トムに案内されてカモミールとテオは温室に向かった。温室に入るのは、イヴォンヌに服を借りて侯爵夫人とお茶会をしたとき以来だ。
濃い緑の匂いと、湿度を含んだ空気がカモミールを包む。外の湿度はそれほどでもないのに、温室の中は蒸し暑い。
「やあ、カモミール嬢、久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
思わぬところから声が掛かり、カモミールは思わず固まった。
既に温室にいて話し掛けてきたのは、ジェンキンス侯爵その人だったからだ。
「侯爵様! ご機嫌麗しゅう存じます。この度はお許しをいただきありがとうございます」
まさか侯爵が温室に来ているとは思わなかった。カモミールが脳内のグリエルマに「慌てない!」と叱られながら礼をすると、彼は鷹揚に頷く。
「王都でのお披露目会では活躍したそうだね、妻からの手紙に書かれていたよ。売り上げも今までとは比にならないほどだったそうじゃないか。いや、何よりのことだね」
「お褒めに与り光栄に存じます。皆様のおかげをもちまして、数々の商品を送り出すことができました」
「それで、この温室に生えているらしいアロエが欲しいと聞いたんだが……どれだろうか」
周囲を見回す侯爵に、トムが「こちらです」と案内をしていた。
トムの案内にカモミールとテオも付いていく。テーブルセットが置かれた場所からはかなり奥まったところに、大きく育った白い葉のアロエがどんと植わっている。
「これだ、間違いない。全滅してなくてよかったぜ」
やっと見つかった白アロエに、テオが目を輝かせている。カモミールもほっとして力が抜けそうになった。
「ほう、これが。そんなに珍しいものなのかな? いや、当家の温室にあるのだから、薬効のあるものではあるだろうけども」
「このアロエは白アロエと呼ばれ、大錬金術の素材に使われる創傷に大変な薬効をもつ薬草でございます。一定温度下では生育が難しいため、露地植えにされている物は通常この地方ではあり得ないほど寒波の強かった冬にあらかた枯れてしまったものと思われます」
すらすらと侯爵に対して返答をしたのはテオだった。聞いたこともないテオの丁寧な言葉に、彼を止めることもできずにカモミールは唖然とする。
「やあ、これは詳しい説明をありがとう。カモミール嬢の助手と聞いているが、君の名前を聞かせてくれないか?」
「失礼をいたしました。わたくしはテオ・フレーメ。アトリエ・カモミールで働く錬金術師でございます」
テオがこんなにまともに貴族と話せるなんて聞いていない。カモミールが固まっていると、彼は優雅に礼までしてみせる。それはヴァージルの礼のように、こなれた動きだった。
「デヴィッド・バリー・ジェンキンスだ。カモミール嬢の工房には深い知識を持った人材がいるようだね。生活錬金術ばかりか、大錬金術にまで通じているとは。
ところで、錬金術師でフレーメという家名……もしや、かの大錬金術師の
侯爵が目を眇めてテオを見ている。その目には今までカモミールに見せていた純粋な好意以外の物が含まれているようで、カモミールはドキリとした。
なにせ、テオドール・フレーメはこの地を戦場に変えた元凶なのだ。侯爵も名前を憶えているのはそのせいだろう。
カモミールがテオの突然の挙動に驚いて彼の袖を引くと、テオはにかっと笑って「心配すんな」と小声で告げてきた。
「いえ、この身は係累のない天涯孤独の身にて、錬金術を志す者として勝手にフレーメの家名を名乗っているのみにございます」
嘘ではない。テオは何ひとつ嘘を言っていない。
元が錬金釜なのだから誰とも血が繋がってないのも確かだし、勝手にフレーメを名乗ったのもそれ以外に家名を名乗りようがなかったからだろう。テオドールの名前からテオと名付けたのはカモミールなのだから、自然に考えれば家名がフレーメになるのは仕方ない。
むしろ、タルボットと名乗られないでよかったと思う以外になかった。
「なるほど、確かに大錬金術師フレーメに子孫がいるという話は全く聞いたことがない。いや、すまないね。先日も息子に昔の戦争について語ったばかりで、ついフレーメという名に過剰反応してしまった」
それも仕方のない話だろう。経緯から言えば、侯爵家は錬金術師に恨みを持ってもおかしくない家系である。それでも錬金術師に差別的なことは全くせず、役に立つ技術ならば積極的に支援してくれるのはありがたいことだ。
「技術は用いる者の心持ちひとつ。テオドール・フレーメが生み出したものは結果的に戦争を招きましたが、彼自身が悪だったわけではありません。ただ、この地に住み、知の探求をした錬金術師のひとりにございます」
「それは違いない。賢者の石を作り出し、ホムンクルスを生み出し、エリクサーであらゆる傷を癒やし金へ至った類のない大錬金術師……ああ、悪意を持ってそれらを生みだしたわけではないだろうに、彼は死後教会から破門され戦争の原因になった。
恐ろしいのは、人の欲だ。彼は飛び抜けて優れていたからこそ、強い光輝に包まれ、濃い影をもたらした。――改めて、『技術は用いる者の心持ちひとつ』とこの胸に刻むとしよう」
カモミールが今まで目にしていた侯爵は、茶目っ気があって軽い気質の人物に見えた。領主として、と威厳を表すこともあったが、本質的に気取らない人物である。
その彼が、内に重い物を抱えており、そしてそれをおそらくはジョナスにも伝えようとしている。それを改めてカモミールは思い知った。
「それで、この白アロエはどのくらい欲しいのかね? ありったけ、というのは無理だが、親株が死なない程度なら分けてあげよう」
