翌朝、カモミールは起きた途端に左手を見て戦慄した。
昨日傷つけた指が、どこに傷を付けたかわからないほど綺麗に治っていたのだ。
これを何回か塗れば、マリアの傷痕も確かに消えるだろう。
問題は、効果があまりに強力すぎて、現代錬金術の常識から遥か遠くに離れてしまっているところである。
「違和感がない程度に効果を弱められないかしら……でもそうすると古傷を治すことができなくなる? うーん……」
悩みながら髪を梳いて三つ編みにし、着慣れた紺色のワンピースを着る。工房で仕事をするときはこの上に白いエプロンを着けるつもりだ。
1階へ降りて顔を洗い、エノラに挨拶をしながらカモミールはふと彼女に尋ねてみた。
「エノラさん、古い傷痕とかありませんか?」
「古い傷痕? ええ、いくつかあるわよ。この左手のここが、新婚時代にうっかり包丁で刺しちゃった痕でしょう? それと普段は見えないけど、左の太ももに子供時代ウサギに蹴られてできた10センチくらいの傷があるわ」
「ウ、ウサギに蹴られて、ですか」
左手の手のひらにある傷は、見れば5ミリ程度のもので言われないと気づかない。そして太ももの傷など普段は見えるわけがない。
彼女とは一緒に風呂に入ったこともあるが、他人の裸をじろじろと見る趣味はカモミールにはないので、それも気づかなかった。
「ウサギを繁殖させて売っていたのよ、私の実家」
「そうだったんですね……」
カモミールも農家育ちなので、ウサギの見た目に寄らない攻撃力は思い知っている。
野ウサギが猫を後ろ足で蹴り飛ばし、大怪我させたのを目の当たりにしたこともあった。
「変な話で申し訳ないんですが、ひとつ試して貰いたい新製品があって」
「古傷が消えるかどうかが問題なのね?」
さすがエノラは話が早い。カモミールは素直に頷いた。
「しばらく使い続けて傷痕が消えればいいんですが……」
「そのくらいお安い御用よ。手のひらは塗るものによってはお仕事に差し障りがあるから、足の傷で試してみるわね」
「ありがとうございます」
確かに手のひらに軟膏を塗ってしまうと、レース編みを仕事にしているエノラにとっては邪魔だろう。
テオに相談し、適当な基剤で希釈してもいいかどうか確認しなければならない。
「おはよう、ミリー。今日も可愛いね」
「おはよう、ヴァージル。なんか、あなた変わったわよね」
階段を降りてきたヴァージルが、体を屈めてカモミールの頬にキスをしてくる。彼は一昨日エノラに恥ずかしい形でふたりの関係がバレて以来、遠慮がなくなった。他の人がいても平然と愛情表現をしてくるのだ。
「あらあら、朝からお熱いこと、うふふふふ。ヴァージルちゃんが幸せそうにしてるとこっちも幸せになるわね」
「エノラおばさんもおはようございます。だって、今こうしてるのがとても幸せなんだ。僕にはこんな幸せ、手が届かないものだと思ってたから」
「どうして?」
カモミールにとっては、長いことヴァージルは一番信頼の置ける友人だった。関係性は友人だったが、今までこんなに親身にしてもらって彼を好きにならないわけがないし、一度はカモミールの方から告白しているくらいなのだ。
今は収まるべきところに収まったという気がする。何故ヴァージルが関係の進展を諦めていたのか、カモミールには理解出来なかった。
「どうしてだろうね? 案外、僕の思い込みだったのかもしれない。そうだ、ミナさんから評判のお店を教えて貰ったんだよ。今晩行かない?」
「今晩……今日の午後ね、侯爵様が工房の視察にいらっしゃるの。ちょっとどうなるか予測付かないのよね」
「えっ、あの工房を見に来るの? ミリー、その服で大丈夫?」
「普段通りの仕事を見ていただくつもりよ。だからいつも通りこれにエプロンでいいの」
何やらヴァージルは考え込んでいるようだが、すぐに何かを諦めたようにため息をついた。
「そうだね、いつも通りの仕事を見てもらうのがいいと思う。ミリーの工房以外にも視察ってするのかな? もしかしてうちの店にも来たりする?」
「領内の産業について視察なさりたいそうよ。おいおいいろんな工房やお店に足を運ばれるんじゃないかしら」
「大変そうだけど、領民にとってはありがたいことだよね」
