんに似合うと思った服ですよ」

「……そうね、ごめんなさい」


 マリアを見ていて、つくづく卑下癖は困ったものだと思うようになった。ちょっと前までは自分もこうだったのだと思うと頭が痛い。


「やっぱり! よく似合いますよ!」


 明るい緑色の服は、色白のマリアの顔をより明るく見せる効果があった。着ている服が違うだけで、化粧をしなくとも雰囲気がかなり変わっている。


「まるで春の若草みたい……着ているだけで気持ちが明るくなるようだわ」

「マリアさんは、冬の太陽とか春の若草とか、表現が詩的ですよね。羨ましいな、私にはそういう感性が乏しくて、商品の名前を付けるときにいつも困ってるんです」

「詩を読むのが好きなの。でも、そういう風に言われるのは意外だわ。『真珠の夢』とか――ああ、そういえばあれは、侯爵夫人が名付けをされたのだったわね」

「そうですよ、私が付けたら『輝く粉』とかになっちゃいますからね」


 ふたりでクスクスと笑い合いながら、カモミールは工房のドアを開ける。着替えたマリアを見て、ヴァージルがにこやかに笑った。


「お似合いですよ! 顔色もよく見えるし――うん、これならお化粧は」


 ヴァージルはカモミールに使ったのとは違うアイシャドウを手に取った。カモミールのまぶたは青で彩られているが、彼が選んだのは赤みの入った紫だ。

 ピンク色では幼さが出がちだが、紫に色が寄ると目元が優しく見える。ヴァージルはマリアの雰囲気から、優しげな容姿を際立たせようと思ったのだろう。


「失礼しますね。目を閉じててください」

「お、お願いします」


 椅子に掛けたマリアの前髪を、ヴァージルが化粧の邪魔にならないようピンで留める。傷を晒すことになってマリアは緊張を見せたが、ヴァージルは店で客に対して接するように動じる様子はない。


 ヴァージルが化粧水をマリアの肌に押し込んでいく。続いて、カモミールが魔女の軟膏を使って作った特製の下地クリームを塗ってから、クリーム白粉を塗り広げる。

 火傷の痕には特に念入りに塗り重ね、傷は気を付けて見ないと見えない程に隠れた。


 彼が他の女性に触れていることに、カモミールは少しもやっとした気持ちを抱いた。

 そして、そんな気持ちを抱いたことに、自分でも何故か安心する。


 ――それは、自分が間違いなく彼のことを好きだからこそ起きた感情だからだ。

 彼に関する記憶が抜けていることで疑念を抱いてしまったが、やはりヴァージルのことを愛する気持ちは誰かに操られたものではないと、カモミールは実感できた。

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