「そうですね、この大きな葉を1枚いただければ十分にございます」
軟膏のレシピはテオの頭の中にしかないので、カモミールは答えることができず、やりとりはテオに任せるしかなかった。
白アロエは普通のアロエよりも幅広い葉を持ち、1枚でもかなりの大きさがある。それが何株もこの温室には栽培されていた。
「1枚でいいのかい? トム、切って彼らに持たせてあげなさい。それと、株分けをして鉢に定着したら工房に送るように」
「よろしいのですか?」
「なに、この温室には花も多いが、もっと多いのは薬草なんだ。薬を絶やさぬようにと備えた名残というわけでね。その白アロエで何を作るのかはわからないが、テオくんが言ったとおり創傷に効果がある薬だろうということくらい想像が付く。だったら、いずれまた必要になるときもあるだろう。
他にも欲しい薬草がここにあるならば言うといい。こういうときのためのジェンキンス家の温室だからね」
「侯爵様のご厚情に、心より感謝を申し上げます」
侯爵の思わぬ申し出に、カモミールは深く頭を下げた。他にも欲しいものがあればと言われたテオは型どおりの挨拶をすると、早速温室を見て回り始め、あちこちで「おおっ!」と声を上げていた。
それを微笑ましそうな顔で眺めながら、侯爵がカモミールに向かって尋ねてくる。
「大錬金術は廃れていく一方なのに、市場に出回っていない素材に興味を示すとはなかなか珍しいね。彼は魔力を必要とする錬成もそれなりにこなせるということかな」
「はい。実はヴィアローズの化粧水にはポーションを配合しておりまして、魔力無しのわたくしでは至らぬ部分をテオに支えてもらっております。――おそらく当代で、彼に勝る錬金術師はいないかと」
「あの化粧水にポーションが!? いやはや驚いた。最近妻が艶々として以前よりも美しさが増したと思っていたが、そんな秘密があったとは。なんとも贅沢な使い方があったものだ。
そうだ、カモミール嬢、薬草を提供する見返りと言っては何だが、以前領内の産業を視察したいと話したことを憶えているだろうか? もしよければ、やはり君の工房とその仕事を見せて貰いたいのだが」
「練り香水をご覧に入れた際のお話ですね、憶えております。――馬車も入れぬ都市の隅の古い工房でございますが、侯爵様のご希望とあらば謹んで承ります」
以前は「さすがに見せられない」と思った工房だが、あの華やかなヴィアローズがこんな環境で作られているというのも侯爵には想像できないだろう。それを隠さず見せるのも必要なことと、今のカモミールは思うことができた。
「そうか! では、できる限りそちらの都合に合わせたいとは思っているのだが、いつがいいだろうか」
「日曜と木曜が当工房の休日となっておりまして、従業員もその日は参りません。いつも通りの様子をとお望みでいらっしゃいましたら、明後日以降がよろしいかと存じます。明日は石けん作りの職人が出勤する予定で、石けんの試作を行います。石けんの製法にご興味をお持ちでいらっしゃいましたら、明日が興味深くご覧いただけるかと」
「あのマルセラ石けんとは全く違う石けんだね、あれはとても興味深い。是非見せて貰いたいものだ。それでは、明日の午後早めに訪問させて貰うことにしよう」
明日と言って侯爵がすぐに動けることにカモミールは驚いていたが、それはできるだけ表情に出さずに頷く。
明日はおそらく午前中がキャリーの出したレシピ案のマシューによる添削になり、午後が実作業になるだろう。できれば苛性ソーダ水溶液も先に作っておければ工房としては安全だ。
「かしこまりました。それでは、明日の午後お待ちしております」
「楽しみにしているよ。いや、仕事の内だから楽しむのではなく真面目に視察しなければならないな。ジョナスやアナベルには秘密にしておこう。カモミール嬢の工房に行くと言ったら付いていくときかないだろうからね」
ジョナス様とアナベル様はお元気でいらっしゃいますか――そうカモミールが尋ねようとしたとき、お腹の虫が盛大に空腹を訴えた。昼食も食べずに駆け回っていたので仕方がないが、タイミングとしては最悪だ。
真っ赤になりながらカモミールは侯爵に向かって失礼を詫びた。
「大変失礼をいたしました……。白アロエが予想外に見つからず、食事を後回しにしてしまったもので」
「ははは、それは随分と大変だったんだね。いや、淑女に向かって失礼。昼食と言うには遅いが、午後のお茶を一緒にどうかな? それならジョナスとアナベルも呼ぶことができるし、カモミール嬢に会えば喜ぶよ」
これもまた思わぬお招きだ。侯爵夫人ではなく侯爵とお茶をしたことはないが、ジョナスとアナベルが一緒ならそれは楽しい時間になるだろう。
早く帰ってテオに薬を作って貰いたい気持ちもあったが、侯爵家のお茶とお茶菓子は格別だ。カモミールは少しだけ迷い、結局食欲に負けた。
「お招きありがとうございます。侯爵様とお茶の席を共にさせていただけることは身に余る光栄にございます。ジョナス様とアナベル様にも是非お会いしたいと思っておりました」
そこへやっとテオが戻ってくる。彼はトムと一緒に温室中を回り、いくつかの薬草を分けて貰えるように頼んだらしい。
そして、それはお茶の間に小さな鉢にトムが分けて、帰りに持たせてくれることになった。
カモミールはテオのマナーだけが心配だったが、それも杞憂だった。
思わぬ回り道をすることになったが、白アロエの葉と新しい薬草を数鉢手に入れ、カモミールはお茶にも大満足して工房に帰ることができた。