しみじみとヴァージルが頷いたのでカモミールも頷き返した。
侯爵はいい領主だと思う。カールセンは比較的治安もよく、領都だけあって様々な店もある。そして何より、侯爵家の人々の人柄を知っていて彼らに好意を持っているカモミールにとって、侯爵を褒められるのは嬉しい。
「私もそう思うわ。カールセンで工房を構えられてよかったと思うもの。さーて、今日も頑張るぞー」
気合いを入れるカモミールを、ヴァージルは眩しいものを見るように目を細くして見つめていた。
工房で仕事が始まり、カモミールが「午後に侯爵が視察に来る」と伝えると、マシューががくりとうなだれた。
「何故そんな大事を先に言わないのかね……」
「すみません、昨日マシュー先生のところへ寄った後、急遽決まったんです。普通の仕事なら明日以降、石けん作りが見たければ今日がいいですよとお伝えしたんですけどね」
「そ、そうか、侯爵様は石けん作りを見たいと!」
ころりとマシューの態度が変わったので、カモミールは苦笑した。
昨日のうちに伝えておいたキャリーはいつも通り、そしてテオは「自分には関係ない」という顔をしている。
キャリーとマシューがレシピの検討に入ったので、カモミールもテオに「魔女の軟膏」について相談することにした。
「テオ、『魔女の軟膏』って凄いのね。昨日切ったところに塗ったでしょ? 今日はもう傷が消えてるのに驚いたわ」
手を見せると、テオは当然だと言わんばかりに胸を張る。けれどカモミールは、これでは駄目なのだと肩を落として見せた。
「でも、効き過ぎるのよ……。こんなに急激に治ったら怪しまれるわ。他の基剤に混ぜて薄めても大丈夫? 理想としては、数ヶ月掛けて傷が消えるくらいがいいんだけど」
「おいおいおい、何言ってんだよ。薬なんてものは、効果を高めることを追求して作られてきたんだぜ? 副作用がないなら、わざわざ効果を薄くする奴なんて聞いたことがねえ」
テオが憤慨する気持ちもわかるが、昨日の効き目を見た時点でも「外に出せない」と思ったほどなのだ。
あれをそのままマリアに使ったら、彼女の頭を殴ったりするか何かで「怪我をした記憶まるごと消す」くらいのことをしないと帳尻が合わなくなる。
それほどまでに、現在の医学からはかけ離れすぎている。そのまま使うことはあり得ない。
「今の錬金術師には作れないものなのよ? 確かにあれなら古傷まで癒やすことは出来ると思うけど、現代の医学ではそれはあり得ないことなの。
そうすると、ここに常識をひっくり返す特別な何かがあると、周囲に知られてしまうでしょ。それは凄く危険なことよ。
例えばそれが『肌を特別美しく見せる化粧品』ならそれほど危険じゃない。でも薬よ? 一歩間違えれば軍事利用に繋がりかねないものよ? 今の世の中にあれを出してはいけないの。昨日侯爵様と話してテオもわかったでしょう?」
「あの侯爵ならそういう間違った使い方はしねえだろうが、……まあ、な。確かに効果が強い薬は軍が欲しがりそうなもんだぜ。それも、この国じゃなくて隣国の軍が」
苦い顔をしているテオは、この地が戦場になったときのことを思い出しているのだろう。
「はー、俺は試したことねえから、自分でやってみろ。薬を薄めたからって長期的に見て同じ効果が出るって保証は何もねえぞ? むしろ弱い効果しか出ない可能性が高い」
「それは――私も思ってる」
カモミールは悩みながら昨日の残りの白アロエの葉を手に取った。皮を剥き、細かく刻んでから、乳鉢に入れて磨り潰して滑らかなペースト状にする。そこにラベンダー精油を足して、できあがったものと同じ分量の化粧落としクリームを混ぜる。
これだけでも美容クリームになるだろう。肌に水分と油分を補い、ニキビなどの元になる菌を殺すこともできる。
慎重に計量をして、そのクリームに対して1割の量で「魔女の軟膏」を混ぜる。すると化粧落としクリームと大差のない薄い黄色のクリームができあがった。
「これで、古傷が薄くなればいいんだけどね……」
何度か試して分量の調節が必要になるかもしれない。長期戦を覚悟しながらカモミールは容器にクリームを詰め、エノラの元に持って行くことにした。