カモミールがガストンに軟膏を分けて帰宅すると、ちょうどヴァージルが一足早く帰宅したところだった。
「お帰り。侯爵様の視察はどうだった?」
早速カモミールを抱きしめながらヴァージルが尋ねてくる。まだ少し慣れない近すぎる距離に、カモミールは少し遠慮気味に彼の体を抱き返す。
「石けん作りと香水の調香をお見せしたわ。ご満足頂けたみたい。今はガストンのところに行ってきたの」
「ガストンさんのところへ? なんで?」
急に体を離してヴァージルが険しい顔で訊いてくる。彼の中ではそれは「おかしいこと」なのだろう。
カモミールは昨日の出来事についてヴァージルに話していなかったことを、今更のように気づいた。1日の内でいろいろ起きすぎて、最終的に「魔女の軟膏」で頭を悩ませてしまったせいだ。
「ごめん、話すの忘れてた。……そういえば、今日夕食を食べに行こうって言ってたわよね。時間は大丈夫だから行きましょ? その道々で話すわ」
「忘れてたって……もう。じゃあ、朝言ってたお店に行こうか。服はそのまま?」
ヴァージルは少し呆れた様子だったが、彼はカモミールが何かに夢中になると別の何かが片手落ちになることを知っている。
侯爵夫人に服をたくさん貰ったおかげで、今着ている紺のワンピースは完全に工房での仕事用になっていた。評判のお店というなら、少しはおしゃれをした方がいいだろうと着替えることにした。
髪は編んだままアップにしてピンで留め、以前タマラに貰った水色のリボンを飾る。あんず色の髪に水色のリボンは映えて、初夏に相応しい爽やかさだ。
それに合わせて、クローゼットの中から水色の服を選んだ。裾にぐるりと白いフリルが付いていて、それ以外の装飾は同じ白を使った首元からウエストまでのボタンと、ウエストを軽く締めるためのリボンだけだ。侯爵夫人から貰った服の中ではかなり可愛らしさが控えめな方である。
クリーム白粉を手に取って手のひら全体を使って顔に塗り、眉を少し描き足して目元に軽く色を入れ、あまり色の強くない口紅を塗る。
このやり方を見たらヴァージルが卒倒しそうだなとは思うが、クリーム白粉はカモミールの「お化粧が面倒」という気持ちから生まれた物だから仕方ない。
化粧としては最低限のレベルだが、そもそも化粧品は高価だ。カモミールは制作者だから潤沢に使うことができるが、やはり「ここぞ」という場面以外では使う気にならない。
「お待たせ。行きましょう」
「品のいい服だね、よく似合ってるよ。それも侯爵夫人から?」
「そうよー。クローゼットはパンパンになってるわ。ありがたいことだけどね。でも、マーガレット様は可愛い服がお好みみたいなのよね……」
バッグを持って階下へ降りると、ヴァージルが当たり前のように褒めてくれ、腕を差し出した。その腕に自分の腕を絡めながら、カモミールは一杯になったクローゼットを思う。庶民としてはまずない程の服持ちになってしまった。大事に着れば長く保つものだからいいのだが。
自室で仕事をしているらしいエノラに声を掛け、ふたりはヴァージルがミナから聞いたという店へ向かう。その道すがら、カモミールは昨日ガストンを見かけたことから説明した。
ヴァージルの中でのガストンの印象は、カモミールを追い出した時点で最悪になっているらしい。この二ヶ月の間で気持ちが変わったのだろうと一昨日は言っていたが、それはそれ、これはこれということなのだろう。
「それで、ガストンさんと和解したの? ミリーは優しすぎるよ」
苦い表情を隠しもせずにヴァージルがため息をつく。
けれど、カモミールの中にも、あの葬儀の日にガストンが吐露した気持ちをわかる部分はあるのだ。だから、自分が優しすぎるとは思えなかった。
「そうは言うけど、私がロクサーヌ先生から実の娘みたいに可愛がって貰ったのは事実だしね。実の子であるガストンから見たら、やきもちを焼いてもしかたないと思えるんだもん」
「うーん……そこなんだよね。僕が知ってるのは、実の子じゃなくても我が子同様に愛情を注いでくれた人だったり、血の繋がっていない弟ができても可愛がってくれる人だったり……あ、もちろん僕の話じゃないよ? 僕が知ってる話ってだけだからね」
「わかってるわよ。私が知ってる限り、ヴァージルがどこかから養子に来たりとかそういうことってないもの。でもね、よく考えたら私たちみたいに『血が繋がってなくても愛して貰えて、それが当たり前だった』って思う人間の方が少ないのかもしれないわ。
だいたい、血が繋がっててもやきもちくらいするもん。うちのお姉ちゃんとか凄かったわよ。私が末っ子で、小さい頃は家からほとんど出られなかったから余計だと思うけどね」
結局、自分たちには「嫉妬する側」の気持ちを完全には理解出来ないのだろう。
理解はできない。だが、そういう人もいるのだということは憶えておかなければならない。
「それに、私にとってはガストンよりもマリアさんが――あれ? このお店前に来たことあるわ!」
「ええっ、そうなの!? 悔しいなあー。誰と来たの?」
ヴァージルがカモミールを連れてきた店は、以前サマンサとドロシーが工房に遊びに来てくれたときにキャリーも加えて4人で行った店だった。
侯爵邸の内部だけではなくてクリスティンの中でも噂が回っていると言うことは、やはり評判が高いのだろう。ケーキが美味しかったことは前回確認済みである。
「侯爵邸の侍女でお世話になったサマンサとドロシーが遊びに来たときにね。ここのお店がいいって、侯爵邸で働いてる人たちの間でも評判になってたらしいわ。前に来たときは軽いお昼とケーキを食べたけど、美味しかったから『ここは憶えておかないと』って思ったの」
「そっかあ……うん、でもミリーが美味しいってわかってるお店ならいいかな。ミリーは友達が多いから、いろんなところから情報が入ってくるんだね。僕は友達は少ないからなあ」
ヴァージルに友達が少ないというのは意外な話だった。誰にでも親切で人当たりがいい彼のことだから、友達はたくさんいるだろうとなんとなく思っていたのだ。
けれどよくよく思い返してみれば、エノラの家に引っ越して以来毎晩カモミールと食事に行っているくらいだから、親しい友人は本当に少ないのかもしれない。
「私、ヴァージルにはたくさん友達がいるんだと思ってたわ。なんとなくだけど」
「会えば挨拶してちょっとおしゃべりする、ってくらいの知人ならたくさんいるよ。でも、友達ってはっきり言えるのはタマラさんくらいじゃないかな」
「えっ? てことは、最近まで私しか友達がいなかったってこと?」
ヴァージルとタマラが仲良くなったのは最近のことだと知っている。それにカモミールは驚いた。
もしかすると、カモミールの基準での「友達」と、ヴァージルの基準での「友達」は違うのかもしれない。サマンサとドロシーはカモミールにとっては友達だが、ヴァージルがカモミールの立場になった時、彼女たちは「知人」に振り分けられるのかもしれないと思った。
「てことは、テオも友達じゃなくて知り合いのくくりなのね」
「テオ? テオは……ううん、彼はどこに割り振ったらいいかわからないな」
「ごめん、そう言われると私もテオをどこに割り振るかよくわかってなかったわ」
悩み始めてしまったヴァージルにカモミールは謝った。
カモミールにとってテオは友人であり、部下であり、一部は師匠的な面も持つ。それ以前に工房の付属品的な捉え方もあるし、向こうは「カモミールが持ち主だから」と従っているが、親愛の程度ではどのくらいなのかもわからない。
ひとつ言えるのは、テオ自体は気安い性格だし、彼を野放しにしたら「友達」はたくさんできるんだろうなということである。キャリーとはよく言い合いをしているが、あのふたりは決して仲が悪いわけではない。マシューも古くからの知り合いとしてテオを扱っているし、そこは対等な関係に見える。
カモミールが悩んでいる間に、ヴァージルは店に入って予約していたと名前を告げる。その準備の良さにカモミールは驚いたが、周囲を見れば席はほとんど埋まっており、この店の人気が窺えるというものだ。
通された席は1階の奥まった場所にあり、それほど遠くない場所に4人の演奏者がいて弦楽器を弾いていた。昼間来たときも「富裕層向け」と思ったが、夜になると更に雰囲気が高級になっている。
ただ、席数が多いので「富裕層しか入れない」という店ではないようだ。本物の富裕層ならば2階以上にある個室を使うだろう。
「ヴァージル、準備がいいわね。予約までしてくれてたなんて。もし私が間に合わなかったらどうするつもりだったの?」
ヴァージルがコースとワインを注文してウェイターが下がったのを確認し、カモミールは周囲の雰囲気を壊さないよう小声で尋ねた。
「だって、ミナさんが『お茶の時間も混むけど夜はもっと混む』って言ってたからね。今朝のうちに席だけ押さえておいたんだ。本当に、予約しておいて良かったよ。
ミリーが来られなかったら、エノラおばさんに声を掛けようかなって。普段お世話になってるしね」
「エノラさんに……」
周囲は男女のカップルが多い。その中に、歳の離れた親子か祖母と孫にしか見えないエノラとヴァージルが混じったらどうだったろうかとカモミールは想像した。なかなか想像が難しい。
「あなた、本当に友達いないのね……」
「それもあるし、こういうお店に一緒に来たいって思える相手が、ミリー以外いないだけだよ」
当たり前のように言って幸せそうにヴァージルが笑う。それは友達がいないということではなく、ふたりきりでこういう店で食事をする相手はカモミール以外に考えられないということらしい。
さすがにカモミールも苦笑はしたが、恋人にそう言ってもらえるのは悪くない。
その後は、雰囲気の良い店で食事を楽しむことに専念した。
意外だったのは、料理の値段の方だ。もっと値段がするかと思っていたのだが、十分に量と種類があり、美味しい料理を味わえて、ひとり当たり8000ガラムだった。酒を含めても1万ガラムに届かない。
普段屋台では1000ガラムも掛からないので高価なことに間違いはないが、とっておきの日になら、と思える金額だ。
「そうそう来られるわけじゃないけど、本当に良いお店ね。もっと高いんだと思ってた」
「僕たちが頼んだコースは下から2番目のだったからね。上を見たら3万ガラムとか凄いコースもあったけど。そういうコースを頼む人はきっと個室だよ」
なるほど、とカモミールは頷く。確かに、この価格ならデートなどでここが気合いの入れどころという時に来られるだろう。
店から出るとき、カモミールはもう一度店内を見回した。
客は大勢いるが、同じテーブルに着いている者同士しか目に入っていないようだ。雰囲気はとてもいいし、マナーをうるさく言われるような場でもない。1階はテーブルも多いから目立つことはないし、個室なら尚更だろう。
マリアとガストンをこの店に連れてくるのはどうだろうと、カモミールはその時思いついたのだった。